第3話「ネムリ」

第三話 ——ネムリ——



 僕は目覚めた。キラキラと透明に光る細長い部屋で。

 ここはどこだ。窓の外の景色が流れている。部屋は動いている。横に移動するエレベーターみたいに。部屋の中は、新幹線の車内のように座席が移動方向に向いて並んでいる。どうやら乗り物の中のようだ。電車にしては振動がない。

 腕時計を見ると「11:57」を示している。町は明るいが遠くの空は暗い。朝ではなく、夜の十一時五十七分だろう。

 乗り物内はほぼ満席だった。隣の乗客は、体にピッタリと密着した作業着のような服を着ている。ボディースーツというのだろうか。髪型は、サラダボウルを被ったようなマッシュルームカット。ビートルズもローリングストーンズも、昔こういう髪型をしていたが、そんなカッコいいものではなく、まるで皿のないカッパ頭だ。座席の背もたれの上から周りを見渡すと、隣の乗客が着ているのと同じような、ラインや色の違うピッタリスーツを全員が着ており、同じ髪型のカッパ頭をしている。

 ここはどこだ? と考えを巡らせていると、乗り物はゆっくりと停止した。

「ネムリ駅、終点です」、乗り物内にアナウンスが流れた。

 ネムリ駅。僕は仕方なく、ここで降りることにした。やはりこれは電車のようだ。僕は立ち上がり、ピッタリスーツたちとともにドアに向かった。

 誰かが僕にぶつかった。女の子のようだが、彼女はそのまま人の波に流されて、ドアから出ていった。僕も人の流れに身を任せて、駅のホームに降りた。

 駅は眩しかった。高いビルが駅を囲んでいる。ビルとビルの隙間から、四角い箱が空中をすり抜けていく。僕はここへ何をするために来たのだろう。

 時計は「11:59」を示している。乗ってきた電車は僕を置き去りにして発車した。そいつは一瞬ふわっと浮き上がり、前に進み始めた。外から見ると、それは透明な筒状で、中が丸見えだった。車両の継目はない。まるで巨大な透明のストローだ。ホームから下を覗くと、線路が見当たらない。ストローは空中に浮かんでいる。僕は加速するジャンボストローの行方を目で追った。そのまま真っ直ぐ進めば、前方のビルに突っ込む。しばらくすると、ジャンボストローはクネッと直角に曲がり、ビルの隙間に隠れてしまった。まるで、未来世界に来たようで、僕はきょろきょろと周りを見渡し、様子を観察していた。

「すみませんが、IDを確認します」

 突然、紺色のピッタリスーツが警棒をチラつかせて、僕に声をかけた。

 彼は紺色の服に紺色のとんがった帽子を被っている。警察だろうか、駅員だろうか。見たことのない制服だった。それにしても、彼は背が低い。150センチメートルほどだろうか。とんがった帽子を除けば、140センチほどだろう。その小さな体に似合わず、耳が異常に大きかった。

「あ、はい」

 僕はそこで、カバンを持っていないことに気がついた。免許証を持っているはずだ。ポケットを探った。だが、ズボンのポケットには財布も入っていなかった。上着を探ると、胸辺りに硬いものがあった。僕は上着の裏ポケットからそれを出した。しかし、それは財布でも定期入れでもなく、一冊の本だった。タイトルは「ねむり駅」、著者は「月野哲郎」とあった。読んだ記憶はない。乗り物の中でのアナウンスは「ネムリ駅」と言っていた。僕はこの本に導かれてここに来たのだろうか。

「名前と住所を教えてもらえますか?」、チビのピッタリスーツは少し苛ついた口調で、僕に尋ねた。

「僕は……」、いったい誰だ。自分の名前を思い出せない。住所さえもわからない。どんな仕事をして、家族は何人で、どこで生まれて、どこの大学を出て、これまでどういう暮らしをしてきたのか、すべて忘れてしまっている。

「一緒に来てもらいましょう」

 チビのピッタリスーツは、殺人犯を見るような目つきで睨み、僕の腕を掴んだ。もしかして、本当に殺人犯なのかもしれない。そうじゃないことを証明することすら、今の僕にはできない。僕は片手に本を持ったまま、チビの駅員、あるいは警官に連行された。


