ねむり駅

日望 夏市

第1話「根無ノ里」

第一話 ——根無ノ里——



 僕は電車に揺られて眠っていた。これが銀河鉄道ならば、あっちの世界に連れて行ってもらえるのだが、残念ながら僕を揺らすこの電車は、普通の鉄道の列車だ。

 通勤時間は二時間。行きと帰りで合わせて四時間の無駄がでる。八時間の労働時間には、もれなく四時間の余計な時間が加わり、一日の半分の十二時間を「仕事」に費やすことになる。当然、その四時間に残業代は支払われない。

 労働基準法によると、一日の労働時間は八時間と決まっているのだが、法律通りにはいかないのが世の常である。残業と称して、一日に一、二時間の追加の労働が課せられる。合計すると、僕の「仕事」で消費される時間は十四時間となる。睡眠時間を七時間とすると、僕の自由な時間は一日に三時間しか残らない。朝の準備と夕食、風呂の時間でその三時間は消える。つまり、僕には自由な時間はない。「モモ」に出てくる時間どろぼうに依頼して、自由な時間を盗んできて欲しいところだ。

 仕事が終わり、家に帰ってゆっくり映画でも見たいときは、睡眠時間を削るしかない。削った睡眠時間は通勤時間の電車の中で補う。

 幸い、会社の最寄り駅までは、乗り換える必要がない。しかも終着駅だ。往路で乗り過ごすことはない、ということだ。さらに、会社は下り方面にあり、行きも帰りも必ず座席は空いている。つまり、電車に乗ってしまえば、一時間半ほど眠っていられる。

 問題は帰りの電車だ。残念ながら我が家の最寄り駅は終着駅ではない。これまでに、最終電車で乗り過ごしたことが数回ある。会社とは反対側の終着駅で目覚めてしまった。そのときは、見知らぬ駅前の定食屋で夕飯を済ませ、カプセルホテルで一夜を過ごした。「エイリアン」に出てくる睡眠カプセルみたいな寝床で、目覚めれば別の星に辿り着いていた、という結末に期待しながらも、大抵は眠れずに、始発電車で寝不足のまま会社に向かう羽目になる。



 僕の名は、崎原覚(「覚」と書いて「さとる」と読む)。もうすぐ四十歳。独身。結婚歴も離婚歴もなく、子もいない。私立の某三流大学を卒業して、三流の会社に勤め、雀の涙ほどの給料でギリギリの生活を送っている。彼女もいないし、友達と呼べる者もいない。持ち家はなく、古い木造のアパート暮らし。貯金もない。自家用車も持っていない。

 趣味といえば、休日にくだらないSF小説を書くことくらいだ。だが、僕には小説を書く才能などない。そんなことはわかっている。小説家になろう、なんて大それたことは考えていないが、ネット小説の賞金が当たれば……なんてことを密かに期待している。参加賞すら貰えたことがないのに。本来ならば、小説ではなく、SF映画を撮りたいところだが、それは夢の中の夢のまた夢の先の夢であり、制作費0円のSF小説に甘んじているわけである。

 少年時代の僕は、熱心なSF映画ファンだった。なんとかロードショーや深夜映画など、テレビで放映されるSF映画をビデオテープに録画しては、繰り返し観ていた。ブレードランナー、猿の惑星、アビス、スターウォーズ、未知との遭遇、メトロポリス、2001年宇宙の旅、惑星ソラリス、月世界旅行、最後の戦い、アルファヴィル、ストーカー、エイリアン、未来世紀ブラジル、不思議惑星キン・ザ・ザ、THX1138、地球に落ちて来た男、鉄男など。

 映画の他に、テレビアニメーションや小説の世界にもSFを漁った。銀河鉄道999、宇宙戦艦ヤマト、オズの魔法使い、モモと時間どろぼう、果てしない物語など、など、など。同級生たちは、漫画やゲームに夢中だったが、僕はサイエンス・フィクションに取り憑かれた。そして、そのまま大人になってしまった。

 何のために生きているのだろうか、と、その言葉が心によぎることがある。家族のためでも、仕事のためでもなく、無価値な生き方をしているのだろう。いつか宇宙人がやって来て人類を抹殺するとか、タイムマシンで未来の自分が助けに来てくれるとか、これは仮想現実だとか、人工頭脳が地球を破壊するとか……。妄想の合間に僕は生きている。



