第4話「根無ノ里」

第四話 ——根無ノ里——



 この駅に来て、駅長と左食堂の店主、ハテノフノトのフロントマン以外に人を見ていない。おそらくではあるが、あの三人は同一人物だ。つまり、僕はこの根無ノ里駅で、ひとりの人物にしか会っていない。この町に住んでいる者は、他にはいないのだろうか。駅前のこの道には、人どころか車の一台も通っていない。まさに、人のいない「眠り駅」だ。

 ハテノフノトを出て駅に向かっているが、このまま駅に行っても、電車の来る時間は夜の十一時五十九分だ。あと、十二時間以上もある。ならば、隣駅まで歩いて行こうではないか、と僕は考えた。

 その前に、何かお腹に入れたいところだ。コーヒーも飲みたい。そういえば、さっきフロントマンが、「朝なら上、夜なら下」と言っていた。今はまだ午前中の「朝」だ。次は「上」を目指せばよいのだ。僕は歩きながら「上」を見上げた。

「あっ」

 ビルの上に「COFFEE」と書いた看板を見つけた。店名は書いていない。黄色い矢印の上にCOFFEEと文字があり、その矢印は先っぽでカクンと上に折れ曲がっている。駅前の通りまで曲がり角はない。駅に向かって進み、右に曲がれということだ。

 それにしても、今日はいい天気だ。空には宇宙船ディスカバリー号の形をした雲が浮かんでいた。木星探査に行くのだろう。僕はボーマン船長に手を振った。2001年はもう過ぎてしまったけれど……。

 駅まで来ると、ベイダー卿が駅前を掃除していた。

「おはようございます。いい天気ですね」、僕は空の様子を真似て、爽やかにあいさつした。

 だがベイダー卿は、うむ、と頷くだけで、声を発することも、手を振ることもなかった。相変わらず無愛想である。

 僕は気にしないで、コーヒーの黄色い矢印に従って右に曲がった。

 少し歩き、見上げると、また建物の上に黄色い矢印を見つけた。今度の矢印はまっすぐ前方を指している。僕は駅前の通りを直進した。矢印に沿ってずっと先を見渡したが、コーヒーショップらしき店はここからは見えない。

 駅前の商店街にはあらゆる店が立ち並んでいるが、どの店も閉まっている。精肉店、自転車屋、弁当屋、花屋……。どの店の看板も、老人が履き尽くした股引のようにくたびれている。まだ時間は午前九時を過ぎたところだ。昼になると営業を始めるのだろうか。寂れた町の、いわゆるシャッター商店街、という可能性もある。

 しばらく歩き、商店街の行き止まりのT字路まで来た。正面の壁に黄色い矢印があった。今度は左に曲がれ、と矢印が僕を誘導した。コーヒーショップは駅前商店街にあると思っていたが、そうではないようだ。

 左に曲がると、住宅地の細い路地が続く。僕は路地を進んだ。

 周りの家はどこも古く、人が住んでる気配はない。家の前に止まっている自転車は、フレームやハンドルが錆つき、タイヤはパンクしている。塀の上から庭を覗くと、どの家の庭も手入れされておらず、雑草が生い茂っている。こんなにいい天気なのに、物干し台には洗濯物ひとつも見当たらない。

 そこで、奇妙なことを発見した。どこの家にも「月野」の表札がかかっている。左食堂の店主やハテノフノトのフロントマンが、僕を「ツキノさん」と呼んだのは、このせいかもしれない。ここに来た者は皆、「月野」という名前を無理やりつけられる。そういう風習があるのかもしれない。

 大きな家の塀にコーヒーショップの黄色い矢印看板を見つけた。「5m先左」と書いてある。僕は仰せの通りに五メートル先の角を左に曲がった。

 そこには公園があった。小さな公園の遊具は、ブランコとジャングルジムだけだ。公園の隅っこに水飲み場を見つけた。目覚めてから一口も水を飲んでいない。僕は公園に入って、水飲み場の前に立ち、水道の蛇口をひねった。だが水は出てこない。ここへ来るまでに、飲料の自動販売機は一台も見つけられなかった。喉が乾いた。仕方なく僕は先へ進んだ。

 公園の先には鉄道の遮断機があった。この線路は根無ノ里駅へ続く線路だろうか。そうなら、コーヒーショップへの矢印は遠回りのはずだ。駅前から線路に沿って進めばすぐに線路を渡ることができる。商店街を進む必要はない。もしかしたら、別の路線かもしれない。だが、この路線も単線だ。単線の駅には乗り降りする人々も少ないはず。乗客が少ないから単線なのだろうか。そんな人口の少ない町に、別の路線の駅が二つも存在するはずはない。やはり、根無ノ里駅への線路なのだろう。

 遮断機を過ぎると、その先の民家の塀にまた矢印を見つけた。「7m先右」と。僕は七メートル先を目指した。そこは大通りだった。二車線の車道だったが車の通りなない。僕は大通りを右に曲がり、右側車線の歩道を歩いた。ふと、通り向こうの左車線側の壁をみると、黄色い矢印があった。COFFEEの文字の下には「5m先にアリ」と。ようやくコーヒーショップに辿り着いたようだ。