 辿り着いた場所は、駅舎の中の狭い部屋だった。チビのピッタリスーツは、僕を椅子に座らせて、帽子を脱ぎ、それを机の上に置いた。彼もカッパ頭だった。帽子を取ると、耳の大きさがさらに際立った。

「どの時代から来たのですか」、カッパ頭のピッタリスーツのチビは、警棒を僕に向けて尋ねた。

「え?」

 聞き違いだろうか。彼は今、どの時代から、と僕に尋ねた。

「その服装は、2040年か、50年辺りですか」

 彼の言っている意味がわからなかった。僕はおそるおそる訊いてみた。

「今は、何年なのですか?」

「2101年です」と彼は何の躊躇もなく言った。

 2101年? 僕は未来に来たということか……。違和感を持ったのは僕のほうだ。

「あなたは、トラベラーではないのですか」

「いや、わからないんです。自分が誰なのかも……」

 トラベラーとは何だ。頭の中が真っ白だ。

「記憶がないのですね。なら、ドロッパーですよ」、彼はそう言って頷き、机の上に警棒を置いて、攻撃的な態度を緩めた。

「ドロッパーって何ですか?」

「トラベラーならば容赦なく殺すところですが、ドロッパーなら……」

「ドロッパーならどうなるんですか?」

「それを証明するしかありません」

 彼は椅子の背もたれに体を預け、椅子の肘掛けに腕を乗せて、お腹の辺りで両手の指を絡ませた。

「証明できなければ、どうなるんですか」

「命は助かります。ですが、過去へは戻れません」

 やはり、ここは未来のようだ。どうやってここへ来たんだろう。

 突然、後ろのドアが開いた。僕はビクッとして、後ろを向いた。もうひとり、背の高いピッタリスーツが入ってきた。二メートルはありそうだ。とんがり帽子が、さらに身長を高く見せている。

