第6話「ネムリ」
第六話 ——ネムリ——
僕とエクボはメビウストレインに乗り込んだ。エクボは僕がノッポから貰ったパスをコピーして作った偽造パスを持っている。どこからどう見ても偽物なのだが、彼女は難なく改札を通過した。エクボが言うには、ちょっとしたコツ、があるのだそうだ。それは、偽造パスを作るコツなのか、改札をすり抜けるコツなのか、僕にはわからない。とにかく、彼女は鉄道員の目を盗んで、僕と一緒にメビウストレインに乗っている。
僕たちが向かっているのは2130年駅だ。この年はノッポが生まれる一年前にあたる。エクボの計画は、母親を探し出し、ノッポの誕生を阻止する、というものだ。ノッポの母親を探すにはチビの協力がいる。2105年に生まれ変わったチビは、二十五歳になり、鉄道員になっているはずだ。
「そんなに簡単に、うまくいくのかい?」
あまりにも単純なエクボの作戦は、到底うまくいくとは思えない。
「疑ってるのね。私を信じなさい」、エクボは自信たっぷりに答える。
「疑ってないさ」
信じてもいないけど。エクボは楽観主義なのだろう。
「2101年にノッポがいなければ、チビは殺されることはない。そうすれば、ねむり駅の原書も奪われることはないわ」
「とにかく、行ってみるしかない、ってことだね」
「そういうこと」
メビウストレインから見る景色は、ただ同じところをぐるぐると回っているだけだった。同じ場所なのだが時代が違う、ということなのだろう。二十九回、同じところを回れば、2130年駅に到着する。
二十九回目の同じ景色のあと、僕たちは2130年駅に到着した。2130年駅は、2101年のネムリ駅と、なんら変わらない。なんだか騙されているようだが、ここは2130年駅なのだ。
「構内のどこかにチビさんがいるはずよ」
僕たちは駅のホームに立っている。ピッタリスーツを着て、カッパ頭のカツラを被って。
エクボは突然カッパ頭を外し、カバンから何かを出して、僕に放り投げた。それは、僕がネムリ駅に来たときに着ていたフード付きのジャケットだった。
エクボは、赤い革のジャケットを羽織った。
「その格好じゃ目立ってしまうよ」
「そうよ。それでいいの。あなたがここへ着たとき、どうなった?」
「あ、そうか。チビが来て、僕を駅舎に連れていったんだ」
僕は初めてここへ来たときのことを思い出した。
「彼はおそらく、不審者を捕らえる係なのよ」
エクボの推測はあてにならない。
しばらくすると、駅員がやってきた。しかし、それはチビではない。身長は170センチほどの中背の男だった。
「ちょっと、ふたりとも一緒に来ていただきましょうか」
彼が不審者を捉える係のようだ。エクボの予測は、やはり、外れた。チビは僕たちを捕まえに来ない。僕たちはおとなしく、駅員についていった。
駅員が案内した場所は、僕が以前2101年駅で連れていかれた場所と同じ部屋だった。
「大丈夫よ。私たちがドリッパーだと分かると、すぐ解放されるわ」、隣でのんびりと座っているエクボが、僕に小声で言う。
駅員が帽子を脱いで、机の向こうの椅子に座る。
「君たちはトラベラーか?」、駅員が机を挟んだ向こうから、僕たちに訊く。
「違うわ。私たちはドロッパーよ」、エクボが身を乗り出して答える。
「それはおかしいな。ドロッパーなら記憶をなくしているはずだ。自分がドロッパーであることも知らないはずだが」
エクボは僕の顔をじっと見つめた。エクボの作戦は失敗した。僕たちはトラベラーとみなされて、即処刑されるのだろう。
僕たちのいる後ろのドアが開いた。
「先輩、どうですか? トラベラーですかね?」
それは耳の大きな背の小さい若い男だった。
あの大きな耳、チビだ。間違いない。
「僕を覚えていますか?」、僕は立ち上がり、思い切って訊いてみた。
「私に会ったことがあるのですか?」
チビは覚えているはずもない。彼は僕に会ったあと、死んで、また生まれ変わったのだから。
「はい。2101年に、僕はあなたに会っています」
チビは先輩駅員の隣に座る。
「残念だが、彼が生まれる前だ。お前に会えるはずもない」
先輩鉄道員は机の上でペンをコツコツとならす。
「確かに、生まれまる前ですが、メビウストレインで2101年に行くことは可能です」、チビは冷静に判断して、そう言った。
彼は頭がよい。
「あなたに会いに来たんです」、僕は事実を彼に伝えた。彼ならきっと信じてくれるだろう、と。
「なぜ、僕に会いに来たんですか?」
「2101年に、あなたは殺されたんです。犯人はノッポの同僚です。彼は来年生まれます」