 辺りを見回すと、どこかで見たような建物があった。さっきまでいたホテルライトだ。チェーン展開している別のホテルライトなのだろうか。例えば、僕が泊まったところは駅前店で、ここは駅裏店だとか。

 横断歩道を渡り、ホテルの前まで来ると、僕は上を見上げた。ネオン看板の文字は、昼間だと見づらいが、所々電飾が落ちて「ハテノフノト」になっている。僕が泊まった駅前店のホテルライトに間違いない。隣のビルを見ると、その二階にコーヒーショップが見えた。

 なんだ、あの看板は。ふざけてるのか。こんなに遠回りをさせて、隣のビルのコーヒーショップに誘導するなんて、イタズラとしか思えない。僕は、やれやれ、と肩を落として、「朝なら上」へ向かった。まったく、誰の仕業だ。


 僕はビルの脇の階段を上がり、コーヒーショップの前に来た。店の入り口の頭上には、赤と白のストライプのテントが突き出ている。木枠のドアには「OPEN」の札がかかっていた。どうやら、営業しているようだ。僕はドアを開けて店の中に入った。

「いらっしゃいませ」と無愛想な店員が笑顔もなく言う。

 無愛想には慣れている。駅長も食堂の店員も無愛想だった。この町には無愛想な人が多い。といっても、彼らは同一人物なのだろう。この店員の顔も駅長のベイダー卿に似ている気がする。彼も同一人物か、と疑う。が、似ていない気もする。

「モーニングセットでよろしいですか?」、トレイにグラスを乗せてやってきた店員が訊く。

 モーニングセットを無理やり僕に押し付けようとしている。左食堂では注文もしていないのに、アジフライ定食が出てきた。あれよりはマシだ。

「他に何かありますか?」と訊き返した。

 僕は押し付けられたものではなく、食べたい物を食べるのだ。

「ありません」、無愛想な店員が、さらに無愛想な態度で、無愛想に言葉を発した。

「では、モーニングセットで」

 僕は少し苛立たしさを滲ませて、そう注文した。ないのなら仕方がないが、愛想の悪さが腹立たしい。

「かしこまりました」

 店内は、アメリカン・ダイナーのような洋風の作りで、広い窓のそばに設置されたテーブルと、その両側に赤いソファー型の椅子がある。壁にはウォーホル、ロックウェル、ホッパーなんかに似た絵が、ずらりと並んでいる。フロアの隅っこには、ジュークボックスもあった。一曲かけてみようか、と思い、ポケットの小銭を探った。ふと、昨日の赤電話の件を思い出した。もしや、あれも公衆貯金箱ではないだろうか。あり得る。僕は、ジュークボックスを諦めることにした。

 しばらくすると、フリフリ付きのエプロンを着た、フィフティーズスタイルのウエイトレス……ではなく、さっきの無愛想な店員が、無愛想な制服姿で、無愛想なトレイを持って、無愛想にやって来た。

「おまたせしました」

 彼はどこまでも無愛想である。しかし、トレイに乗ったモーニングセットは、とびきりが愛想よく、僕にご機嫌な表情でアピールして見せた。

 シロップのたっぷりかかったパンケーキ、カリカリのベーコン、スクランブルエッグ、ポテトサラダ、ミニトマトのプレート。小さなガラス鉢にはプレーンヨーグルト。そして、マグカップには、ブラックコーヒー。ザ・アメリカン・ブレックファースト、といった印象だ。

 彼はテーブルの僕の前にそれらを置くと、「ごゆっくり」と、こじんまりした愛想を残して立ち去った。

 僕はまず、マグカップのコーヒーをすすった。

 うまい。

 甘みも酸味も飛ばしたハイローストの苦味しかないやんちゃな代物ではなく、浅煎りの酸味の残る上品な逸品である。

 店員はカウンターの中でこちらを見ていた。控えめな愛想と、うまいコーヒーのお礼に、僕は親指を立てて、彼に合図を送った。すると彼は、笑顔も見せず、うむ、とひとつ頷いた。よく見ると、彼は手に取手のついた円錐型のベージュの布を持っていた。ネルドリップだ。

 僕はこの店が気に入った。わざわざ遠回りして来た甲斐がある。あのイタズラな道案内は忘れてあげよう。

 パンケーキも絶品で、キメ細かくしっとりとした生地に、自然な甘みのメープルシロップがかかっている。香りよく燻されたベーコン、ふわふわのスクランブルエッグもうまい。僕はあっという間にモーニングセットを平らげた。残りのコーヒーを飲み干すと、僕の後ろで、店員はコーヒーサーバーを持って待っていた。マグカップをテーブルに置くと、すかさず彼は空のマグカップにコーヒーを注いだ。彼は一流のバリスタだ。