「トラベラーを捕まえたそうだな」、ノッポのピッタリスーツが、チビのピッタリスーツに訊いた。

 二人の顔はそっくりだった。兄弟だろうか。

「いやー、ドロッパーのようです」

「ドロッパーか。新世紀に入って何人目だ」

「六人目です。トラベラーの広げた穴が原因だという噂ですが」

「おい、六人目。ついてないな」

 ノッポのピッタリスーツは、帽子を脱いで、チビの隣に座った。やはり、彼もカッパ頭だった。流行りなのだろうか。

「どういうことですか?」、二人の会話の意味がわからず、僕はノッポのピッタリスーツに尋ねた。

「タイムループ時代の外から来たやつをトラベラーと言う。ドロッパーは、偶然時間の穴に落ちた者だ」

「タイムループ時代って何ですか?」

「我々の時代は2101年から2200年の百年間を繰り返す」

「繰り返す? 時間が戻るのですか?」

「そう。2200年の次は2101年に戻る」

「死なない、ということですか?」

「いや、死にます。ですが、また生まれるのですよ」、そう答えたのはチビのほうだった。

「どういうことですか?」

「私は2131年生まれだ。こいつは2105年生まれ。百年周期で生まれ変わる」、ノッポが面倒くさそうに言う。

「え? 今は2101年なんですよね。2131年って、三十年後……。なぜ、あなたたちは存在しているんですか?」

「あなたも乗って来たでしょう。メビウストレインです」、チビはしっかり僕の目を見て話す。

「あの列車はどこへ行くんですか?」

「どこ、ではない。いつ、だ」

 ノッポはまだイライラしているのか、机を指でトントンと叩いている。だが、顔は無表情だった。

「別の時代に行ける、ってこと?」

「タイムループ時代の外へは行けません」

 チビは丁寧な口調だが、まるで芝居のセリフを喋っているようで、感情がない。

 とにかく僕は今、これまでいたところとは違う、どこか、にいる。地球の記憶は頭の中にしっかり残っている。

「ここは地球ですか?」

「チキュウとは何だね」、ノッポは足を組み直して、表情を変えずに尋ねた。

「タイムループ時代以前、我々がまだニンゲンと呼ばれていたころ、エアルスという真空に浮かぶ丸い岩の上で暮らしていたそうです」

 チビには知識があるようだ。

「お前、歴史に詳しいんだな」とノッポがチビを褒めた。

 たがチビは、褒められたことに喜びもせず、表情を変えなかった。

「ここは地球ではないのですか?」

 エアルスというのは地球のことのようだ。

「ここはネムリです」

「ネムリという町なんですね。それはどこにあるんですか?」

「ネムリには、ネムリしかありません」

「ネムリの外には何があるんですか?」

「おかしなことを言うやつだ。ネムリには外も内もない。クライン空間だ」

 ノッポは苛立っているようだが、表情が変わらないので、それが伝わりづらい。

「クライン?」

「それも知らないのか。クライン空間はお前たちの時代に生まれたはずだ。表も裏もない世界だ」

 ノッポはさらにイライラを募らせたようだ。

 僕は知っていた。クラインの壷だ。筒をひねって、内側から繋げる。表も裏もない平面だ。だが、それをどこで知ったのか、思い出せなかった。

「そうイライラしないでください。相手はスリーディメンジョンのユークリッドで育ったニンゲンです。次元と空間認識が違うのですから」

「確かにそうだが」

 ノッポはチビになだめられ、イライラが収まったようだ。そして、ノッポは僕の手元を指して言った。

「ところで、お前。それは何だ」

「本です」

「ホン、とは何だ」

 ノッポは何が訊きたいたいのだろうか。

「えっと、小説ですけど……」

「ストーリーか」、ノッポはそう言って、僕の手から本をひったくった。

「これは、何だ。不思議な素材だ。おい、触ってみろ」

 ノッポは驚いているようだが、やはり表情は変わらない。

「ビニルではないのか」

 どうやら二人は紙を初めて見たようだ。

 そのとき、天井で何か物音がした。

「ネズミでもいるんですかね」、僕は天井を見上げて言う。

「ネズミ、とは何だ?」

 ノッポは質問ばかりだ。僕の言っていることが、そんなに難しいことなのか……。

「カナ文字ですね。おや、こ、これは、カミですよ!」

 チビはネズミのことなど気にも留めず、ページをめくりながら、驚いている様子だった。

「そう、紙です」と僕は頷いたが、彼の言う「カミ」は、僕が言うそれではなかった。

「ツキノ書じゃないですか!」

 チビはどうやら、素材ではなく、小説の文書に驚いているようだ。

「カナ文字のツキノ書だと。お前、カナ文字が読めるのか」

「読めますよ」

 チビが無表情のまま、自慢気に背筋を伸ばした。それが精一杯の感情表現なのだろう。

「タイムループ時代より前には、薄い植物性のシートにカナ文字をプリントしていたらしいんですが」

「もしや、それはツキノ書の原書なのか」

 二人とも、僕の持っていた小説にかなり驚いている。ただの本ではない、というのか。

「あのー、ツキノショ、というのは……」

 二人は何に驚いているのか、僕にはさっぱりわからない。

「ツキノ書は、このネムリの世界のもととなった書だ。お前たちの時代の『バイボ』みたいなものだ。その時代はカミが世界を作ったのだろ。だが、異空間からの生物の出現で、クレスタは消滅した。やがて、エアルスはアトマイクで崩壊した。ニンゲンは住む場所とココロのよりどころを失った。そんなとき、ツキノサマが現れた。ツキノサマはニンゲンのサハラー・サトールの体を借りて、この世界をお作りになったのだ。ツキノ書は、サハラーがネムリをお作りになる途中までの物語だ」

 ノッポが知っていることなので、この世界のものは誰もが知っている常識みたいなものなのだろうが、彼の説明の半分は理解できなかった。

「おや、ちょっと待ってください。このツキノ書は、私の持っているデジタルブックのと違います」、チビが本を広げて、ブツブツと呟くように言った。

「どこがどう違うのだね」

「現存のツキノ書の続きが書いてあります。我々のツキノ書は未完成なのですが」、チビはそう言って、ページをペラペラとめくった。「完結していますよ」

「なに。そ、それなら、歴史的大発見じゃないか」、ノッポはそう言うと、これまでの無表情が嘘のように、顔つきが険しく変わった。

 そして、ポケットから拳銃のような物を取り出し、チビにそいつを向けた。

「何をす……」

 パンッ——。

 何かが破裂したような乾いた音が部屋に響いた。

 ノッポはチビを撃ち殺した。

 チビは床に倒れ、胸から真っ赤な血を流している。

 ノッポはチビの手から本をもぎ取った。

 僕は目の前で起こった殺人事件に、手足が震え、何も言えずにノッポの顔を見た。

「そんなに驚くことはない。ここではこれが普通だ」

「ニンゲンを……殺した……」

「ニンゲンではない。我々は、ドリーシープスだ。こいつは四年後にまた生まれてくる。殺人はとっくの昔に犯罪ではなくなった。また生まれてくるのだから、殺人ではないのだよ」

