第5話「石神」

第五話 ——石神——



 僕は電車に乗った。再び里根駅へ行くために。

 ドアの上の路線図を十分ほど睨みつけているが、里根という名の駅はどこにも見当たらない。路線図に名前が載っていないとすれば、私鉄ローカル線であることが考えられる。記憶を辿って、おおよその検討をつけた。僕が乗ったと思われる千葉県内のローカル線は、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄のいずれかだ。ルートを考えた。まず、千葉駅から内房線の五井駅で行き、そこから小湊鉄道に乗って終点の上総中野駅まで進む。いすみ鉄道に乗り換えて終点の大原駅まで行く。外房線に乗り換えて銚子まで進んで、銚子電鉄に乗る。このルートのどこかに里根駅があるはずだ。


 僕は五井駅で小湊鉄道のホームに向かった。そこにはカメラを首から下げた人たちが数人いた。これからホームに来る列車を撮影するのだろう。いわゆる「撮り鉄」たちである。彼らなら里根駅を知っているかもしれない。僕は近くにいたひとりの撮り鉄さんに声をかけた。

「あの、すいません」

 撮り鉄さんは振り向いた。Sky Magicと書いた青いブルゾンを着ている。彼の四角いメガネは曇っていた。年齢がわからない。彼のカメラは有名メーカーのデジタル一眼レフの上位モデルだ。

「な、なんですか?」、スカイマジックはおどおどして答えた。

「里根駅という駅を探してるんですけど、知りませんか?」、僕はそう言って、鞄から写真を出し、彼に見せた。里根駅で撮った駅舎のモノクロ写真だ。

「んー、ちょっと待ってて。友達が知ってるかも」

 ぼくが怪しい者ではないとわかると、彼は馴れ馴れしい態度に変わった。里根駅を知らない彼は、写真を持ったままホームの先端あたりにいる三人組のほうに向かった。

 ホームの先で、スカイマジックを交えた四人が円陣を組んで会議を始めた。彼はABOと書かれた赤いキャップの男に写真を見せている。他の二人がそれを覗き込んだ。口々に何か意見を交換しているようだが、ここからでは聞こえない。ABOの右隣の男が雑誌のようなものを開いて見せ、ABOが里根駅の写真と見比べている。

 三人が頷いた。そして、ABOはスカイマジックに写真を返した。

 僕は、ABOが何の頭文字なのかを考えていた。キャップの色から想像すると、血液型なのだろうか。

 スカイマジックは三人に頭を下げて、こちらに戻ってきた。

「おまたせー。友達によると、養老渓谷駅と上総中野駅の間にあった駅に似ているらしいよ」、スカイマジックは、あった、と過去形で話した。初対面にも関わらず、フレンドリーに。そして、写真を僕に返した。

 僕は手帳を出して、養老渓谷と上総中野の間、と記録した。

「今はない、ということなんだね」、僕はスカイマジックに訊き返した。

「そうだよ。その駅は昔、台風で山崩れの下敷きになって以来、廃駅になったんだって。駅名は知らないってさ」

 馴れ馴れしい口調だが、その幼い顔立ちからか、嫌な気はしない。手帳には、台風で山崩れ、廃駅、と書き込んだ。

「そう。ありがとう」、僕はスカイマジックに礼を言った。

「どういたしまして」、スカイマジックはそう言うと再び、駅のホームにある鉄道関連の諸々にカメラを向けて撮影を始めた。


 数分後、クリーム色と赤の列車が到着した。降りる人はいない。始発列車のようだ。乗る者も少ない。まだ、朝の六時を回ったところだ。車両は一両編成である。スカイマジックとABO軍団も列車に乗った。他の乗客は、袋に入った長い棒を持った女子高生。袋の中は弓だろうか、薙刀だろうか。そして、三十代くらいのサラリーマン風の男がひとり。

 六時八分、列車が駅を出発した。

 僕は車両の後ろのほうで、窓の外を見張った。確か、里根駅のホームは進行方向の左側にあったはずだ。里根駅を見逃さないように、カメラも準備している。スカイマジックとABO軍団も、車両の一番前でカメラを構えている。女子高生とサラリーマンは車両の真ん中あたりに向かい合って座り、どちらも本を読んでいた。