「あのー、タンブラーなんて、置いてないですよね」

 僕はこのあと、隣の駅まで歩くつもりでいた。このコーヒーをタンブラーに入れて、携えて歩きたいと考えた。

 しかし、店員は返事もせずにカウンターに引っ込んだ。 やはり、ただの愛想の悪い店員だった。僕は素直に諦めることにした。

 さてそろそろ、隣駅まで歩き始めるとするか、と立ち上がり、財布をごそごそと探りながら、レジの前に立った。

 店員がレジにやってきた。

「ホテルのお客様は、無料です」、店員はそう言って、レジ台にゴトッと何かを置いた。

 タンブラーだ。

「え、そうなんですか。じゃ、タンブラー代は?」

「無料です」、店員は愛想悪くそう言った。

 どうだ、うちのサービスは凄いだろ、と奉仕を押し付けるわけでもなく、今後ともご贔屓に、と媚を売って愛想笑いを押し付けることもなくて、当然のことをしているだけである、という風に、彼は無愛想を僕に投げかけた。これこそが本物のプロの接客なのではないだろうか。

「ありがとうございます。ご馳走さまでした」、僕は無愛想のプロへ丁寧に感謝を告げ、店を出た。

 よく考えてみれば、僕はホテル代を払っていないことに気がついた。そういえば、昨日のアジフライ定食もタダだった。これはツイているということなのだろうか、この町で足止めを食らった不運の穴埋めなのだろうか。


 僕はコーヒーショップを出て、ハテノフノトの前を通り、根無ノ里駅のほうに向かって歩いた。そこで、おかしなことに気づいた。見上げると、コーヒー看板が消えていた。確かにビルの屋上にあったはずだ。今、その看板は、「居酒屋ゲンさん」になっている。巨大な看板がほんの一時間ほどで、取り替えられたのだろうか。それとも、グルッと裏返すとコーヒーショップの看板に戻る仕掛けになっているのだろうか。はたまた、僕を導くために、わざわざ一時的に取り付けただけだったのだろうか。

 まぁこの際、そんなことはどうでもいい。これから僕はこの町を出て行くのだから。

 僕は駅前を通り過ぎ、左食堂のほうへ向かった。線路沿いを進めば、隣駅に着くはずだ。天気はいいし、腹もいっぱい。鞄の中にはうまいコーヒーの入ったタンブラーもある。僕は根無ノ里の駅舎のほうを振り返り、さようなら、と笑顔を含ませて会釈した。

 少し進むと左食堂がある。だが、まだ暖簾が出ていない。ここから先はまだ足を踏み入れていない未知の空間だ。

 不思議な町、根無ノ里。一日に一本の電車、無愛想な駅長、小銭を飲み込む赤電話、アジフライ定食を押し付ける左食堂の店主、427号室のないハテノフノト、遠回りさせるコーヒーショップの看板、無愛想のプロであるコーヒーショップ店員。またいつか来てみよう。そう思うと、もう少しここに留まってみたくなった。そんな思いを振り切り、僕は前に進んだ。


 午前十時半。天気は快晴。根無ノ里駅を背に、線路沿いの道を進む。車の往来もなく、道の真ん中を歩く。ショルダーバッグの紐をタスキ状に斜めにかけ、腕を振って大股で歩く。革靴ではあったが、足取りは軽い。

 店舗が連なる商店街を抜けると住宅地に出る。住宅地は閑散としている。鉄道の行き来がなければ、静かで暮らしやすい町だろう。それにしても、電車が通らない。根無ノ里駅の発着は、午後十一時五十九分の一本だけだが、千葉と東京を結ぶ路線であり、駅を飛ばすだけで、十五分に一本ほどの往来があってもいいはずだ。それとも、ここだけ別の路線を敷いているのだろうか。

 住宅街を通り抜け、ちらほらと畑が現れた。しばらく歩くと、田舎の風景が目の前に広がった。もう二十分も歩いているが、線路の先を見ても駅らしいものは見当たらない。

 僕は少し休憩しようと、畑の脇の畦道にあった大きな石に座った。鞄の中からタンブラーを出し、コーヒーを飲んだ。田舎の風景の中で飲むコーヒーもまた格別だ。それにしても静かだ。畑では、大きな白菜が地面から顔を出している。僕はエイリアンの卵を思い出した。あの白菜の中から、牙を向いた小さなエイリアンの子供が出てくる気がした。

 そんな妄想をしていると、白菜畑の真ん中辺りで、もぞもぞと葉が揺れているのが見えた。目を凝らして見ていると、もぞもぞの位置が移動した。何かが動いている。いよいよ地球もエイリアンに侵略されたのか。もぞもぞは、白菜畑を通り抜け、何も植えられていない畑の土の上に出た。

 金色に輝くそれは、色がC3-POだが、形がR2-D2に見える。スターウォーズの名コンビが合体したようなそれに、僕の目は釘付けになった。僕は鞄からメガネを出してかけた。しかし、何のことはない、それは丸々と太った茶色のトラ猫だった。茶色の毛が太陽の光に輝き、その後ろ姿がお腹を突き出したR2-D2に見えた。僕は、フュー、と口笛を吹き、猫を呼び寄せた。猫は愛想よく振り向き、ニャー、と小さく鳴きながら、僕に近づいた。名前をつけよう。C3-POの色を持ったR2-D2ということで、ふたつの名前を合体させて、R3-DOという名はどうだろう。アールスリーディーオー、と呼ぶのも長ったらしく、アルサンドと省略した。

