ー5ー

 倫太郎は図書館を出て、外の階段で一階まで降りた。駅に向かって信号を渡り、バス乗り場に向かった。

 文庫本とは言え、バッグを持たない倫太郎にとってそれは荷物だった。図書館入り口にあるブックポストに入れてしまおうかと思ったが、開館中であることから蓋が閉められており、カウンターで返すしかなかった。先ほどの図書館員がまだいる以上、それはできない。また来るかどうかわからないし、もう二度と会わないだろうから、思い切って返してしまえばいいじゃないか、とも思ったが、そこまでの勇気はやはり、なかった。一分一秒とて、なるべく、世界から外れたくない。

 図書館カードとともに渡されたブックレットに、図書館の利用法と、市内の図書館分館一覧が載っていた。どこで借りても返しても大丈夫です。その字に救われた気持ちがして、倫太郎は一番近い図書館までバスで行くことにした。そこでできるだけ時間を潰し、夕方になったらまた戻ってくればいい。

 先ほどの少女には、悪いことをした。そういえば、小中学校は今、夏休みだ。夏休みの宿題で必要だったのだろうか。だがあっけなく引き下がったところを見ると、他にも候補があったのかもしれない。

 降りたのは、近くにある橋の名前を冠したであろう停留所だった。倫太郎以外は、誰も降りなかった。

 倫太郎は橋に向かって歩いた。安っぽい水色の柵に挟まれた橋は、長さ十メートルもなかった。その橋が跨ぐ川は、水源が近いのか随分と幅が狭く、水量も少なかった。川沿いに遊歩道らしきこれまた狭い道が整備されている。板チョコのような形のコンクリート護岸を覆うように緑が茂っており、それを見下ろすように両岸には木が並んでいる。

 倫太郎はブックレットの地図を見た。方角から言うと、おそらくこちらだろう、と暗い方を選び、遊歩道に足を踏み入れた。木陰ではあるが、歩を進めるごとにじんわりと首筋に汗が噴き出てくる。

 右手に暗い川と緑のフェンス、左手に居並ぶ民家、頭上に木とセミの声。だんだんと重なっていくセミ達の声が、倫太郎の足を早めさせた。セミの声を聞くと、逃げたくなる。

 誰も、いない。子供の声すら聞こえない。まだ夏休みであるはずなのに、そうか、今の子供は外で遊んだりしないのか。そんなことを考えていると、遊歩道側の並木が途切れた。新たな橋がある。小さくて舗装もぼこぼこしたみすぼらしい橋だ。その橋を横目に進むと、長方形の看板が針金でフェンスにくくりつけられているのを見つけた。


 暗い道 かげにあくまが ひそんでる


 かげにあくまが、の部分だけ赤字で書かれた手書きの文字は、倫太郎をどきりとさせた。フェンス越しに川を覗き込んでみる。何も潜んでいそうにはない。フェンスのすぐ向こうから川幅の半分程まで丈の高い草が生い茂っており、水面が見えない。倫太郎は遊歩道の先を見遣った。草が途切れ、川面を見下ろせる場所まで十メートルほどだ。そこはいよいよ「かげ」が濃く思われた。左手のフェンス越しに民家の庭がすぐ近くに迫っていた。三輪車や金属バットなどが無造作に打ち捨てられ、空のプランターや車のタイヤなど、庭によってさまざまなものが隅に積み上がっている。その向こうの窓は固く閉ざされ、光も音も見えない。

 あくま、という久々に聞く単語が倫太郎の胸をざわざわと掻き乱し、看板の傍に留まらせた。悪魔とは何だろう。悪魔は神に対峙するものだが、神よりもどこか魅惑的な響きを持っている。絵画にも極楽より地獄を描いたもののほうが多い。この世界の中からは善より悪を見出すほうが、ずっと易しいのかもしれない。