 今日も仕事で、二十四時間のうちの十四時間が消えてしまった。夜な夜な貪り観るSF映画のせいで、寝不足が祟る。午後十時五十分、会社の最寄り駅から我が家へ向かう最終電車に乗った。今日は金曜日。明日は休みだ。少し混んでいるが、座席は確保できた。今夜は家に帰って、誰にも邪魔されずに、ゆっくり映画のビデオを観よう。そんな思いに耽りながら、僕は心地よく揺れる電車の中で、眠りの世界に落ちてしまった。



 目覚めると、電車が停止していた。窓の外を窺うと、いつもの停車駅とは違う見覚えのない景色が目に入った。乗り過ごしたと思い、慌てて列車のドアに向かった。僕が降りると同時にドアが閉まり、電車はガタンゴトンと音を立てて、暗闇に吸い込まれていった。

 電灯がひとつぼんやりと灯っているだけの短いプラットホームに、置いてきぼりを食らったように、僕は立ち尽くしていた。気を取り直し、これからどうするべきかを考えた。上り電車は最終だが、下り電車ならまだ走っているはずだ。僕は下りのホームに行こうと周りを見渡した。ところが、ホームの反対側は壁で、線路の向こう側にはプラットホームがない。ここは単線の駅のようだ。

 駅名標を見ると「根無里」という知らない駅名だった。「ねむり」と読むのだろうか。偶然ではあるが、最近書き始めたSF小説は「ネムリ駅」というタイトルなのだ。僕はなんだかこの駅に親近感を感じた。だがよく見ると、ここの駅名は「ねむり」とは読まないようだ。駅名看板のローマ字表記が「NEMU NO SATO(ねむのさと)」と読むのだと教えてくれた。ところどころに錆びが浮いた駅の看板は、「根無」と「里」の間の「ノ」の字が消えかかっている。ここは、僕の描いた未来型のピカピカ輝いたネムリ駅とはほど遠い。

 時刻表を調べてみよう。

 駅舎は木造の古ぼけた建物で、改札は切符を通す機械すらない。僕はコートの左手の袖を捲り、腕時計を見た。デジタル表示の数字は12:00と示している。最終で帰れば、到着は十二時三十分ごろのはず。そこで気がついた。ここはまだ自宅の最寄り駅へ向かう途中の駅だ。乗り過ごしたのではなかった。

 駅舎の窓口の上に時刻表があった。上り列車の欄の23時の行には「59」とあった。これがこの日の最終電車のようである。下り方面の時刻表は見当たらない。この駅から家に帰れる電車はもうない、ということだ。しかし、家に帰れないことよりも、僕は別のことに驚いた。僕が乗っていた電車、午後十一時五十九分にこの駅を去ったあの電車は、この日の最終電車だが、同時に始発電車でもあった。つまり、この駅から東京へ向かう上り電車は、一日に一本だけなのである。朝の通勤時間でもなく、夜の帰宅時間でもなく、深夜の十一時五十九分に、だ。東京近郊の町にもこのような一日一本の単線駅があることに、僕は違和感を感じた。

 またやってしまった。仕方なく終電を諦めることにした。

 ところでここはどこだろう。一時間と少し電車に乗って来たわけだから、おそらくここは千葉と東京の境い目辺りではないか、と予想した。東京と千葉の県境なら、タクシーで帰ってもそれほどの金額にはならない、と結論を出し、駅を出てタクシーを拾おうと考えた。

「わっ、びっくりした!」

 改札口に向かおうと振り向いたとき、目の前の男が立っていた。僕は心臓を抑えて、男の姿を観察した。男は鉄道員らしき帽子を深く被り、鉄道員らしき制服を着ていた。どうやら鉄道員のようである。

「切符を拝見いたします」

 鉄道員はニコリともせず、僕に切符を要求した。気管に疾患でもあるのだろうか、彼は、コォー、と喉を鳴らし、白い息を吐いた。彼の右胸には「駅長・米田」のプレートがあった。おそらく「よねだ」と読むのだろうが、僕はそれを「べいだ」と読んだ。僕の頭の中では「スターウォーズ」のダースベイダーのテーマソングが流れた。

「終電はもう行っちゃったんですよね」

 最終電車を逃したことはわかっていたが、愛想の要求の代わりに、そう言ってみた。

「十一時五十九分が最終です」

 要求は呆気なく拒否され、何の感情もなく、彼は業務用のセリフを吐いた。駅長のくせに愛想の悪いベイダー卿の右手には、ライトセーバーではなく、切符を切るハサミを持っており、彼はそれをカチャカチャと鳴らしていた。僕にはそれが、今時珍しいだろ、と自慢しているように思えた。