「え? 2131年生まれのノッポ? カピタルシープの頂点に立つ彼が?」
「ノッポを知ってるの?」、エクボが机に乗り出して、チビに尋ねる。
「彼を知らない者なんていませんよ。彼はツキノ書の原書を発見して、大金持ちになったんです」、チビが羨ましそうに答える。
「そのツキノ書は僕が持っていたものなんだ。彼はそれを奪って、君を殺した」、僕は2101年の出来事をそのまま話した。
「僕が殺された? ……君がツキノ書の原書をタイムループ時代に持ってきたのですか?」
「そう。理由はわからない。どういうわけか、僕が持っていたんだ」
「まさか、君がサハラー・サトールですか?」
サハラー・サトール。この街を作った人物。
「わからない。僕はここに来たばかりだ。記憶がまだ戻らないんだ」
「なるほど。ドロッパーなら、記憶がない」
ようやく先輩鉄道員が信じてくれたようだ。
「殺されたのは、本当に僕なのですか?」
「うん。2105年に生まれる君は、2130年には鉄道員になっているはずだと思って、僕はこの駅に来たんだ」
「確かに、僕は2105年生まれです」
「でも、2105年生まれの人なんて、たくさんいるだろうけど……」
「いいえ、このタイムループ時代には、一年にひとりしか生まれないのです」、チビは真剣な表情で告げる。
「そうなの?」、エクボがキョトンとした表情で驚く。
「そう。ここでは一年にひとりずつ、百人が生まれるのさ。つまり、2105年生まれのドリーシープスは彼しかいない」、先輩鉄道員が詳しく説明を付け加えた。
「僕たちには、名前がありません。生まれた年が名前のようなものなのです」
名前のない彼に、僕がチビという名前をつけた。
「なるほど」
僕は彼らの言うことに納得した。
「だが、君たちがツキノ書を持っていても、大金持ちにはなれないよ。ドロッパーには権限がない」、先輩鉄道員は机の上で指を絡ませながら言う。
「私たち、もとの時代に帰りたいの。ツキノ書に帰る方法が書いてあるかもしれないのよ」、エクボは二人に訴えるように言う。
「ノッポからツキノ書を取り返したいんだ。何か方法はない?」、僕もエクボに習い、立ち上がって机に手をついて彼らに訴えた。
「ノッポが生まれるのは来年よね。母親を見つけて、別の時代で産んでもらう。2101年に彼が駅にいなければ、ツキノ書を奪われることはないわ」、エクボはあてにならないプランを打ち明けた。
「それは不可能です。彼は2131年に生まれることは決まっています。それに我々は、あなたたちのように母親から生まれるわけではないのです。さらに、ツキノ書はすでに出現しています。時代が戻ると言っても、既成事実を変えることはできないんです」、チビが詳しく説明した。
やはり、エクボのプランはあてにならない。
「つまり、後輩が殺されて、君が本を奪われた、その出来事は次の2101年に、再び起こるわけじゃないんだ。もうすでに起こってしまったことなんだ」、先輩鉄道員が付け加える。
「そうなの?」
エクボは再びキョトンとして、頭を左右に振った。
「メビウストレインを逆走させて、時間を戻そうとでもしない限り、過去を変えることはできない、ってことさ」
先輩鉄道員は、諦めろ、とでも言うように、念を押した。
「ちょっと待って。メビウストレインを逆走させれば、時間を戻せる、ってこと?」
僕は諦めない。
「はい、理論的には戻せます。ですが、誰もやったことがありません。どうせ、2200年が来れば、自動的に2101年に戻るわけですから、時間を戻す必要などないんです」、チビが説明する。
彼はやはり頭が切れる。
「あなたはメビウストレインを運転できるのかしら?」
エクボの質問に答えたのは、先輩鉄道員だった。「僕は運転できるが、システムに加わっている僕には、逆走させることは不可能だ。だが、システムにないお前なら逆走させられるんじゃないか?」
「確かに。僕は運転見習い中で、システムにはまだ登録されていません。僕が逆走させることは可能です」、チビが先輩駅員の言うことに同調した。
「でも、そんなことしたら、君はクビになってしまうんじゃないかい?」
「いいえ。よく考えてみてください。時間が逆行するんですよ。僕たちがメビウストレインで時間を戻したところで、誰も気づかないんですよ。僕は過去のことでも、そんな理不尽な理由で殺されるのは嫌です」、冷静だったチビが、立ち上がって興奮気味に言う。
「だが、時間を戻したところで、本人にも今の記憶が残らない」、今度は先輩鉄道員が冷静になって指摘した。
「それじゃ、なんにもならない」
エクボがほっぺを膨らませる。