「それ、最近つけられたんです」

 耳元で言われたように近い声だった。振り返る途中に聞き覚えがある声だと気づいたせいで、橋の前に立っている少女の姿を認めても、それほど驚かずに済んだ。

「君」

 図書館の少女だった。黒一色のワンピースは、木の陰の中でより一層黒く浮かび上がって見える。

 少女は、確かめるように倫太郎の手に挟まったガリヴァー旅行記を見た。

 後をつけてきたのか。しかしバスを降りたのは、確かに倫太郎だけだった。

「やっぱり、さっきの人ですよね」

「どうして」

「つけてきたわけじゃないです。わたし、この近くに住んでるんです。この坂の上にも図書館があって。駅前のよりずっと小さいけど」

 そうして少女は、橋を渡った先に続く坂道を指さした。坂道は斜めに上がっており、先は木に隠れて見えない。そういえば、さっきから続くこの木々は、桜の木かもしれない。小学校の昇降口付近に植えられていた桜の木を思い出す。春に来ればきっと美しいだろう、と倫太郎は思った。

「そこでも探したけど、なかったんです。それ、いつ読み終わりますか」

 少女は再び倫太郎の手に視線を落とした。そんなにこの本が必要なのか。悪いことをした。やはり、嘘をつくんじゃなかった。

「もしかして、学校の宿題?」

 倫太郎がゆっくりとそう聞くと、少女は頷いた。

「イギリス文学を二十冊読もうって決めたんです。最後の一冊が、それ」

「これ、イギリスなの? アイルランドじゃなかったかな」

「作者はアイルランド人でも、イギリス文学のくくりなはずです」

 本当だろうか。

「二十冊も読まなくちゃいけないの?」

「そうです。十九冊読みました」

「それで、感想を書くの」

「一冊選んで感想文を書くんです。全部読んでから、どの本で書くか決めようと思ってて、まだ書いてないけど」

「どんな本を読んだの」

「アリスとか、ピーターパンとか、ロビンソン・クルーソーとか……」

「クリスマス・キャロルは?」

「読みました」

「ハリー・ポッターとか、プーさんとか」

「それもです」

「ロアルド・ダールは? チョコレート工場」

 少女は面倒になったのか、答えずにうんうんと二回頷いた。

「随分、頑張ったね」

 倫太郎は素直に感心していた。子供時代、テーマを決めて読書をしようなどと考えたことはなかった。ただただ自分の惹かれるタイトルや表紙のものを選んでいたら、自然とファンタジー寄りになっていた。倫太郎が惹かれる外国製の物語は、後で調べてみるとイギリスのものが多かった。イギリスは、ファンタジーという嘘が生まれた、魅力的な国だ。そういえば、ブレイクもイギリス人だった。