 珍しく、スマートフォンや携帯電話を睨みつけている者はいない。ここら辺りの田舎町まで来ると、まだ、携帯端末は普及していないのだろうか。そういう僕自身も、ケータイやスマホは持っていない。そのせいか、僕はこの列車の客たちを同士のように感じていた。アナログな客たちよ。

 列車はタイムスリップしたように、どんどん田舎町に飲み込まれていく。東京に住む僕には珍しい景色だ。今日は朝から天気がよく、暖かい。もうすぐ春が来るのだろう。のどかで静かな田園風景。空は澄み渡り、雲がぽっかり浮かんでいる。もうひと月もすれば、黄色い菜の花に囲まれた景色の中を、単線列車がゴトゴトと音を立てて進む光景が見られるはずだ。

 窓の外を見ていると、列車は止まることなく、ひとつの駅を通り過ぎた。もしかしたら、一日に一回しか止まらない駅もあるのかもしれない。根無ノ里駅のように。

 僕は目的地の里根駅を見逃さないように、窓の外を見ている。それにしても、景色が変わらない。円形に敷かれた線路の上を走っているみたいに、ずっと同じ場所を回っているようだ。

 途中、駅に何度か止まったが、里根ではない。無人駅もあった。いつのまにか、女子高生とサラリーマンはいなくなっている。女子高生のいた席にはおばあさんが座っている。おばあさんも布の袋に入った長い棒を持っていた。列車に乗っている間に、女子高生は歳を取ってしまったのか。あの棒は魔法使いの杖なのか、おばあさんは何やら念仏のようなものを唱えていた。


 小湊鉄道に乗って三十分。僕は窓の外の警戒を怠らなかった。だが、里根駅はもう少し町の風景だった。田畑ばかりの田舎町ではない。この路線ではないのだろうか。とりあえず、ABO軍団の情報を信頼し、養老渓谷駅で降りてみよう。そもそも僕は里根駅から知らない間に自宅に転送されたのだ。何が起こるかわからない。里根駅までの経路の記憶が消えていることも、摩訶不思議な現象のひとつである。

 もうすぐ七時になる。スカイマジックとABO軍団は、飽きもせず、車両の一番前でカメラを構えている。僕自身もずっと、車両の後ろのほうで、カメラ片手に窓の外を見張っているのだから、彼らをバカにはできない。

 先ほどの駅でさらに四人が乗ってきた。二十歳くらいの若い二人の女性。大学生だろうか。そして、小さな赤ん坊を抱えた母親。三・五人と数えるべきか。いや、小さくてもひとつの命だ。やはり、赤ん坊もひとりと数えるべきだろう。

 次の駅で、また二人組が乗ってきた。田舎のチンピラ風の男が二人、我が物顔で肩を揺らし、車両の前の撮り鉄軍団を威嚇する。ひとりはスカジャンを羽織った金髪、もうひとりは革ジャンにオールバックだった。

「おめーら、チャラチャラ、うぜーんだよぅ」、金髪のチンピラが彼らに大声で怒鳴った。

 スカイマジック・アンド・ABO軍団は、おどおどして、構えていたカメラを下ろし、おとなしく並んで座席に座った。

 すると突然、赤ん坊が泣き出した。

「朝から、うっせーな」

 もうひとりのオールバックのチンピラが赤ん坊の母親を睨む。

 母親の女性は「すいません」と、困った顔で立ち上がり、赤ん坊を揺らし、泣き止まそうと必死であやした。だが、赤ん坊の泣き声は、さらに大きくなり、車内に響きわたった。

「おい、おい、勘弁しろよぉ」

 さらにチンピラは母親を追い詰める。

「次の駅で降ります。すいません」

 母親は半泣きになっていた。

 すると……、

「降りる必要、なし!」、誰かが大きな声で叫んだ。

「赤ん坊は泣くのが仕事じゃ。仕事もせんと、遊んどるバカ者が言うでない!」、そう言ったのは、棒を持ったおばあさんだった。おばあさんはチンピラたちを睨むと、ニヤッと笑った。すると、おばあさんの頰には深い皺ができた。