「アルサンド」と呼んでみた。

「ニャー」と返事が返ってきた。まるで、飼い主がそう名付け、いつもそう呼ばれているように。

 あいにく、アルサンドにあげるミルクも、キャットフードも、メザシも、鯛の尾頭付きも、持ち合わせていない。

「ごめんよ。何も餌になるものは持っていないんだ」

 鞄の中を漁ったが、チョコレートのかけらひとつも出てこなかった。猫を飼ったことがない僕は、猫が何を食べるのかとか、性別の調べ方とか、そんなことをまったく知らない。彼が彼であるのかも、わからない。もしかしたら、彼は彼女かもしれない。彼が彼女である、とはおかしな言い方だが、とりあえず、彼としておいた。そんなことはどうでもいいことだ。

 ふと、猫の好物を思い出した。インドネシアのジャコウネコはコーヒー豆を食べる。食べたコーヒー豆は猫の腸内で発酵され、消化せずに糞と一緒に排泄される。その糞に混じったコーヒー豆は「コピ・ルアク」といって、独特の香味を持つ最高級のコーヒーになる。

 コーヒー豆を食べるのなら、飲めるはずだ。僕は試しに、タンブラーのコーヒーを手のひらに注ぎ、アルサンドに差し出した。

 アルサンドはしばらくクンクンと匂い、ペロッと一口舐めた。すると、彼は、ウンギャー、と唸り声をあげて、よろよろとした足取りで、再び白菜畑へ戻って行った。猫はコーヒーが苦手なのだろうか……。

 その後、しばらく口笛を吹いてアルサンドを呼び寄せたが、二度と僕に近寄ろうとはしなかった。せっかく友達になれたのに……。

 仕方なく、僕は重い腰を上げた。もうすぐ隣駅に着くはずだ。

 線路沿いの道をさらに進んだ。十分ほど進むと、周りの畑はどんどん少なくなり、家やら店やらの建物が見えてきた。もうすぐだ。根無ノ里ともお別れだ。

 十字路で、舗装された片道車線から、別の道が合流し、二車線になる。車は一台も通らない。信号を渡り、歩道を歩く。繁華街なのか商店が連なるのだが、人気がない。

 なんだか見覚えのある風景だ。

 十メートルほど前方に、見たことのある看板が見えた。ホテルライトだ。まさか……。コーヒーショップを探している途中にも、同じ光景を見た。デジャヴか。

 僕は早足で、ホテルライトの看板に近づいた。遠くからでは切れたネオン看板の文字を確認できない。ライトホテルの看板に近づくに連れて、嫌な予感が増してくる。ホテルライトの直前で、右を見た。赤と白のストライプのテントがある。あのコーヒーショップだ。僕はホテルライトの看板の下まで走った。嫌な予感は当たった。ハテノフノト……だ。そんなはずはない。

 僕はそのまま先へ進んだ。そこで、驚愕の風景を目にした。根無ノ里駅、があった。

「どうなってるんだ!」、僕は思わず叫んでしまった。

 すると駅舎から、ベイダー卿が顔を出した。

「おはようございます。いいお天気で!」、ベイダー卿は、さっきとは違い、愛想よくそう言って手を振った。まるで、ざまぁ見ろ、とでも言っているように。

 僕は愕然と立ち尽くしていた。どこで、どう道を間違えて、戻ってしまったのだろう。僕は何も考えられず、無意識に駅を通り過ぎ、もう一度、まっすぐに進んだ。


 左食堂を超え、さらに先へと進む。

 住宅地をさらに前進する。

 やがて、畑風景が現れる。白菜畑の横には大きな石がある。畑の真ん中に、よろよろとふらつくアルサンドがいた。僕はアルサンドをじっと見つめた。彼は虚ろな目で僕を見ている。僕はアルサンドに見送られながら、先に進んだ。

 そういえば、コーヒーショップへの道順もおかしかった。あの方向に進んで、ハテノフノトに行き着くはずがない。

 田舎風景を抜けると、家や建物が増える。

 やがて、道が合流する地点に着く。遠くにハテノフノトの看板が見える。

 僕はいつのまにか走っていた。

 ハテノフノトの隣にはコーヒーショップ。

 そのまま走ると、やはり根無ノ里駅に着いた。

「どうなっているんだ!」、僕は先ほどと同じ場所で、先ほどと同じ言葉を叫んだ。

 するとやはり、先ほどと同じく、駅舎からベイダー卿が顔を出し、「おはようございます。いいお天気で!」と愛想よく言う。

 僕は懲りずに、今度は回れ右をして、逆に進んだ。

 ハテノフノトを通り過ぎ、コーヒーショップの前を横切って、道の合流地点を抜ける。家や建物がどんどん少なくなる。

 田舎風景をまっすぐ進むと、白菜畑が見えた。僕はアルサンドを探した。アルサンドはさっきと同じ場所で僕を見ている。彼はきっとパニックになった僕を笑っているのだろう。遠くからでは顔が確認できない。僕はさらに進んだ。

 田舎風景から、町の様子に変わる。

 住宅地を抜けると……おそらく、左食堂なのだろう。もうすぐだ。

 グルグルと同じところを回っているのはわかっている。僕は左食堂を探した。しかし、この辺りだろうと思っていたところに左食堂がない。もしや……抜けた! 