「君、何年生?」

 少女はそれまでの返答リズムを一旦崩した。口を閉じ、静かに開けてから、「四年生です」と言った。

「どうしてこれを最後にしたの」

「子供っぽいイメージがあって、あんまり面白くなさそうだったから」

 倫太郎はしばし口を閉じた。少女が並べた先ほどの顔ぶれはほとんど「児童書」にくくられる。ガリヴァーこそ、子供っぽいという言葉からは程遠い。

 だが、読んでほしい。倫太郎は、強くそう思った。

「いや、これ面白いよ。ごめん、俺はすぐ読む必要ないから」

 そうして汗で若干ぬるついた本を差し出した。元々返すつもりでここまで来たのだとはさすがに言えなかった。少女は期待を示すように眉を上げ、本と倫太郎の顔を交互に見た。

「読んだら、図書館に返しといてくれるかな。俺はもういいや。また気が向いたら借りるから」

「それはだめ」

 少女は首を振った。倫太郎は意外な言葉に戸惑った。

「どうして」

「返すとき、借りた人と名前が違うって、ばれちゃう」

 本を返すとき、いちいち名前と顔を確認するだろうか。倫太郎は、本の返却手続の簡素さを思い出し、首をひねった。

「大丈夫じゃない?」

「大丈夫じゃない」

「ポストとか、あるんじゃないの?」

「ポストでもだめ。同じこと。嘘になる」

 嘘という言葉は力強く倫太郎の胸を抉った。まるでアレルギー反応だ。

 答えられずにいると、少女は倫太郎との会話に慣れてきたのか、若干声を大きくして続けた。

「おじさん、教わらなかったんですか。昔の人は、お天道様が見てるって教わったんじゃないんですか。人の見てないところでも、嘘や不正はしたらだめなんですよ」

 お天道様、か。太陽。倫太郎の言うところの、神。確かに神は、なんでもお見通しなのだろう。

「暗いところに隠れて悪いことをしようとしても、いつか必ず見つかる。いつも誠実でいれば、堂々としていられる」

「ほう。いいこと言うね」

「お母さんに、言われました」

 少女の言葉に気圧されながらも、母親からそんな言葉を与えられている少女を、倫太郎はうらやましく思った。少女は続けた。

「あと、顔に出るって」

「顔?」

「年を取ると、自分の中身が顔に出るから、今のうちから悪いことはしないようにって言われました」

 一理ある。倫太郎の、奈穂子曰く「呆けた」顔は、年々険が出てきているように思える。臆病者は自衛のために殻を築く。その殻が、攻撃的な険となって現れる。

「親になると、顔が変わるって言うじゃない」

 結婚してすぐの頃、奈穂子がそんなことを言っていたのを思い出す。

「想像できることは全部実現できるとも言うでしょ。あたしね、自分がすっごく優しく美しい、聖母みたいな顔でリンと赤ちゃんに接してるの、よく想像するの。すごく幸せな気持ちになる。リンもそうなったら、うれしいでしょ? みんなが幸せになると、思わない?」

 奈穂子は、子供が欲しい、リンもそうでしょう、と、何度も言った。そのたびに倫太郎は、そのうちね、とか、いつかはね、と曖昧な返答を投げ続けた。

 奈穂子は、怖くないのだろうか。そう思った。自分の体がどんどん変わって、時限爆弾のような胎児を抱えて、出した後もいつ泣くとも知れぬ時限爆弾の隣で寝て食べて、そんな生活に目をつぶってまでもその「幸せ」とやらを追い求めたいものだろうか。衣食住足りてそこそこ余裕もあり楽しい今の生活では一体何がいけないのだろう。

 倫太郎は、結婚するまでは、不変が怖かった。結婚してからは、変化が怖かった。

「ただいま」

 その日は、四月だというのに朝から寒かった。倫太郎はクローゼットの奥にしまったマフラーを引っ張り出して出勤した。夜になると、ちらちらと雪が降ってきた。重い足取りに降りかかる細かい雪の結晶が、清く優しい、天のかけらに思えた。

「雪、降ってきたよ」

 倫太郎は、いつもよりも明るい声で言った。大抵は「おかえり」と出てくる奈穂子が、この日は布団に入ったまま言葉を発しなかった。

 病院から帰って来てまだ三日も経っていない。無理もなかった。ただ、倫太郎はもどかしく感じていた。この異常な状況から早く脱し、前と同じように、いつも通りの生活の中に身を浸したかった。この異常の中でどのような立ち居振る舞いをすべきなのか、倫太郎は誰にも教わっていなかった。

 台所の電気をつける。朝食のとき倫太郎が使った皿とコップがシンクに置かれたままだ。昼食は食べなかったのだろうか。乾いた調理台ときれいなダイニングテーブルを眺めてから倫太郎は冷蔵庫を開けた。卵。チーズ。ハム。バター。牛乳。鮭フレークの瓶。タッパーに入った漬物。チューブのわさび。