「なんだとぉ、ババァ!」

 金髪のチンピラのひとりが立ち上がり、おばあさんに近づいた。

 すると、僕の後ろでドサッと何かが落ちる音がした、と思うと、長い棒を持った女子高生がおばあさんの前に立ちはだかり、袋に入ったままの棒の先をチンピラに向けた。いつの間にか、棒の女子高生は僕の後方に移動していたのだ。僕は進行方向に体を向けて、窓の外を見ていたので、後ろにいた女子高生に気がつかなかった。

 さらにもうひとりの金髪のチンピラが立ち上がった。すると、おばあさんも女子高生と同じように、長い棒をチンピラに向けた。

「お師匠様、ここは私にお任せ下さい。お師匠様の刃が汚れます」、女子高生はそう言って、棒を包んでいた袋を取った。すると、中から竹刀のような長い棒が現れた。

「えいやー!」、女子高生は威勢のよいかけ声を発し、薙刀を構えた。

「模造の薙刀でも、今のお前なら、一撃で倒せるじゃろうて。この鉄の刃を出すまでもあるまい」

 撮り鉄軍団はチンピラたちの後ろでカメラを構えた。これが俺たちの武器だ、とでも言うように。

「えーいっ!」、女子高生はさらにかけ声を発し、薙刀を構えた。

 チンピラたちはその勢いにも怯まず、おばあさんに詰め寄った。

「刑事さん、彼らを取り締まってよ!」、スカイマジックがこちらを見て叫んだ。

 どこに刑事がいるのだろう、と僕は後ろを振り向いた。誰もいるはずがない。もしかしたら、彼は僕のことを、刑事さん、と言っているのだろうか。僕はフード付きのジャケットにハンチング帽を被っている。見えるかもしれないが……。もしや、僕が彼らを取り押さえなくてはならないのか、と武器になる物を探した。ポケットを探ったが手帳しかない。僕はポケットから手帳を出して、慌ててふためいていた。

 すると、チンピラの二人組は、一歩、二歩と退いた。

 そうか、スカイマジックはこの手帳を見て、僕を刑事だと思ったのだ。手帳は黒い革製で、表紙には「葛飾銀行」と金色の文字で書いてある。遠目からみると、警察手帳に見えるかもしれない。

「ごっほん、うぅん」、大袈裟に咳払いをして、腕を組み、目をつぶった。

 彼らは元の座席まで後退りして、そのまま、膠着状態が続いた。赤ん坊の泣き声だけが車内に響く。

 すると、どこからか歌声が聞こえてきた。フランス語だろうか、ドイツ語だろうか、美しいハーモニーの歌声が、車内に流れた。女子大生の二人組が立ち上がり、薙刀の女子高生の後ろで歌い始めた。そのとき、ちょうど列車は駅に着いた。

 二人組のチンピラは周りを見渡し、そのまま列車を降りた。

 入れ替わりに、ひとりのおじいさんが乗ってきた。

「おやまぁ、今日はお祭りかい?」、車内の様子を見て、おばあさんに訊いた。

 どうやら、おばあさんの知り合いらしい。

 女子大生の歌声は、終盤に差し掛かるころ、赤ん坊の泣き声が止んだ。そして、笑い声に変わった。

「車内の迷惑行為撲滅と、マナーの保全にご協力頂き、誠にありがとうございます」、いつのまにか、車掌が車両の一番前に出てきて、敬礼をしながら挨拶をした。

 すると、どこからか拍手が起こった。そして、僕も拍手をした。

「お嬢さん、あんたやるね」、おばあさんが女子高生に言う。

「ばあちゃんも、なかなかのいいお芝居だったわよ」、女子高生が笑顔で言う。

 どうやら、師弟関係ではないようだ。二人ともチンピラの撃退に、ひと芝居打ったという訳だ。

「あんたたちも、いい歌、ありがとよ!」、おばあさんは女子大生に声をかけた。

 赤ん坊の母親は、おばあさん、女子高生、女子大生、そして、乗り鉄軍団の順に、頭を下げてお礼を言った。そして、最後に、僕にもお礼を言った。僕はただ咳払いをしただけだが……。

