ー6ー

 その図書館は、図書室と言ったほうがふさわしいほど、とてもコンパクトなものだった。

 倫太郎は、入ってすぐに用を済ませ、再び身軽になった。カウンターには年配の女性が一人いるだけで、他に人はおらず、静かだった。カウンターの前方に一般書、左手に児童書が置かれている。児童書のコーナーはカウンターから死角になっており、勉強用の机と小さな椅子がいくつか置かれていた。しばらく涼ませてもらおうと、倫太郎は椅子に腰かけ、目の前の壁を見上げた。蛍光灯に照らされた黄色っぽい壁は所々汚れ、壁紙もめくれていた。駅前の図書館と同様初めて来たことに変わりはないのに、古い紙の匂いに包まれたこの小さな図書室は心地よかった。全然知らないのに、どこか懐かしい。

 しばらくぼうっとしていると、雨が降って来た。窓を叩く雨粒はだんだんと激しさを増し、襲うような音を立て始めた。この時期よくあるゲリラ豪雨だ。しばらく待てば治まりそうではある。倫太郎は携帯を取り出し時計を見た。まだ三時前だった。

 そういえば空腹だ。朝、チーズトーストを食べたきりだ。喉も乾いた。自分の飢えや乾き具合を認識できぬほどに心が憔悴しきっているのだろうか、と考えた途端、腹が鳴った。思わずカウンターのほうを振り返る。ガラス張りの壁が一部開いていて出入りできるようになっていたが、そこには椅子と大きなウサギの人形が置いてあり、その向こうにいるだろう女性との間で壁の役割を果たしていた。

 倫太郎はそばにある書架を眺めた。大分年季の入った、薄茶色く汚れた背表紙が並んでいる。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズだ。小学校の図書室にもあった。青い帽子を被って不敵な笑みを浮かべる仮面男の背表紙が怖くて、避けていた。結局今日に至るまで読んだことがない。

 あの頃読んでいたのは、何だったか。三人組の少年が主人公の長寿シリーズに、アニメ監督が本業の作者による探偵もの……同じ登場人物達が繰り広げるストーリーの群れが好きだった。成長しない主人公達に、何度も訪れる四季。時間の流れを超越して存在する人々と町は、倫太郎を安心させた。本を開けばいつでも待っている同じ世界。倫太郎を責めず、裏切らず、何の催促も要求もしない、ただ受け入れてくれる世界。危険を伴う冒険譚だってそれは同じだ。ウェンディ、アリス、エルマー・エレベーター、カスパールとゼッペル、チルチルにミチル、ジョバンニ……彼らは必ず慣れ親しんだ家に帰って来る。それを知っているから安心して没入できる。

 いつ頃からだったろう。本の中にあるどこまでも安全で安心な優しい世界は、本の外の、いわゆる現実には存在しないのだと、倫太郎は刷り込まれていった。いや、そうじゃない。自分でその認識を選択したのだ。かつて自分を無言で受け入れた大きなものを、自分の手で終わりにしたのだ。

 社会が自分を拒否したのではない。自分がそこに足を踏み入れることを拒否した。始める前から何でも怖がった。奈穂子は倫太郎の隣で足踏みすることを、やめたいのだ。

 いつまでも動こうとしない倫太郎を、奈穂子は物以下だと言った。役割が何なのかわかっていない、とも。自分の役割とは、何だろう。それはいつ、どこで与えられるものなのか。何か合図があったのだろうか。自分には見えず、聞こえない合図が。

 求められることが、苦手だった。いつも相手の期待するものとは違うものを差し出してしまう。

 奈穂子は、自分に何を求めたのだろう――


 ふと視界の端に黒いものを捉えた。

「君」

 あの少女だった。倫太郎はさすがに呆れた。少女は呼吸の気配さえ見せずにしんとそこに立っていた。

「驚いた。そうか、雨が降って来たから? 家、近いんじゃないの?」

 少女はそれには答えず、ただじっと倫太郎を見つめた。

 違和感が生じた。倫太郎は窓の外を見た。雨が止んでいる。やはり通り雨だったのだろう、それはいい。窓が、濡れていない。少女の黒いワンピースも、少しも濡れた様子がない。