 野菜室にしなびたレタスが入っている。炊飯器は空だった。冷凍のごはんも尽きている。

「奈穂子、ごはんは」

 倫太郎はそこで言葉を止めてしまった。ごはんはまだ食べていないの。奈穂子はどうしたいの。どうすればいい。そんな意味を込めた言葉だった。

 奈穂子はそれを、何も用意していない自分への非難だと受け取った。

「ない」

 黒く冷たい声だった。

「食べたくないの。適当に食べて」

 黒くて冷たくて尖っていて、どろどろしている。これは何だろう。科学雑誌の付録についていた、磁性流体。磁石を近づけるととげとげになる、あの妙な液体。

「わかった」

 倫太郎は、暗い寝室に踏み入るどころか、リビングからそこを見る勇気もなかった。そこには異常が濃く流れていた。

「雪が降ってるよ」

 天気の話題は無難だと、何かに教わった。今日雪が降ってきたことに感謝した。そうして、部屋が冷え切っていることに気づいた。

 倫太郎はエアコンをつけた。じじじと虫のような声を出してフラップが開き始める。

「やめて」

 声量が上がった。それだけ大きな声が出せるのだから、やはり振りをしているだけなのではないかと倫太郎は思った。

「あの子と同じだけつらい思いをしたいの。つけないで」

 勝手だと思った。それは無意味だ。少なくとも、倫太郎にとっては。

「寒いじゃないか。来週は仕事に戻るんだから、そのつもりで準備しないと」

「準備ですって」

 布団が跳ね上がる音がして、奈穂子がゆっくりとリビングに現れた。リビングはダイニングの明かりでかすかに照らされていたが、奈穂子の顔は真っ黒に見えた。

「あなたは全然、協力してくれないじゃない」

 倫太郎は、奈穂子の言っている意味がよくわかった。わかったが、到底理解できなかった。奈穂子は倫太郎に自分と同じだけの悲しみや苦しみを強いている。奈穂子の体は確かに変わった。二つあった心臓がひとつに戻った。だが倫太郎は何も変わらない。体も、仕事も、生活も。奈穂子の夫であるという側面だけを奈穂子に合わせて塗り替えなければならないのは苦痛以外の何物でもなかった。

 実感がなかった。月面写真のようなエコー写真を見せられて、これがあなたの子ですと言われても、そんなふうに思えるわけがなかった。それこそ嘘だった。はねかえった超音波によって映し出される虚像。見えず聞こえず、触れたことすらないのに、どうして命を感じられるだろう。

「あなたは、いるだけ。物と同じ。ううん、物以下よ。物には役割があるし、それをきちんと果たしてる。でもあなたは自分の役割が何なのかさえ、わかってない」

 教えてくれよ、と言いかけてやめた。これも、わかってはいた。理解できず、実践できないだけで、わかってはいた、つもりだった。

 奈穂子はふらふらとダイニングの椅子に腰かけた。蛍光灯で顔が白くなった。そうして枯れた涙を流すように顔を歪めた。倫太郎は何も言えず、それをしばらく見ていた。

「あたし、まだつらいの。無理やり元に戻そうとしないで」

 絞り出すように、小さな声で言った。白い声に戻っていた。

 それでも倫太郎は、いつも通りの行動を続けた。そうしていれば、奈穂子がそれに引っ張られ、普通の日常を取り戻せると考えたのだ。奈穂子がどんどんと離れていくなどとは思いもしなかった。

 神とは、何だろう。神が本当にいるなら、どうして育つことのできない命を我々に与えたのだろう。

「そこの図書館で、返してきてください」

 鈴の音のように高く澄んだ声だった。倫太郎は瞬きをした。坂の上を指した少女の、黒い髪が揺れた。

「そうしたら、明日の午前中にはシルバー人材の人が駅前の図書館に車で持ってくことになると思う。そしたらわたしが行って借りればいいでしょう」

「そんなまどろっこしいのでいいの?」

「大丈夫」

 少女は大きく頷いた。

「一日くらい、待てる」

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