「刑事さん、助かりました。私、これ、始めたばかりなんです。襲ってきたら、どうしようと思って、怖かったわ」

「あ、僕、刑事じゃないですよ。ほら」、そう言って手帳を見せた。

「あら、ただの手帳じゃない。葛飾銀行、だって」、女子高生は笑った。

「なんだ、おじさん、ほんとに刑事さんだと思ってたよ」

 スカイマジックも笑う。

「ところで、おばあさん。その棒は本当に薙刀なんですか?」、僕はおばあさんに訊いてみた。

「まさか。物干し竿じゃよ」

 それを聞いて、皆が一斉に笑った。

 それから、束の間の時間を列車の中で過ごした。なんだか、とても心地よい時間だった。みんなで一致団結して、チンピラたちを追い払ったのだ。あとから乗ってきたおじいさんの話では、チンピラが降りたあの駅は、一日に一回しか列車が止まらない無人駅らしい。彼らは何もない無人駅で、明日の朝まで過ごすことになるようだ。

「あのー、ちょっとお伺いしたいんですけど」

 僕はこの機会に、里根駅について何か知らないか、おばあさんとおじいさんに訊いてみることにした。

「何かね」、おばあさんが言う。

「このあたりで、里根という駅を探してるのですが、ご存知ないですか?」

 おばあさんは隣に座るおじいさんの顔を見た。

 おじいさんは、少し間を置いて、こう答えた。「里根駅は土砂崩れで埋まってしもうた駅じゃ」

「もう、六十年ほど前になるかのー。あたしらはまだ子供じゃった」

 おばあさんが目を細めて、遠い昔の記憶を探していた。

「わしらは里根のもんじゃ」

 僕はカバンから里根駅の写真を出して、おじいさんとおばあさんに渡した。

 おばあさんは写真を受け取ると、「ほんに、里根の駅じゃ。この写真、どこにあった?」と僕に訊いた。

「昨日、僕が撮影したんです」

「昨日?」、おばあさんはそう言って、再びおじさんの顔を見た。

「まさか、お前さん。里根に行ったのかい?」、おじいさんは意外なことを訊いた。

「はい。里根駅にもう一度行きたいんですが……」

「ばあさん、あの噂は……」、おじいさんはおばあさんに言いかけた。

「土に埋まった里根の町を掘り起こしたんじゃが、町の痕跡は何も出てこなかったんじゃ。駅も店も家も里根の町の人たちも、そっくりそのまま、どこかに消えてしもたんじゃ」、おばあさんは昔話を語るように、ひとつひとつの言葉に抑揚をつけて話した。おばあさんの頰の皺ほど、深い過去の昔話。

「今も、どこかにある、ということですね」

 実際、僕は昨日、里根の駅にいたのだから。

「わしらも行ったんじゃ。若いころに」

「つまり、土砂崩れの後ですね。どうやって行ったのか覚えていますか?」

「それが、わからんのじゃ。わしらは、東京から戻る列車で、ばあさんが、腹が痛い、というんで降りたんじゃ。そこが里根駅じゃった」

「町の様子は?」

「町は変わっとった。じゃが、あれは里根の町じゃ。わしらの住んでた町じゃ。家や駅は新しくなっておったが、元々の地形は変わらん。川があった場所や遠くの山の景色なんかは、里根の町と同じじゃった」