「あの看板の由来を話しておこうと思って」

 少女は静かにそう言った。あの看板、と言われ、あくまという単語を呼び起こしながら、少女の口以外が貼りついたように全く動かないことが気になった。

「女の子があの看板のそばで、男の人に道を聞かれたんです。案内させながら、そこの森の奥のお社まで連れ込んで、体を触ったんです」

 少女はそこで言葉を止めた。倫太郎は、母親や奈穂子に感じる女性性を、少女に感じた。気づいていながらあまり認めたくなかった、空間を、対象を、支配せずにはおれない女性の性質。その迂遠な物言いを前にすると、倫太郎はいつも、叱られる子供だった。

 だが相手は四年生の子供だ。倫太郎は、低い声で言った。

「何が、言いたいんだ」

「赤ずきんのお話は、グリムよりペロー版のほうがよかったと思いませんか。あんな看板より、効果があると思います」

 はぐらかすような少女の言葉に、倫太郎はわざとらしくため息をついてみせた。

「それが何か俺に関係があるのか」

「あなたは光源氏よりバスチアンに惹かれるんじゃないですか」

 少女は肩を震わせてくっくと笑った。少女のまわりの空気が、波紋を生じたように揺れる。倫太郎は我慢できずに立ち上がった。

「さっきから何を言ってるんだ。大人をからかうのも、いい加減にしたらどうだ」

 膝が、おかしいくらいに震えた。そうしてようやく、少女の顔が形容できず、記憶もできないことに気づいた。倫太郎は、黒いワンピースの少女、という記号でのみ目の前の存在を捉えていた。最初に図書館で会ったとき、橋の前に姿を現したとき、そして、今。

「見て、ほら」

 少女は、倫太郎を誘うように窓の外に顔を向けた。

 雨が叩きつけられていると思った窓は、水中に沈んでいた。倫太郎は立ち上がり、窓に駆け寄った。植え込みのカエデの枝葉が髪の毛のように水中でうねっていた。駐車場にあった車が窓の隙間からいくつもの泡を出して沈んでいる。

 自分の目を信じることができず、倫太郎は窓に顔を寄せた。遥か上の水面に、叩きつける雨の小さな波紋がいくつも見えた。

「どういう、ことだ」

 倫太郎は口の中で呟いた。そうして、右手で自分の頬に触れた。いつもと何も変わらない、生えかけの髭の感触。

「図書館で眠りこけている間に、大雨で増水した川にひとりの少女が飲まれました。バスチアンはその少女を助けようとして、結局助けられませんでした」

 窓ガラスが割れ、狂ったように水が浸入してきた。棒立ちの少女が捨てられた人形のように倒され、流れた。その体は倫太郎を囲むようにぐるぐると何度か円を描き、倫太郎の膝の前で仰向けになって静止した。

「彼は、溺れました」

「やめろ」

 水量はみるみる増し、あっという間に胸まで浸かった。それに伴って少女の体も浮上した。肘と膝、手首足首がいつの間にか球体関節になっている。ガラス玉の目がぎろりと動いて倫太郎を見据えた。

「どうして? 思い出させてあげてるのに」

「嘘だ。俺は、知らない」

 叫びながら水中でもがいた。首まで水に浸かっている。

「忘れただけでしょう。嘘つき」

 嘘つき。嘘つき。少女の声は反響しながら増幅し、幾層にもなって倫太郎の耳を犯した。

「やめろ」

 倫太郎は目を閉じ、耳を塞いで抗った。そうして頭を激しく振った。声は倫太郎の手をものともせずに耳に侵入し、脳を揺さぶった。ついに頭が水中に埋まった。

「リンは、嘘つきね」

 奈穂子の声だった。倫太郎はぎょっとして目を開けた。声は止んでいた。少女もいなかった。

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