「記憶を残すには、未来へ進むしかありません。だけど、未来から2101年に行ったところで、既成事実は変えられない、ってことですよね」
チビの興奮は一気に冷め、椅子に座ってうなだれた。
「同時にやれば、どうなるんですか?」、僕は先輩鉄道員に訊いた。
「なるほど! 後輩がメビウストレインを逆走させて、殺人が起こる前まで時間を戻す。もう一方で、君たちが未来から2101年に向かう。後輩は記憶がないが、記憶を残している君たちが殺人を食い止めればいいわけだ」、先輩鉄道員が立ち上がって説明した。
「そんなこと、可能なんですか?」、再び僕が尋ねる。
「理論上は可能ですね。その方法でいきましょう。僕が時間を戻します。君たち、僕を守ってください!」、チビは再び立ち上がり、僕とエクボに懇願した。
僕とエクボは再びメビウストレインに乗った。エクボのパスは先輩鉄道員が用意してくれた。本来なら、パスの偽装で射殺されるところだが、正義感の強い先輩鉄道員は、後輩鉄道員を守るためだ、とキセルを見逃してくれた。
僕たちは先に未来に向かい、ひとつ先のクールの2101年へ行く。僕たちが2101年駅に到着するころに、チビがメビウストレインを逆走させ、時間を戻して2101年駅に現れる計画だ。
メビウストレインは、またグルグルと同じところを回っている。100年という時間が瞬く間に過ぎていく。五年経っても、十年経っても、五十年経っても、僕たちは年を取らない。
僕が地球にいたころは、タイムマシンなど夢の世界の乗り物だった。アインシュタインが相対性理論を発表して、未来へ行けることを証明したが、その実感はなく、夢物語だと感じていた。ここでは、未来へ行くことも、ただ普通の電車に乗る感覚で容易くできる。ここはやはり、別世界なんだろう。僕は少し記憶が戻ったようだ。地球での生活をうっすらと思い出してきた。
エクボは僕の隣の席で眠っている。エクボの寝顔にはまだ幼さが残る。僕はともかく、彼女はもとの世界へ帰してあげたい。彼女への情は、百年の時間を共にしつつあるからなのだろうか。
もうすぐ、2200年駅に到着する。2200年駅の次は2101年駅。時間が戻る感覚はどのようなものだろうか。「2001年宇宙の旅」で見たラストシーンを思い出す。僕はスターチャイルドになれるのだろうか。
メビウストレインは2200年駅に到着した。どの駅も同じ作りなのだが、ここは何故か、背中が疼く。世紀末と聞くと、人を動かす何か不思議な力が働いているように感じる。
かつて僕も、地球で世紀末を体験した。1999年に地球が滅亡する、というノストラダムスの予言は外れた。その予言のせいか、「世紀末」という言葉は退廃的なイメージがあり、厭世観を感じる。僕にとっては二度目の世紀末である。
この世界の人間は、メビウストレインに乗れば、何度も世紀末を体感できる。そういうわけからか、この世界の人々は、どこか人生を軽んじているように感じる。
列車が走り出した。この先の時代はない。2101年に一気に戻るのだ。
特別に何かが起こるわけではないようだ。やはり、同じところをグルグルと回っているだけである。光のトンネルをくぐることもなく、空間が歪むこともなく、もうすぐ、2101年駅に到着する。
僕はエクボを起こした。エクボはあくびをしながら目を擦る。
「さぁ、仕事よ。まず、過去のあなたを見つける。きっとこの列車に乗ってるわ。私が近づいて、ツキノ書を奪う。あなたはホームに降りたら、どこかに隠れて様子を見ていて。出てきちゃダメよ。彼が驚いてしまう」
エクボは伸びをしながら、また楽観的な計画を立てる。
「了解」、僕はそれよりもよい計画を思いつけず、短く同意した。
「あなたが乗っていたのは、この辺りよね?」
「うん。もう少し前のドアのところ。一番左の列に座っているはず」
「わかった。行ってくる。降車の混雑に紛れて、ツキノ書を奪うわ」
エクボはそう言い残して、車両の前のほうへ行ってしまった。もともと、あれを持っていなければ、チビが殺されることもない。エクボはうまく奪えるのだろうか。
列車は2101年駅に到着した。車内は混雑している。僕は電車を降りる人たちと共にホームに降り、少し離れてホームの先を眺めていた。人が多すぎて、エクボも過去の僕も確認できない。
人の流れが切れたとき、エクボを見つけた。彼女は僕に気づき、こちらへやってきた。
「失敗した。あなたを見つけて接触したけど、人が多すぎて流されてしまったわ」、エクボが悔しそうに言う。
エクボのプランはあてにならないのだ。
「次の作戦は?」
「もう、チビがあなたに近づいてきてるわ」