 おじいさんは懐かしそうに、遠くの景色を見ていた。

「そこからどうやって戻ったんですか?」

「わしらは宿をとって、そこで眠った。次の日起きたら、もう家に戻っておった。あれは夢じゃったのかのー」

「ふたり同時に同じ夢を見るはずがないわい」、おばあさんはそう言って頷いた。

「僕もホテルに泊まって、次の日に家にいたんです。でも、ほら、この写真が証拠です。夢ではないんです」

「なぜ、そんなに里根に行きたいのかね」

「里根のホテルにパソコンを置いてきたんです。そこには書きかけの小説があるんです」

「ほう、それを取り戻したい、ということじゃな」

 そのとき、電車のスピーカーから、もうすぐ養老渓谷に到着することを告げるアナウンスが流れた。

「とにかく、里根の駅があった場所に行ってみようと思います」

「駅を出て、まっすぐ北へ進むと、石神という村がある。里根の駅はその辺りじゃ」

「石神ですね。わかりました」

 電車は養老渓谷駅に到着した。皆はひとつ先の上総中野駅まで行くようだ。

 僕が電車を降りるとき、おばあさんは風呂敷から饅頭をひとつ取り出して、僕に差し出した。おばあさんが笑うと、さらに頰の皺が深くなった。

 僕はおばあさんに、ありがとうございます、と伝え、みんなに挨拶をして、電車を降りた。

 スカイマジックとABO軍団、おじいさんとおばあさん、薙刀の女子高生、若い母親、大学生、みんなが僕に手を振っていた。僕は電車が出発するまで、ホームにいて彼らを見送った。


「ご乗車ありがとうございます」、駅長が改札口で僕に言う。

 僕は笑顔でそれに答えた。そのとき、改札横のベンチの下で何かが動いた。だがそれは、さっと駅舎の建物の陰に隠れた。

「アルサンド……」、僕は思わず呟いた。

 アルサンドを見た。丸々と太った茶色のトラ猫、あれはアルサンドだ。間違いない。僕は駅舎の横に回った。

 そこにもベンチが並んでおり、猫たちが大勢で戯れていた。七、八匹はいるだろうか。猫たちはよく飼いならされており、僕を見ても逃げない。逃げるどころか、ぞろぞろと僕の足元に近寄ってきた。その中にアルサンドを探したが、丸々と太った茶色のトラ猫はいなかった彼らは僕の足元にすがる。餌が欲しいのだろうか。おそらく、駅で飼われている猫だろう。毛並みが良く、愛想のいい猫ばかりだ。

 僕は彼らの訴えに気づいた。ベンチの奥のゴミ箱がガサガサと揺れている。僕は近づいて、中を覗いた。

 子猫がゴミ箱の中に落ちたのだ。ホームとの間の柵に登って遊んでいたときに、落ちたのだろう。彼らは、僕に助けを求めていたのだ。長年、アルサンドと暮らしていたせいか、猫の言いたいことが、何となくわかる気がする。

 僕は子猫をゴミ箱から救出して、地面に放した。すると、猫たちは一斉に、僕にお礼を言うように、うんうんと頭を振っていた。

 アルサンド、確かに見たんだが……。

 僕は猫たちに見送られながら、駅からまっすぐ北へ進んだ。駅前には、飯屋が一件あるだけで、コンビニもパチンコ屋もない。


 しばらく進むと、大きな赤い橋があった。下には川が流れている。もっと山に入れば、渓谷があるのだろう。

 橋を渡ると、景色は一気に田舎の風景に変わった。道は舗装されていたが、片側は雑木林で、反対側は畑が広がる。サラサラと木々の葉が擦れる音が聞こえ、遠くのほうでカラスが鳴いている。どこまで進んでも変わらない景気、電車で見た光景と同じ。風が吹くと少し寒い。

 僕は鞄からカメラを出して、冬の終わりをフィルムに収めた。葉を落とした裸の木々、何も植えられていない土色の畑、乾いた水路、うす茶色に塗られた田舎町。

 もうすぐ春が来る。土の下では、草花や虫たちが、春の支度を始めていることだろう。小さな虫の幼虫たちは、今ごろ土の中で折りたたまれた花びらに、赤や黄色や紫の色を塗っているのだろう。


 石神、と書かれたバス停があった。停留所のポールは赤く錆びつき、木製のベンチがひとつ置かれている。屋根はない。三メートルほど先の道端で、お地蔵様が寒そうに立って、バスを待っていた。赤い前掛けは、ずいぶんくたびれている。先ほど、電車でおばあさんにもらった饅頭を、待ちぼうけのお地蔵様の足元に置いた。里根駅はここら辺りなのだろうか。民家が数件、軒を連ねている。バスは来るのだろうか。