「なぜ、殺してまで……」

「ツキノ書の原書だぞ。それも完成版だ。これは貰っておく。私はこれで、カピタルシープだ」

「カピタルシープって何だ?」

「スラべシープのように、働かなくていい、ってことさ」

 僕は来てはならないところへ来てしまったようだ。「殺される」、咄嗟にそう判断し、ノッポが油断した隙に机の上の警棒を掴んで、その先をノッポに向けた。

「逆さまだ。それでは自分が電流を浴びることになるぞ」、ノッポは慌てる様子もなく、冷静に助言した。

 ただの棒ではないようだ。僕は、警棒を逆さまに持ち替えた。電流を流すボタンはどこだ。

「言っておくが、我々ドリーシープスは生まれ変われる。だが、タイムループ時代より前に生まれたお前は、生まれ変われないのだ」

 僕は怯むことなく、警棒をノッポに向けた。おそらく、自動で電流が流れるのだろう。

「心配するな。お前を殺そうなんて思っちゃいない。代わりにこれをやろう。物々交換だ。それなら文句はないだろう」、ノッポはそう言うと、一枚のカードを差し出した。

 カードには「2101駅—2200駅」と書かれており、その下には「ツキノ・テツロウ」と明記してあった。

「どうだ。メビウストレインのパスだ。それさえあれば、ドロッパーのお前でも、死ぬまでメビウストレインに乗れる。行きたい時代に行ける。さぁ、それを持って出て行け!」、ノッポはそう叫ぶと、天井に向けて銃を一発撃った。

 僕はノッポに背を向け、警棒を放り投げて、ドアを開け放ち、走った。

 廊下を真っ直ぐに進むと、左右に分かれている。左はさっきいたホームだ。僕は右へ曲がった。廊下の先にはドアがある。ドアノブに手をかけると、ドアが開いた。僕はドアの外に出た。

 ふと左側に目を向けると、人が流れ出て行くのが見えた。どうやらここはネムリ駅の出口改札のようだ。人の流れに紛れて、僕は駅の左側の道へ進んだ。ネムリ駅から出てくる人々は、皆、同じようなピッタリのスーツでカッパ頭だった。この服装では目立ち過ぎる。僕は早足で駅から遠ざかった。


 記憶にある道路とは違い、ここの道は少し弾力のあるゴムのような感触だった。道には電信柱や標識もなく、路上駐車もない。歩道もなく、車道と歩道を分ける白いラインも引いていない。道の両側の建物は、何の飾り気もない四角い白い箱だった。ひとつ、ふたつ、窓らしき丸い穴が開いている。建物には見慣れない文字の看板がある。ショップなのだろうか。だが、何を売っている店なのか、僕にはわからない。

 建物の壁にはカラフルな直方体がぴったりとくっついている。駅で見た、空飛ぶ四角い箱のようだ。建物と建物の間から見える遠くの空で、同じような箱が宙に浮かんで飛んでいる。早足で歩いている間に、四角い箱の乗り物が一台、僕を追い越していった。あれは乗り物のようだ。僕は少しずつ速度を上げ、小走りで駅から離れた。

 誰かがついてくる気配はない。立ち止まって周りを窺った。「ヒタリシヨクトウ」とカタカナの名前の店を見つけた。飲食店のようだ。僕は助けを求めて飯屋に入った。僕と同じところから来た人がいるかもしれない。

 店内は日本の昭和時代の定食屋風だった。ブラウン管テレビに、赤電話、壁付けの扇風機。これが、2101年のスタイルなのだろうか。レトロスタイルや、アンティーク調、といったところなのだろう。店員はいない。周りには数人の客がいる。どれも、カッパ頭のピッタリスーツだ。僕は給水器で水を一杯のんで、客を観察した。入ってきた客はカウンターテーブルに着くと、注文もしていないのに、カウンターの向こうから、トレイに乗った定食が出てくる。食べ終わった客は、金も払わずに店を出て行く。金はいらないのか? そんなはずはないだろう。

 僕は気を静めるために、しばらくここで休むことにし、カウンターの席に座った。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの裏から声が聞こえた。だが、店員は出てこない。