 僕は走った。根無ノ里から出られる。

 しばらく走ると、思わぬ場所に出た。僕の予想は大きく外れた。その場で僕は完全に方向を見失った。その場所は道の合流地点だった。先にはハテノフノトの看板が見える。もはや、打つ手なし。僕はとぼとぼと駅に向かった。

 根無ノ里駅の前で、僕は三度目の、「どうなっているんだ!」を飲み込んだ。そして、駅前のベンチに座り込んだ。ベイダー卿は駅舎の前で僕を見ている。やはり、夜の十一時五十九分まで待つしかないのだろうか……。

 ふと、思い出した。コーヒーショップまでの迷路の途中で、遮断機を渡った。もしかして、別の路線かもしれない。そう思うと、体力が回復してきた。僕はタンブラーのコーヒーを飲んで、立ち上がった。諦めるものか、と。

 駅前の商店街をまっすぐに進んだ。どうせ、コーヒー看板の矢印はもうないのだろう。構わない、記憶の通りに進めばいいだけだ。僕は腕を大きく振って歩いた。

 予想通り、二つ目の看板のあったところにそれはなかった。想定内だ。

 この先、商店街は終わり、T字路にぶつかる。そこを左だ。

 双眼鏡かなんかで、誰かがどこかで僕を見えているのだ、きっと。僕はできるだけ余裕があるふりをして、タンブラーのコーヒーを優雅に飲みながら、歩き続けた。

 やはり、T字路に矢印はない。

 左向け左をし、住宅街に入った。

 荒廃した月野の家が続く。

 大きな家の塀。矢印はないが、この先を左に曲がると公園がある。慌てるな。僕は心の中で自分に言い聞かせた。

 公園を抜けると、鉄道の遮断機があった。僕はまっすぐには進まず、線路沿いを左に曲がった。隣駅に到着することを期待して。

 焦ってはいけない。心を無にして、ただ歩き続ける。僕は見られている。おそらく、駅長のベイダー卿だ。彼は、左食堂の店主であり、ハテノフノトのフロントマンであって、コーヒーショップの店員でもある。僕をここへ留めておくのはなぜだ。僕は月野ではない。崎原覚だ。胸を張って、堂々と歩く。まっすぐ前を向いて……。

 気がつくと、根無ノ里駅の前に来ていた。すべての道は根無ノ里駅に通じている。歩くのはもうやめよう。僕は駅前のベンチに再び腰を下ろした。天気の良い、暖かな日だ。僕は何も考えず、目を閉じた。


 まぶたを開くと、目の前に猫の顔があった。僕は驚いてベンチから転げ落ちた。アルサンドが僕の鞄を漁って、お目当ての物をペロペロと舐めていた。タンブラーだ。彼はコーヒーが気に入ったようだ。僕はタンブラーの蓋を開け、手のひらにコーヒーを注いでアルサンドに与えた。

 ふと、背中のほうで視線を感じた。僕が振り返ると、そこには見覚えある人々がいた。駅長のベイダー卿、左食堂の店主、ハテノフノトのフロントマン、コーヒーショップの店員の四人が、少し離れて僕とアルサンドを見ていた。僕の予想は外れた。彼らは同一人物ではなかったのだ。現に、目の前に四人がいるのだから間違いはない。

「皆さん、こんにちは。お揃いで、どうかしましたか?」、僕は完全にパニックになっていたが、悟られないように、平静を装って言った。

 アルサンドは僕の手のひらのコーヒーを舐め尽くした。僕はアルサンドを抱えて、彼らに近づいた。僕が一歩近づくと、彼らは一歩遠のいた。二歩進むと、二歩後退する。少し早足で彼らを追うと、少し早足で僕から逃げる。いつまでも、彼らと僕の距離は縮まらない。

「どうしたんですか?」、僕は立ち止まって、彼らに尋ねた。

 僕の腕の中で、アルサンドは心地よさそうにあくびをした。

「そ、それは、何だ?」、左食堂の店主が驚いたような顔で僕に訊いた。

「嫌だなぁ、ちょっと太ってはいますけど、猫ですよ」

 太めの猫が猛獣にでも見えたのだろうか。

「ネコ、とは何だ?」、コーヒーショップの店員も目を見開いて僕に訊く。

「え? ニャンと鳴く、アレですよ」

 彼らは猫を初めて見たのだろうか。そんなはずはない。

「ニャンと鳴く? どれだ?」、ハテノフノトのフロントマンが眉間に皺を寄せて訊く。

 どうやら、彼らは本当に猫という生き物を知らないらしい。

 突然、アルサンドが暴れ出した。僕の腕をすり抜けて、地面に降り立ち、ふらふらと千鳥足で歩き出した。酔っ払っているのだろうか。コーヒーは猫にとって、麻薬のようなものなのだろうか。アルサンドが近づいてゆくと、彼らは二手に分かれて、アルサンドの通り道を開けた。アルサンドは彼らの間を通り抜ける。ときどき、よろっとよろけると、よろけた側の二人は怖がって、後退りした。アルサンドは、駅前の商店街をゆらゆら揺れながら歩いていった。