「珍しいですね。それ、何て名前でしたっけ?」

「切符を拝見いたします」

 カチャカチャの音は、どうやら切符を出せということらしい。

「すいません。僕、定期なんです」、そう言って、裸のままの定期券を彼に差し出した。

 ベイダー卿は僕の手から定期券を取り上げて、自分の鼻の先まで持っていき、じっくりと「拝見」を済ませると、何のためらいもなく、切符切りのハサミで、僕の定期券に、パチン、と穴を開けてしまった。

「あっ」、咄嗟に声を出してしまった。

「ご乗車、ありがとうございました」

 ベイダー卿はそう言って、僕に穴の空いた定期券を返した。そして、僕の顔をじっと見つめ、再び、コォー、と喉を鳴らして息を吐いたあと、スターデストロイヤーに帰還した。

 僕はベイダー卿の後を追って、改札口まで進み、駅を出ようとした。駅舎の窓からベイダー卿がじっと僕を見ていた。

「カイサツキョウ」、突然、ベイダー卿が言葉を発した。

 彼が何を言っているのかわからず、僕は改札口の前で停止した。すると、ベイダー卿は右手を上げて、持っていたそれをカチャカチャと鳴らした。

「あー、ハサミの名前」

 ベイダー卿が切符切りのハサミの名前を教えてくれたのだ。ようやく愛想を示してくれたようだ。僕はベイダー卿に軽く会釈して、改札を通り抜けた。


 ベイダー卿が穴を開けてしまった定期券は、自動改札を通るだろうか。そんなことを考えながら、駅前を見渡した。終電待ちのタクシーどころか、乗り場らしき場所さえ見つからない。ポケットを探ったが携帯電話がない。どうやら、携帯電話を会社に忘れたようだ。僕は公衆電話を探した。タクシー会社に電話しようと。

 駅舎の軒下を見ると、それは、真っ赤な姿で存在をアピールしていた。単線電車、改札鋏、ダイヤル式の赤い公衆電話、ふと駅舎の前を見ると、赤い筒型のポストが見える。いったいここは「いつ」なんだ。僕が乗ってきた乗り物は、電車型のデロリアンで、三十年前にバック・トゥー・ザ・フューチャーしたのだろうか。

 さてさて、赤い公衆電話でタクシーを呼ぼうとしたが、電話帳が見当たらない。そこで、電話番号案内にかけてタクシー会社の番号を訊くことにした。

 受話器を取り、ポケットを探って小銭を数枚取り出し、その中から十円玉を三枚、赤電話に投入し、番号案内のダイヤルを回した。

 赤電話はうんともすんとも言わない。

 仕方なく、受話器を戻した。しかしおかしなことに、投入した三枚の十円玉は戻ってこなかった。僕は赤電話を揺すり、受話器を上げ下げして、三十円の返却を要求した。それでも、赤電話は完全に僕の要求を拒み続けた。

 僕が赤電話と格闘していると、駅舎の窓からベイダー卿が顔を出した。

「あのー、お金が戻って来ないんですが……」

 僕は遠回しに三十円の返却を求めた。この電話の所有者は、根無ノ里駅だろう。しかし、ベイダー卿は表情も変えず、知ったこっちゃない、とでも言いたげに、虚ろな目で僕を睨んだ。

「食うなら左。寝るなら右」、ベイダー卿はそう言い残して、駅舎の窓を閉めた。

 またもや、彼は謎の言葉を僕に投げかけた。今度の謎には先ほどのようにヒントはなかった。そのとき、僕の腹の虫が鳴いた。そういえば、昼飯はあんぱん一個だったことを思い出し、さらに腹の虫は、グー、と二度目の救難信号を発信した。僕の腹の虫が謎のヒントを与えてくれた。おそらく彼は、左に行けば食堂があり、右に行けばホテルがある、と教えてくれたのだ。僕は迷わず、食うなら左、を選択した。


 食うなら左、はすぐに見つかった。その店の暖簾には「左食堂」と書いてあった。駅の左にある左食堂。ベイダー卿は精一杯のジョークを披露してくれたのだろう。赤電話に食われた三十円は、ジョークへの投げ銭としてくれてやろう。