「ご注文は?」

 アジフライ定食があればいいのだが……、と心の中で思ったが、金を持っていない。

 そのとき、テーブル前の一段高くなった台の側面が開き、料理が出できてしまった。アジフライ定食だ。すると、僕の腹が鳴った。僕は空腹だった。しばらく迷ったが、空腹には勝てない。僕はアジフライにかじりついた。

 うまい。

 隣の席のピッタリスーツは、僕のほうをチラチラ見ながら、ナイフとフォークで高級フレンチのようなものを食べている。向こう側では、サングラスをかけた女がハンバーガーを頬張っている。この店は、食べたいものは何でも出てくるようだ。

 僕はアジフライ定食をあっと言う間に平らげた。店員は出てこない。定食代の催促もない。この時代はおそらく食物が豊富にあり、誰もが無料で好きなものを食べられる、そんな時代なんだろう。僕は勝手にそう解釈して、席を立ち出口に向かった。

 店を出る寸前で、誰かが僕の腕を引っ張った。振り向くと、それはハンバーガーを食べていたサングラスの女だった。

「おじさん、死にたいの?」

「え?」

「この時代は、食い逃げは死刑。すぐ執行されるのよ」

 僕はひとごとのように、彼女を見た。どうやって支払いをするのだろうか、疑問が残る。

 すると、遠くからサイレンのような音が聞こえた。

「まずい」、彼女は慌てた様子で呟いた。

 アジフライはうまかった、と心の中で思ったが、口には出さなかった。頭が混乱している。

「ついてきて」

 彼女は店を出ると、駅と反対方向へ向かった。僕は黙って彼女についていく。

 遠くのほうに、赤いランプのついた四角い箱が見えた。あれはパトカーではないか。こっちに向かってくる。彼女は気にせず、赤ランプの箱のほうへ小走りで向かう。僕は彼女を追いかけた。

 すると、赤いランプの四角い箱の脇から、別の四角い箱が現れた。ピンク色のそれは、ふわっと浮き上がり、建物の壁にへばりつきながら走行して、赤ランプを追い越した。そして、壁を伝いながら、すごいスピードで、僕たちに近づいてきた。彼女の仲間だろうか。

 ピンクの箱はどんどん近づき、目の前の壁まで来ると、壁にへばりついたまま、地面から一メートルほどのところで停止した。彼女は素早く壁に張り付いたピンクの箱にダイブした。彼女の体はピンクの箱に吸い込まれた。

「乗って!」

 ピンクの箱の側面から、彼女が顔を出した。

 乗り方がわからない。壁にへばりついたピンクの箱を下から覗いたが、ドアも窓もない。彼女がやったように、ダイブするだけなのだろうが……。すると、ピンクの箱の側面から腕がにゅっと伸びて、僕の襟首を掴んだ。腕が僕の体を引っ張り、僕はピンクの箱に吸い吸い込まれた。頭が箱に激突する寸前で、僕は思わず両手で頭を覆った。

 気がつくと、僕は箱の中にいた。箱の中には彼女と僕しかいない。自動運転だったようだ。すでに箱は発車していた。箱の中からは、ガラス張りのように外が見える。ピンクの箱はUターンして、駅と反対方向の来た道を戻る。前から赤ランプが来る。このまま進めばぶつかる。僕の背中に汗が浮かんだ。

 正面衝突ギリギリのところで、僕の乗っている箱は、ふわっと浮き上がって、赤ランプを飛び越え、そのまままっすぐ突っ走った。

「これを頭から被って!」

 彼女は運転しながら、僕に風呂敷のような物を差し出した。僕は渡された布を引っ張ったり裏返したりして、被るとどうゆう効果があるのかを考えていた。

「DNA追跡よ。あなたのDNA信号を遮断するの」

 意味はわからなかったが、差し出された布を頭から被った。

 僕は布の隙間から箱の外を見ていた。すごいスピードで走っているが、速さや揺れは感じない。ときどき、ふわっと宙に浮く感じがする。後ろを見ると、赤ランプの箱は壁を伝ってUターンし、こちらへ向かってきた。僕が乗っている箱はどんどんスピードを上げた。赤ランプは徐々に離れてゆく。やがて、それは見えなくなった。どうやら赤ランプの追跡から逃れたようだ。