「皆さん、大丈夫ですよ。危険な動物ではありませんから」

「ドウブツ、とは何だ!」、左食堂の店主が興奮して訊く。

 どうやら、知らないのは猫だけではないようだ。

 腕時計を見ると、午後の五時。もうすぐ、日が暮れる。電車の発車時刻まで、あと、六時間と五十九分。ここは、普通の場所ではない。僕はメガネをかけて、アルサンドの行方を見守った。どこへ行くのだろう。そして、目線を彼らに向けた。そこで、頭の中が真っ白になった。

「あ、あなたたちは……」

 駅前のベイダー卿、左食堂の店主、ハテノフノトのフロントマン、コーヒーショップの店員、四人は同じ顔をしている。正確には五人だ。彼らの顔は……僕の顔と同じ、なのだ。なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。あれらは、確かに僕の顔だ。

「ところで、ツキノさん。あんた、そこで何をしているかね?」

 猫がいなくなると、すっかり落ち着いた表情で、ベイダー卿が僕に尋ねた。

 僕は彼らとは逆に、パニックになって言葉が出なかった。これは夢なのだろうか。意識が遠のいていく。

「ツキノさん!」

 フロントマンに声をかけられて、意識が戻った。

「電車を待っているんです」、僕は放心状態のまま答えた。

「今日は土曜日だ。電車は来ないが……」、ベイダー卿が告げると、ニヤッと笑みを浮かべた。

「えっ、次はいつ来るんですか?」

「月曜日だ」、ベイダー卿がいつもの無愛想で答える。ざまぁみろ、とでも言いたげに。

 僕は力を失って、ベンチに倒れこんだ。

「ツキノさん、私たちこれから、居酒屋ゲンさんに行くんですが、一緒にどうですか?」、ハテノフノトのフロントマンが倒れ込んだ僕に訊く。

 手を差し伸べるつもりはないらしい。

 四人はベンチで塞ぎ込んでいた僕の顔を上から覗いていた。どうやら、逃げられそうもない。

「お供いたします」

 僕は気を取り直した。そして、この町の謎を解き明かしてやろうと、彼らとともに居酒屋ゲンさんに行くことにした。

 彼らはさっそく歩き始めた。駅前をまっすぐに進んでいく。僕は立ち上がって、彼らの後を追いかけた。


 同じ顔の五人が縦に並んで歩いた。先頭はベイダー卿、左食堂の店主が続く、次はフロントマン、四番目にコーヒーショップ店員、最後に少し遅れて僕が歩く。ベイダー卿は商店街の突き当たりまで来ると、左に曲がった。もしかして、このルートは……。

「あのー、居酒屋ゲンさんはどこにあるんですか?」、僕は最後尾から彼らに尋ねた。

「ついてくればわかる」、先頭のベイダー卿が振り向きもせず、言う。

「黙ってついてくればいいのだよ」、左店主が続けて、言う。

「夜なら下」、フロントマンが、言う。

 朝なら上に続く、下の句だ。ヒントにもならない。

「うちの店の下だ」とコーヒーショップ店員が、言う。

 ようやく答えを教えてくれた。

「それなら、さっきの道を右に行けばすぐじゃないですか!」

 僕は苛立たしく彼らに言い放った。

「それだと、時間がかかるんだよ」

 コーヒーショップ店員が、僕の意見を否定した。

「でも、明らかにあっちのほうが近いじゃないですか!」、僕はさらに大きな声で彼らに言った。こればかりは、僕が正しい。

「距離ではなくて、時間的なものなんですよね」、フロントマンがバカにした口調で言う。

「こっちのほうが、早いってことですか?」

「そうそう」、左店主が呆れるように返事をする。

「そんなはずはありません。絶対に!」、僕はムキになって、大声で怒鳴った。

「ならば、試してみればどうかね」、ベイダー卿が冷静な態度でそう提案する。

「わかりました。僕はあっちの道を行きます。ここからでも、あっちの道のほうが、絶対に近いですから!」、僕はさらにムキになって叫んだ。

「近い遠いの問題ではなく、遅い早いの問題なんだよ」、コーヒーショップ店員がわけのわからないことを言う。

「じゃ、居酒屋ゲンさんの前で会いましょう」、僕はそう言い残して、彼らとはぐれ、駅前に引き返した。

 彼らはあそこから、住宅街を抜けて、公園の脇を通り、遮断機を渡って、やっと大通りに出るんだ。僕より早く着くはずがない。

 と、独り言を言っている間に駅前の大通りを左に曲がった。すると、遠くのほうで、誰かが手を振っているのが見えた。目を凝らして見ると、ハテノフノトのフロントマンだ。となりには他の三人の姿が見える。僕は早歩きで彼らに近づいた。