 僕は左食堂の暖簾をくぐった。すでに真夜中を十五分ほど過ぎていた。はたして、こんなに遅い時間まで営業しているのだろうか、とおそるおそる引き戸を開けた。

「まだやってますか?」と店主らしき男に声をかけた。

 店主は料理人の白衣を着て、カウンターの中で、黙々と料理をこしらえていた。僕の問いかけを無視して。

「あのー、もう閉店ですか?」、二度目の問いかけに、彼は僕の顔さえ見ず、顎をしゃくって答えた。

 そこへ座れ、と言っているようだ。僕は愛想の悪い店主の無言の言い付け通りに、席に座った。

 左食堂は、昭和の大衆食堂、といった風な、懐かしい雰囲気のある飯屋だった。安っぽい合板のテーブルに、赤と緑の丸椅子。壁付けの扇風機にはスーパーのビニール袋が被せてある。奥壁の天井付近の棚には、ブラウン管テレビが鎮座している。

 僕はメニューを探した。だが、テーブルにも壁にも、メニューらしきものは見つからない。念のため、鞄からメガネを出した。僕は普段メガネをかけない。視力が酷く悪いわけでもなく、映画を観るときだけは、字幕を読むためにメガネをかける。しかし、メガネをかけたところで、メニューが壁に出現するはずもない。

 そこへ店主が盆を持って現れた。盆の上には定食らしき皿や碗が乗っている。注文もしていないのに、彼はそれを僕の前に並べた。大皿、飯茶碗、汁物の碗、小皿、湯呑み、それらをテーブルに置き去りにして、彼はカウンターに戻っていった。大皿には、大きなアジフライらしき物体が二尾横たわっていた。僕の大好きなアジフライ定食だ。

「あのー。頼んでないですけど……」、僕は若干、語尾をフェードアウトさせながら、店主に抗議を試みた。

 しかし、店主は向こうを向いて、無言で僕の抗議を退けた。店主の背中は、いいから食ってみろ、と主張しているようだった。よほどこの料理に自信があるのだろう。

 抗議はしたものの、別の定食に変更するつもりもなく、「では、お取り換え致します」と言われても、「よいよ、これで」と答えるつもりだった。ただ、僕はお客で、お客は神様で、神様の食いたいものを神様自身が主張せず、押し付けられた物に金を払うということは、いかがなものかと思う。それは「お客様は神様である理論」を否定する行為ではないか。しかし、自ら主張したとしても、「アジフライ定食」と注文するのではあるけれど。

 そのとき、三度目の救援信号が、グー、と鳴った。店主は聞こえないフリをしていたが、間違いなく聞こえている。僕はメガネを外してテーブルに置き、辛抱堪らず、アジフライに食らいついた。

「うまい!」、思わず声が出てしまった。

 店主はこちらに振り向いて、一瞬ニヤリと口を曲げた。そこで僕は気づいた。この男、どこかで会った気がする。この町に来たのは初めてだ。いったいどこで会ったのだろうか、思い出せない。「トータル・リコール」のように、僕は記憶を操作されたのか。もしかしたら、火星で彼に会ったことがあるのかもしれない。

 そのとき、店主が、コォー、と喉を鳴らした。

「あっ!」、僕は思わず声を上げて、店主を見た。

 頭の中のスクリーン映像は、「トータル・リコール」から「スターウォーズ」に変わった。

 ベイダー卿だ。

 僕は駅長の顔を思い出そうとしたが、思い出せない。駅長のベイダー卿は特徴のない顔で、僕にその記憶を植えつけなかった。世の中には特徴のない顔を持つ者も多い。顔の真ん中に大きなホクロがあったり、目が三つあったりしようものなら覚えられるのだが、薄っぺらな顔面に、目らしい目に、鼻らしい鼻に、口らしい口が乗っかっているだけの顔は、どうも記憶に残らない。

 僕は店主の顔をじっと見た。店主は見られていると感じたのだろうか、再び僕に背を向けた。ベイダー卿はついさっきまで駅舎にいた。僕より先にこの店に来られるはずがない。ワープ走行や転送装置を使った可能性もあるが、昭和の風情満載のこの町に、そんな物があるとは考えられない。

 コォー、という喉の音はどうだ。この町の空気は汚れていて、町中の人が喘息持ちの可能性もある。はたまた、父親か母親が喘息で、その遺伝子を受け継いだ兄弟ということも考えられる。やはり、別人かもしれない……。

 どちらにしても僕にとっては、そんなことどうでもいい。この先、この町で暮らしていくのでもなく、二度と会うこともないのだから。同一人物だろうが、兄弟だろうが、赤の他人だろうが、僕には何の影響もない。そんな風に考えを巡らせながら、僕はアジフライ定食を食い尽くした。