 しばらく進むと、右手に駅らしき建物が見えた。ネムリ駅の看板がある。食堂を出て、駅と反対方向にまっすぐ進んでいると思っていたのだが……。

 箱はネムリ駅を通り過ぎ、しばらくしてビルの脇で止まった。そのビルは他の建物とは違い、僕がいた地球にある洋風な作りだった。

「降りて」

 彼女はそう言ったが、降り方がわからない。すると、彼女は見本を見せるように、箱の外へ足を出した。足は箱の壁をすり抜けた。体も同じように壁を通り抜けて、外へ出た。

 僕も同じように、足と体を外へ投げ出した。体が壁を通り抜けた瞬間、僕は背筋にぞくっと寒気を感じた。

 彼女は建物の入り口のドアを開け、中に入った。入り口には「ハテノフノト」と書いたプレートがあった。ここにもカナ文字がある。意味はわからない。ドロッパーのアジトだろうか。

 彼女についていこうと、ドアの向こうに足を半分入れたとき、ドアの前に止まっていたピンクの箱が勝手に動き出した。そいつはゆっくり浮上すると、建物の壁に張り付き、ゆっくりと消えていった。どうやら、建物の壁が駐車スペースになっているようだ。消えてしまったのはどういう仕組みなのだろう。

 僕はそのまま建物に入った。彼女は階段の手前で僕を待っていた。僕が階段の手前まで来ると、彼女は階段を上り始めた。僕は彼女についていった。

 途中、何人かにすれ違った。親子のような二人組もいたが、いずれもピッタリスーツにカッパ頭だった。赤ん坊の泣き声や、夫婦げんかの叫び声も聞こえる。ここは、ネムリで暮らす住民のアパートなのか、はたまたホテルなのか……。彼女は二階に上がると上の階には向かわず、二階のフロアに入っていった。そのまま長い廊下を進み、フロアの一番奥まで来て立ち止まった。彼女の前には「427」の番号がついたドアがあった。彼女はそのドアを開けた。

「どうぞ、入って」

 ここは、彼女の部屋のようだ。二階のはずなのに、この部屋の番号は4で始まっているのは何故だろう。

「おじゃまします」、僕が小声で言うと、彼女は僕のほうを見て、少し口角を上げた。

「その言い方……」、彼女は自分のカッパ頭をグイと引っ張りながら言う。「懐かしいわ」

 カッパ頭のカツラの下からストレートの髪が肩まで落ちてきた。そして、女はサングラスを取った。彼女は、十代だろうか、ずいぶん若い女の子だった。

 部屋は緑の壁紙の洋風な内装で、中央にガラスのテーブルとソファがあるだけのシンプルなものだった。

「ねぇ、おじさん。その服装じゃ、すぐに捕まっちゃうわよ」

 僕は自分の服装を確かめた。ジーンズにフード付きのベージュのジャケット。この格好は犯人の服装なんだろうか……。

「ここは住人と食材のバランスが常に一定に保たれているの。よそ者の食べ物はないのよ。あなたが食べた分、誰かが食べられなくなる」

 僕は黙って頷いた。よく意味が掴めなかった。ならば、彼女はなぜハンバーガーを食べていたのだろうか、疑問が残る。

「来たばかりのようだから、仕方ないけど」、彼女はそう言うと、僕にハンカチのような黒い布を放り投げた。雑巾か?

 よく見ると、Tシャツの形をしているのだが、それにしては小さ過ぎるし、首や腕を入れる穴もない。僕が裏と表を交互に眺めて観察していると、彼女は突然それをひったくって、僕のジャケット下のシャツを捲り上げ、お腹に黒いT型雑巾をペタッと貼り付けた。

「おじさんなのに、お腹は出ていないわね」、彼女はそう言って、にっこりと笑った。

 僕はお腹に張り付いた黒雑巾を眺めていた。これは何のおまじないなのだろう、と手を触れた瞬間、全身に何かが絡みついた。

「そのスーツはDNA追跡にも対応しているわ。さぁ、洋服は脱いで。ここでは目立ち過ぎるのよ」

 よく見ると、シャツの下に黒い物があった。いつのまにか、僕も彼女と同じピッタリスーツを着ている。

「それから、外に出るときは、これを被ってね」

 彼女はジャケットとジーンズを脱ぐ僕に、黒い物を放り投げた。僕は咄嗟に避けてしまった。黒い毛の生き物かと思ったが、拾い上げると、それはカツラだとすぐにわかった。おそらく、カッパ頭だろう。