 石神の村の家はどこも古めかしく、うっかり火の粉を落とせば、一瞬にして灰と化してしまいそうな、木造の家や、トタン屋根のバラック小屋ばかりだ。表札もあるし、玄関先の鉢植えの手入れされているところを見ると、人は住んでいるようだ。

 僕の鼻に、ふと懐かしい匂いが止まった。少しカビ臭い、芝生の匂い。何の匂いだったか、僕は辺りを見回した。

 数件先に古本屋を見つけた。あれだ。

 古い木造の店、ガラスを張った引き戸の向こうに、たくさんの本が積み重なっている。看板はなく、ガラスに「古本」とだけ、ところどころ剥げた金色の文字で書いてある。こんなところに古本屋なんて。買う人はいるのだろうか。売る人はいるのだろうか。

 店の奥に丸いメガネをかけた店主が難しい顔をして座っていた。僕はガラス張りの引き戸を開けた。

「やってますか?」

 店主に声をかけたが、店主は微動だにせず、本を読んでいた。返事はない。

 僕はそのまま古本屋に入った。そしてまず、里根の町の歴史が書いてある本を探した。

「左の列の上辺りだ」、唐突に店主が言った。

 僕は右の列から店主のいるレジカウンターの前まで進み、左の列へ曲がった。店主は僕が何を探しているのかを知っているのだろうか。左の列の上辺り。そこには数冊の町の歴史書があった。

「どうしてわかったんですか?」

「街から来る者は、たいがいそんな物を探しおる」、店主は本を読みながら、僕に返事をした。

「なるほど」

 僕は写真が載っている雑誌を手に取った。ABO軍団のひとりが持っていた雑誌はこれではないだろうか。「月刊鉄の道」という雑誌の表紙には、機関車のモノクロ写真の下に、「下総特集」とあった。

 僕は店主に尋ねた。「里根という駅を探してるんですが……」

 店主は本を置き、メガネを外した。「あんたの足の下にある」

「今もこの下にあるのですか?」

「それを確かめるために、ここへ来たんであろう」

「町ごとどこかへ消えた、という噂を聞きました」

「逆だ。よそにあった町が、突然、ここの地に現れて、そして消えていったのだ」

「なぜ、ここに現れたのですか?」

「次元の歪みだ」

「次元……ですか……」

 店主はカウンターの下から針金を出した。もとの形は、おそらくハンガーだろう。

「このまっすぐな線は一次元だ。これを折ると……」

 店主は針金を折り曲げて、四角にした。

「平面ができあがる。さらに折り曲げると……」

 店主は続けて、針金の四角い枠の一辺を九十度に折り曲げ、その向かいの一辺を逆方向に九十度折り曲げた。

「立体ができあがる……」

 店主は僕の顔を睨みつけて、さらに続けた。

「一次元は二次元に、二次元が三次元に、さらに歪みを加えると、三次元が四次元になる」

 店主はさらに針金を曲げた。カウンターの上で、いびつな形の針金細工が、絶妙なバランスで立っている。店主は僕の顔を見て、ニヤリと笑った。

 僕は店主が何を言おうとしているのか、わからなかった。

 店主は再び、本を読み始めた。

 僕はここに何をしに来たんだろう。

 ふと、となりの本棚に目をやった。棚の枠には、マジックインキで「つ」と書かれてある。頭文字が「つ」の著者の古本が置かれている棚を、端から順に目で追った。「月野哲郎」の本があった。こんなところで、僕の書いた小説が読まれていたなんて。だが、タイトルを見て驚いた。