 店の隅っこに赤電話を見つけた。タクシーを呼ぼうか、と僕は考えた。もしやこれも駅前のそれと同じ公衆貯金箱なのかもしれない。試してみるしかない。

 僕はポケットから出した十円玉を握りしめ、赤電話に向かった。

 電話帳はない。受話器を上げ、十円玉を投入して、ダイヤルを回した。

 赤電話は沈黙していた。

 ダメか、と受話器を戻した。返却口に十円玉は戻らなかった。やはりこれも公衆貯金箱だった。

 店主のほうに目をやると、彼は真顔で僕を見つめた。僕は十円の返却を要求する気にもなれず、店主に別の問いかけをした。

「いくらですか?」

 店主は片手で空を切って頭を振った。その仕草は、アジフライ定食の代金はいらない、と言ってるのか、赤電話は使えない、と言ってるのか、僕にはわからなかった。

 そこで、僕は財布から千円札を抜き取り、店主に差し出した。するともう一度、片手で空を切って頭を振り、こう言った。

「あんた、注文してない」

 たしかに、僕は店主にアジフライ定食を押し付けられて、それを食べただけだ。「お客様は神様である理論」は肯定され、さっきの十円玉の損害はこれでチャラになった。

「ご馳走さまです」

 僕は素直に店主の施しを受け入れることにした。

 席に戻り、湯呑みのお茶を喉に流し込んで、席を立った。最後にもう一度、ご馳走さまでした、と礼を言って、店を出ようと店主に背を向けたときだった。

「ツキノさん」、店主がそう言った。

 僕は振り向いた。

 店主は顎をしゃくって、テーブルを指した。テーブルの上にメガネを忘れていた。

「あ、どうも」、僕はそう言って、メガネを鞄にしまい、店を出た。

 僕の記憶が確かなら、店主はさっき、ツキノさん、と僕を呼び止めた。僕の名は、確か、サキハラサトル、のはずだ。

 火星に行った記憶を探した——トータル・リコールのように——が、見つからない。月に行ったこともない。ツキノ、とは誰なのだろう。僕の顔は、店主が月で出会ったツキノさんという人に似ているのだろうか。

 よくよく考えると、僕も駅長の顔と店主の顔の区別もつかなかったわけだ。店主に間違われても仕方がない。僕の顔の真ん中には、大きなホクロもなく、目が三つあるわけでもないのだから。


 さて、タクシーを拾うか、ここに留まるかの選択だが、腹がいっぱいになったせいで眠気が襲ってきた。もはや、留まるほうを選択するしかなさそうだ。僕は「寝るなら右」に向かった。

 途中、駅を通り過ぎた。駅舎はまだ電気が点いている。ベイダー卿らしき人影が窓に映っていた。やはり、左食堂の店主とは別人なのだろう。

 駅を通り過ぎると、すぐに大きな看板を見つけた。建物前のポールのてっぺんには、「ハテノフノト」と書かれたネオン看板があった。あれが「寝るなら右」なのだろう。

 ハテノフノトとはどういう意味だ。ロシア語で「楽園」を意味するとか、ラテン語で「天国」を意味するとか、火星語で「永眠」を意味するとか、おそらくそんなとこだろうと予想を立てた。

 ネオン看板の近くまで来ると、その意味がわかった。ロシア語でも、ラテン語でも、火星語でもない。それは、「ホテル・ライト」の文字のところどころでネオン管が切れていて、遠目に見ると「ハテノフノト」に見えるだけだった。やはり、ベイダー卿のジョーク通り、英語で「寝るなら右」を意味していたのだ。

 ハテノフノトはレトロな洋館で、この一画だけが無国籍な感じがして、「ブレードランナー」を思い出した。

 僕はハテノフノトに足を踏み入れた。

 フロントには男がいた。男は紺色の制服を着て、鍋をひっくり返したようなツバのない赤いラインの入った帽子を被り、蝶ネクタイを締めている。

 この男、どこかで会った気がする。

 つい先ほど行った左食堂でも起こった感覚だ。もしかしたら、駅長のベイダー卿に似ているのかも。もしかして、左食堂の店主に似ているのかも。そんな思いに駆られたが、駅長の顔も、店主の顔も思い出せない。顔の真ん中には大きなホクロがあるわけじゃなし、目が三つあるわけじゃなし、鼻の穴が十個あるわけじゃなし。

 そのとき、フロントマンが、コォー、と喉を鳴らした。きっと彼らは両親が二人とも喘息持ちで、その遺伝を受け継いだ三兄弟なのだ、と自分に言い聞かせた。とにかく、早く眠りに就きたかった。