「あの人たち、何であんな髪型なのかしらね。カッコ悪いと思わないのかな」

 彼女はよく笑う。笑うと両方のほっぺがへこむ。

「ねぇ、おじさん。記憶は戻った?」

 僕は首を横に振った。

「まだ、落ちて一日も経ってないのね」

 僕はこの世界のすべてに驚いていた。夢でも見ているのだろうか。

「私はエクボ。あなたは……と言っても、覚えてないわよね」

「記憶は戻るんですか?」

 ピッタリスーツの着心地は意外といい。僕は腕を伸ばしたり、体を曲げたりと、伸縮性を試した。

「うん。しばらくすれば、戻るわよ。戻らない人もいるけど」

「戻らない可能性もあるのですか」

「まぁ、戻っても戻らなくても、たいして変わらないわよ。私たちはここで死ぬしかないの」

「タイムループ時代の外から来たものは、生まれ変われない。あなたも過去から来たのですか? えーと、ドロッパー……でしたっけ?」

「そうよ。私たちドロッパーは生まれ変われない。もうそこまで知っているのね」

 彼女は僕が脱いだ洋服をきちんと畳んで、テーブルの横に置いた。

「他にもドロッパーがいるということですね」

「そうよ。ドロッパーは、彼らに紛れて暮らしているの」

「彼らは人間じゃないんですか?」

「ドリーシープスは人間なんだけど……。あなたの時代には羊のドリーはもういた?」

「あっ、クローンということ?」

 クローン羊のドリーの記憶は残っていた。余計な記憶ばかりが残り、肝心な自分自身の記憶が抜けている。

「そう。彼らは複製人間よ。おそらく、ひとりの人間のクローン。みんな顔が同じなのよ」

「タイムループ時代はどうやってできたんですか?」

「それがわからないのよ。私は2018年の地球で電車に乗っていたら、ここに落ちたの」

「もしかして、僕もそこから……」

 僕はソファに座った。

「おそらく、そうね。ここネムリは謎だらけよ。ツキノ書なんてのも、謎ばかりだしね」

 彼女は円錐を逆さまにしたような、おかしな赤い椅子に座っている。ちょうど、工事現場の赤いコーンのようだ。錐体の頂点だけで支えているようだが、どうやってバランスを取っているのだろう。

「そのことなんだけど。僕はどうやら、そのツキノ書の原書を持っていたらしいんです」

「何ですって! ツキノ書の原書……」

 彼女のコーンの椅子がグラっと揺れたが、起き上がり小法師のように、倒れずに揺れているだけだった。

「そう。ここに存在するツキノ書の続きが書いてあるようなんです」

「それは、どこにあるの?」

「駅員に奪われました」

「奪われた……。もしかしたら、帰る方法が見つかるかもしれないわ。取り返さないと……」

 彼女が椅子から降りて立ち上がると、コーンの椅子はシャンと逆三角形に立っていた。

「ですが、彼は銃を持っています。駅員をひとり殺しました。何で駅員が銃を……」

「ここでは、駅員は警察も兼ねているの。厄介だわね。法律なんてあってないようなものよ。彼らは死んでも生まれ変われるの。だから、殺人にはならない。盗むのも自由。物資や食料もタイムループのおかげで減らない。投獄されたところで、また簡単に人生をやり直せるもの」

 エクボは何か考えている様子で、顎に手を当てて、部屋をうろつき回っていた。テーブルの前で止まると、思い出したように、畳まれた僕の洋服を拾い上げ、クローゼットの前に移動し、扉を開けた。するとそのとき、僕の洋服から何かが落ちた。彼女はそれを拾い上げた。

「あら、これは!」

「あ、ツキノ書の原書と交換に、奴がそれをくれたんです」

「メビウストレインのパスじゃない! あなたがパスを持っているなら、殺された駅員に会いに行けるわね」

「過去へ戻るんですか?」

「いいえ、メビウストレインは単線列車よ。未来へしか進めないの」

「生まれ変わったチビに会いに行くんですね」

「チビ?」

「殺されたほうは背が小さいんです。殺したほうは背が高くて、ノッポ」

「それは好都合ね。彼らの顔はみんな同じだから、身長で区別できるわ」

「でも、パスは一枚だけです」

「一枚あれば十分よ」、彼女はそう言って、僕にウインクをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る