「ねむり駅」。

 この小説はまだ書きかけで、その原稿は里根駅の近くのパラダイス・ヘブン・レスト・ホテルの427号室に忘れてきたパソコンにあるはずだ。

 僕は「ねむり駅」を本棚から取り出し、それを開いた。最後のページまでめくると、ちゃんと話が完結している。

 どういうことだろう。どうやら僕はこの本を手に入れるために、ここへ来たようだ。

 僕は本を閉じ、レジに向かった。そして、里根駅の雑誌と「ねむり駅」を店主に差し出した。

「あんたは、どちらへ行こうとしているのかね?」

「どちら、と言いますと……」

「わかっているはずだ」

 僕は少し考えを巡らせて、「ねむり駅のほうです」と答えた。

「持って行きなさい」

 店主は「ねむり駅」の小説を差し出し、雑誌はカウンターの裏にしまった。

「代金は?」と尋ねたが、店主は答えなかった。

 どうやら、ただで貰えるらしい。僕は、小説「ねむり駅」を上着の裏ポケットに押し込んで、古本屋を出た。

 この本を読めばすべてがわかる。なんとなくそう思い、僕は来た道を戻った。


 途中の「石神」のバス停にバスが止まっていた。僕は前方に回って、行き先を確認した。養老渓谷駅に行ってくれればいいのだが。

 バスの前面の行き先表示は「ねむり駅」となっていた。このバスが、僕を「ねむり駅」に連れていってくれるようだ。

 僕はバスの側面に回り、乗車口のステップに足をかけた。ふと、バス停の先に目をやった。行きにいたはずのお地蔵さんがいなくなっていた。お地蔵さんも無事にバスに乗ることができたのだろうか。

 僕はバスに乗り、真ん中辺りの席に腰を下ろした。僕がシートに座ると、すぐにバスが発車した。僕を待っていたようだ。

 バスは田舎道を走り続けた。どこまでも田や畑が続く。僕は上着のポケットから、小説「ねむり駅」を出し、読み始めた。最初の部分ははっきりと覚えている。これは僕が書いたものだ。崎原覚が根無ノ里に迷い込むシーンだ。あのホテルで第三話を書き上げたはずだ。その先は、どこまで書いたのだろうか。記憶がない。僕が最後まで書いたのだろうか。いや、そんなはずはない。誰かが、あの続きを書いたのだろう。そんなことを考えながら、本を読んでいると、静かに睡魔がやってきた。

 バス停でバスが止まる。他にも「ねむり駅」に行く者がいるのだろうか。すると、袈裟姿のお坊さんが乗ってきた。お坊さんは僕が座っているシートの斜め前に座った。

 バスが発車する。

 お坊さんは袂を探っている。そして、袂からお饅頭を出した。それは、僕がお地蔵さんに供えた、おばあさんからもらった饅頭だった。お坊さんは、僕のほうに振り向いて、無表情で頭を下げ、饅頭を半分に割って、僕に差し出した。彼はあのお地蔵さんなのか。僕はもう夢の中にいるのだろうか。僕は立ち上がってお坊さんの差し出した饅頭を受け取った。

 ふと、バスの運転席に目をやった。運転手がこちらを見ていた。運転手の顔が猫だったのだが、僕はなぜか、それほど驚かなかった。座席に戻って、半分の饅頭を頬張った。疲れていたせいか、饅頭の甘さが体に染み渡り、やけにうまい。饅頭を咀嚼し、ゴクリと飲み込んだ。

 いつの間にか、バスの中には乗客がいっぱいになっている。乗客は皆、猫の顔をしている。ひとりの子供が僕に声をかけてきた。もちろん、顔は猫だ。

「おじさん、ねむり駅に行きたいの?」

「このバスが連れて行ってくれるんだろ?」

「うん。僕の父さんがね」

「運転手は、君のお父さんかい?」

「そう」

「なぜ、親切なんだい?」

「親切なのは、おじさんのほうさ」

「え?」

「ゴミ箱に落ちたの、助けてくれたでしょ」

「あー、あのときの子猫か」

「そう。お地蔵さんに頼んだら、魔法をかけてくれたんだ」

 斜め前の席で、お坊さんがニコニコと微笑んでいた。

「向こうで、アルサンドのじいちゃんが待ってるよ」

「アルサンドを知ってるのかい?」

「うん。アルサンドのじいちゃんは、猫の世界では有名猫だよ。なんたって、三度も生まれ変わってるんだからさ」

 だんだんと意識が遠のいてゆく。子供の猫の話を聞きながら、そのまま僕は眠ってしまった。

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