 フロントマンは帳面を開いて僕に差し出した。宿帳に名前と住所を書け、と言っているようだ。

 僕は虚ろな意識の中で、自分の名前と住所を書いて、それを彼に返却した。彼はその宿帳のページを自分の鼻先に押し付け、じっくりと確認した。

「訳ありですか?」

 彼は妙なことを問いかけた。

「え?」

 彼の言う意味がわからない。

「偽名は困ります」

「本名ですけど……」

「まぁ、今回だけは、許可しましょう。ですが、部屋で自殺などは勘弁願います」

「自殺? そんなこと、僕はしませんよ」

「それならいいのですが……」、フロントマンはそう言って、僕を睨みつけた。そして、細長い透明な樹脂製キーホルダーの付いた鍵を僕に差し出した。

 キーホルダーには427の番号が書かれていた。「死にな」と。自殺を促しているのはそっちじゃないか、と抗議してやろうかと思ったが、それより部屋に入って早く眠りたかった。

 周りを見渡したが、エレベーターはない。仕方なく、階段で四階へ向かった。睡魔に襲われ、足が重い。三階まで上がったが四階へ上がる階段がない。「死にな」の部屋はどこにあるのだ。

 もはや限界が来た。三階の階段の踊り場に、ソファが置いてあった。僕はとりあえず、そのソファに倒れ込んだ。



 気がつくと朝になっていた。僕の体には毛布がかけられていた。時計を見ると五時五十五分。ここはどこだ、と疑問が浮かんだが、今日は休みであることを思い出し、再びソファに体を預けた。

 二度目の目覚めは八時二十八分。

 ここはどこだ? 

 頭がはっきりするまで、しばらくぼやっとしていた。

 ようやく脳が覚醒すると、記憶の中に根無ノ里駅を見つけた。根無ノ里駅でベイダー卿に会って、左食堂に行き、ハテノフノトまで来て、死にな、の部屋を探してる途中で眠ってしまったのだ。

 家に帰ろう! 僕は起き上がり、毛布を畳んで階段を降りた。

 一階に着くと、フロントマンがいた。僕は毛布の礼を言って、チェックアウトを告げた。すると、彼は片手で空を切り、首を振った。それは、宿泊代はいらない、と言ってるのか、毛布の礼はいい、と言ってるのかわからなかった。

 そこで、僕は財布から一万円札を取り出し、彼に差し出した。

 するともう一度、片手で空を切って頭を振って、こう言った。

「あんた、部屋を使ってない」

 確かに僕は三階の廊下のソファで寝てしまい、部屋は使わなかった。

 そういえば、昨日の夜も同じことがあった。その仕草と口調で、やはりこのフロントマンと左食堂の店主は、同一人物なのではないだろうか、と疑った。

「すいません。それではお言葉に甘えて」、僕はそう言って一万円札を引っ込めた。そして、ホテルの出口に向かった。

「ツキノさん」、フロントマンが呼び止めた。

 こう呼ばれたのは二度目だった。僕が振り返ると、彼は何かを僕に差し出した。彼に近づいてそれを確かめた。それは、駅でベイダー卿が穴を開けた僕の通勤定期券だった。どこかで落としたらしい。

「あー、すいません」

 僕は定期券を受け取り、ついでに、飯を食べられる店はないか、と彼に訊いた。彼は、「朝なら上、夜なら下」と答えた。彼が何を言っているのかわからなかったが、それ以上は訊かなかった。

 僕はホテルを出て、駅に向かって歩きながら、ふと手の中の定期券を見た。そこでようやく、彼らが「ツキノさん」と呼んだ理由がわかった。定期券には「ツキノテツロウ」という名前が書いてあった。だが、定期区間は「2101駅—2200駅」となっている。どういうことなのだろう。

 僕は、駅長のベイダー卿、左食堂の店主、ハテノフノトのフロントマンは同一人物である、と確信した。ベイダー卿は駅のホームで僕の定期券をじっくり見ている。あのときに「ツキノ」の名を知ったのだろう。左食堂の店主は定期券を見ているはずがないのに、僕を「ツキノさん」と呼んだ。フロントマンは、僕が宿帳に書いたサキハラサトルの名を偽名だと言った。これらは、彼らが同一人物であることを証明している。彼は定期券の名前から、僕をツキノテツロウだと思っているのだ。しかし、なぜ、僕がツキノテツロウ氏の定期券を持っているのだろうか。その名前に聞き覚えはない。それだけが謎のままである。

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