 そしてようやく、コーヒーショップの前に着いた。四人は待ちくたびれて、やれやれ、という表情をしていた。

「な、言っただろ」、左店主がそう言って、僕の肩を叩いた。

 彼らは近道で来たに違いない。そんなズルをしてまで、何を企んでいるのだろう。

「もう一回試してみるか?」、ベイダー卿が僕の目をじっと見て、訊いた。

「もう結構です」、僕はうんざりして、そう返事をした。

 そのとき、ベイダー卿が、コォー、と喉を鳴らした。

「今、店の前にいる。五人だ」、独り言を言った。

 ダース・ベイダーの呼吸音のような、コォー、という音は、喉を鳴らしていると思っていたが、そうではなく、無線か何かの雑音らしい。ふと見ると、左店主やフロントマン、コーヒーショップ店員の耳にも、イヤホンのようなものがあった。あれで、それぞれが連絡を取り合っているのだ。しかし、何のために……。


 居酒屋ゲンさんは、コーヒーショップの下にあった。今朝は気がつかなかったが、ビルの壁には「居酒屋ゲンさん」の看板があった。いや、今朝はなかったのかもしれない。

 ベイダー卿を先頭に、僕たち同じ顔の五人は、居酒屋ゲンさんに向かった。

 入り口はコーヒーショップへの階段の下にある。入り口の前には、ワイン樽が並べてあり、その上のボードには、横文字で「GEN」と書かれてあった。居酒屋ではなく、お洒落なワイン・バーといった風である。

 店内は薄暗く、カウンター席と、奥にはテーブル席がある。居酒屋らしい要素は微塵もない。カウンター内では、バーテンダーがシェイカーを振っていた。僕はバーテンダーの顔をじっと見つめた。やはり、彼の顔も同じだった。バーテンダーは来客に挨拶もせず、ベイダー卿に軽く会釈をするだけで、シェイカーを振り続けた。

 ベイダー卿はみんなを連れて奥のテーブル席に向かった。テーブルにはすでにひとりが待っていた。彼はベイダー卿の顔を見ると、挨拶がわりに右手を上げた。彼は床屋だろうか、肩のところにボタンがある白衣を着ている。そういえば、他の四人もそれぞれの仕事の制服姿である。ベイダー卿は鉄道員の制服、左店主は料理人の白衣、フロントマンはホテルの制服、コーヒーショップ店員はバリスタ風のベストにロングエプロンを着けている。仕事が終わったら、着替えればよいのに、と思ったが、顔が同じだから、制服姿のままのほうが見分けるのに都合がよい。

 バーテンダーがテーブルにやってきた。注文を聞きに来たのだろう。

「瓶ビールを十五本。料理は適当に」、ベイダー卿がバーテンダーに告げた。

「紹介しよう。こちらはツキノさんだ。飯屋と宿屋とコーヒー屋は会ってるな。そっちは、床屋とバーテンダーだ」、ベイダー卿は簡単に、僕を皆に紹介した。

「みなさん、職業で呼び合ってるんですか?」

「他に呼び方があるのか?」と床屋が不思議そうに訊き返した。

「名字で呼ぶとか、あるでしょ」

「ミョウジ、とは何だ?」と左店主が訊く。

 猫も知らなければ、名字も知らない。ここの文化は呆れたものだ。

 瓶ビールが十五本運ばれてきた。彼らはそれぞれにおのおののグラスにビールを注ぐ。

「左食堂のおやじさんは、左という名前じゃないんですか?」

「私は飯屋だ。それ以外の何者でもない。店は駅の左側にあるから左食堂だ」

 乾杯の斉唱もなく、それぞれがおのおののグラスに注いだビールを飲む。

「駅の右にあるから、ホテルライト、というわけですね」、僕はフロントマンのほうに向いて訊いた。

 フロントマンは手酌でビールを立て続けに二杯飲んだ。

「うちのホテルは、ハテノフノトだ。どういう意味かはわからない」、フロントマンが三杯目を注ぎながら言う。

「では、あなたはどうですか? ヨネダさん」、僕は駅長のベイダー卿に尋ねた。

「私のことかね?」

「そうです。制服のプレートに米田と書いてあるじゃないですか」、僕はベイダー卿の胸を指して訊いた。

「これは、ヨネダと読むのか? ベイダだと思っていたが……」

「ベイダ……」

 僕は彼をベイダー卿と名付けた。本当にベイダーだった。

「あなたの名前ではないのですか?」

「この制服は、前任の物だ。おそらく、前の持ち主がベイダなんだろう」

 僕も注がれたビールを飲んだ。

「あなたたちに名前はないんですか?」

「おそらく、ない、のだろう」、ベイダー卿は曖昧な答えを出した。

「そういうお前は、ツキノテツロウという職業じゃないのか?」、訊いたのは左店主だった。

「それは名前です」

「ツキノテツロウがお前の名前なのか?」、左店主がさらに訊く。

「いいえ、違います。僕の名前は崎原覚です」

「では、ツキノテツロウがお前の職業ってことだろ」と左店主が言い放つ。

「そういうわけじゃ……」

 そもそも、ツキノテツロウの定期券は、ベイダー卿がすり替えたんだ、と言おうとしたが、面倒になって口を閉ざすことにした。

 僕はムキになって暑くなり、上着を脱いだ。すると、ベイダー卿も駅員の帽子を取った。そして、左店主は頭に巻いた手拭いを外した。それから、フロントマンも帽子を脱ぎ、コーヒーショップ店員も頭のバンダナを外した。僕はそこで奇妙な光景を目にした。全員がマッシュルームカットだった。制服を着ていなければ、全員が同じ顔で同じ髪型。見分けがつかない。この髪型は、僕の横にいる床屋さんが切っているのだろうか。

 バーテンダーは次々に料理を運んできた。焼き鳥の盛り合わせにサイコロステーキ、モツ煮込み、枝豆、冷やしトマト、ホッケ焼き、バターコーンなどなど。居酒屋のメニューだ。彼らが居酒屋ゲンさんと呼んでいる意味がようやく理解できた。

 瓶ビール十五本もあっという間に飲み干し、ベイダー卿は焼酎を注文した。バーテンダーもいつのまにか皆に混ざって酒を飲んでいた。

 僕はお酒に強いほうだが、なぜか、焼酎を飲みだすころには、すっかり酔っ払っていた。どうせ、今日もこの町から出られないんだ。だったら、記憶をなくすほど、酔っ払ってしまおうじゃないか。



 目覚めると、電話が鳴っていた。ここはどこだろう。頭が痛い。電話のベルが、容赦なく、僕の頭の血管を攻撃してくる。ベッドの横の灯りが眩しい。

 そうだ、町の住人たちと居酒屋ゲンさんで飲んでいたんだ。誰かがこの部屋に連れてきてくれたのだろう。結局、この町の秘密を暴くことはできなかった。

 体を起こすと、手に冷たい物が触れた。ベッドの上に、鍵を見つけた。キーホルダーには「ホテルライト427」と書いてある。昨日見つけられなかった、死にな、の部屋だ。

 電話はけたたましく、僕を呼んでいる。仕方なく、僕は受話器を取った。今時珍しいダイヤル式の白い電話だった。

 電話の向こうの人物は何も言わない。

「……もしもし」、僕が言う。

『もしもし』、男の声が言う。

「どちらさまですか」、電話の向こうの男に尋ねた。

『そちらこそ、誰ですか?』、電話の男がおかしなことを言う。

「電話をかけたのは、あなたでしょ」と少し強い口調で言ってやった。

『石野、と言います』

 知らない名前だ。

 ふと見ると、ベッドの横の灯りは、電灯ではなく、ノートパソコンのモニターであることに気づいた。

「僕は、崎原ですが……」、僕も名前を告げた。

『覚さん……ですか?』

 相手は僕を知っているようだ。

「はい、そうです」

 だけど、なぜ、僕がここにいることを知っているのだろう。僕は電話のコードを伸ばして、ノートパソコンを覗いた。

『えーと……』

 相手は言葉に詰まっているようだ。ノートパソコンの画面は、文書ファイルが開いたままになっている。

「どちらの石野さん?」、僕は訊いてみた。

『あなた、今、ホテルライトにいるんですよね』

 質問の答えにはなっていないが、僕は驚いた。

「どうして、知っているんですか?」

 僕はノートパソコンの文書ファイルにざっと目を通して驚いた。僕の名前が書いてある。どうして、僕の名前が書いてあるんだ?

『メモを見た』

 メモとは何だ。何のことかわからない。

「この町から出られないんです。助けてください」

 僕がここに来たことを知っているなら、出る方法を知っているかもしれない。僕は、彼に助けを求めた。

「猫を見つけたら、ついていってください。そうすれば、出られます」

 猫、アルサンドだ。彼が僕を連れ出してくれるのか。

「猫ですね。わかりました。探してみます……」

 ところで……といいかけたとき、電話が切れた。僕がコードを引っ張って、机の上の電話機が床に落下してしまったのだ。

 僕は受話器を持ったまま、パソコンの文書を読んだ。そこには、僕がこの町に来てから、これまでの詳細が、小説のように綴られている。

 これは何なんだ。誰が書いたのだろう。不思議なのは、僕の心情までもちゃんと書かれていること。アルサンドの名前の由来など、誰にも話していないのだから、誰も知らないはずだ。これは僕が書いたのか? だが、そんな記憶はない。

 僕は受話器を戻した。白電話のダイヤルの中央に番号があった。この部屋への直通の電話番号なのだろうか。彼はこの番号にかけたのだろう。

 僕は鞄を開け、中から自分のノートパソコンを出した。そして、文書を開いた。僕の書きかけの小説「ネムリ駅」を読み返してみた。なんだか、アイデアが浮かんできた。ここに来てからの出来事をヒントにし、大幅にストーリーを変更してみよう。僕は新生「ネムリ駅」の執筆に取りかかった。主人公は、石野さんの名前を借りて、石野哲雄としよう。

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