前方を見ると、過去の僕がホームに立って、キョロキョロと周りを見渡していた。そして、その向こうからチビが歩いてくるのが見えた。
「ノッポを見つけましょう」
これがエクボの次の作戦らしい。
僕たちは2130年駅で、駅舎の建物の中を見せてもらっていた。過去の僕が連れて行かれた部屋の場所も、出口もわかっている。先輩鉄道員から制服を借りた。あいにく、女性用の制服はなかった。僕は近くのトイレに入り、鉄道員の制服に着替えた。エクボはホームで、僕は駅舎の中で、未来の殺人犯のノッポを探す。
チビが過去の僕を連れて駅舎に入る前に、僕は先に駅舎に侵入した。
まず初めに、駅の外へ通じるドアの鍵を開けた。ここは過去の僕の脱出ルートとなる。鍵のスペアも先輩鉄道員が用意してくれていた。
そして、過去の僕が連れて行かれた部屋まで戻り、隣の部屋に入った。ここから隣の部屋の様子がわかる。この世界では鉄道員は警察官でもある。僕が連れていかれたあの部屋は、取り調べ室なのだそうだ。その隣の部屋は、マジックミラーになっていて、取り調べ室の様子を窺える監視室となっている。
チビも過去の僕もまだ取り調べ室にはいない。僕はノッポを探しに監視室を出た。
先輩鉄道員の話では、駅員はホームを巡回しているか、待機室にいるか、どちらかだそうだ。待機室は取り調べ室の向かいにある。僕は待機室のドアをそっと開けて、中を覗いた。そこには誰もいない。やはり、ホームの巡回に出ているのだろう。
エクボはノッポを見つけたのだろうか。見つからなかったら監視室に来る手筈になっている。僕がエクボを探しにホームに向かおうとしたとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。僕は再び監視室に入った。
取り調べ室にチビと過去の僕が現れた。あのチビは過去から戻ったチビなのだろうか。そのことを調べる方法はない。
チビは過去の僕を椅子に座らせた。
『どの時代から来たのですか』、チビが警棒を僕に向けて訊く。
『え?』
『その服装は、2040年か、50年辺りですか?』
『今は、何年なのですか?』
『2101年です』
『あなたは、トラベラーではないのですか?』
『いや、わからないんです。自分が誰なのかも……』
過去の僕とチビの会話が再現されている。一字一句変わらずに。もし、チビが時間を戻せなかったとしたら、再び殺人が起こる。
『記憶がないのですね。なら、ドロッパーですよ』
『ドロッパーって何ですか?』
『トラベラーならば容赦なく殺すところですが、ドロッパーなら……』
『ドロッパーならどうなるんですか?』
『それを証明するしかありません』
『証明できなければ、どうなるんですか』
『命は助かります。ですが、過去へは戻れません』
取り調べ室のドアが開いた。ノッポが入ってくる。
エクボはどうしたのだろう。
『トラベラーを捕まえたそうだな』
『いやー、ドロッパーのようです』
『ドロッパーか。新世紀に入って何人目だ』
『六人目です。トラベラーの広げた穴が原因だという噂ですが』
『おい、六人目。ついてないな』
その時、監視室のドアにノックの音がした。僕はドアまで行き、そっとドアを開けた。
「ノッポが見つからないの」
それはエクボだった。
「静かに。もう隣に来てる」
僕はドアを開けて、エクボを部屋に入れた。
『たとえば、私は2131年生まれだ。こいつは2105年生まれ』
『え? 今は2101年なんですよね。2131年って、三十年後……。なぜ、あなたたちは存在しているんですか?』
『あなたも乗って来たでしょう。メビウストレインです』
『あの列車はどこへ行くんですか?』
『どこ、ではない。いつ、だ』
「どうにかしないと、チビがまた殺される」、僕はエクボに小声で言った。
「わかったわ。なんとかやってみる」、エクボはそう言って、ドアへ向かった。
「なんとか、って、どうするんだい?」、僕はエクボの背中に問いかけた。
「あれ? 開かないわ」
「え? 鍵は閉めてない」
「だけど、開かないのよ」
僕はドアを確かめた。
「開かない。誰かが外から鍵を閉めたんだ」
僕とエクボはお互いに顔を見合わせて、チビを救う方法を考えた。
取り調べ室では、殺人の時間が迫っていた。
『ところで、お前。それは何だ』
『本です』
『ホン、とは何だ』
『えっと、小説ですけど……』
『ストーリーか』
『これは、何だ。不思議な素材だ。おい、触ってみろ』
僕は机の上に乗って、天井を探った。天井の隅の天板が外れた。
「ここから外へ出られそうだ」
「入れる?」
僕は壁に足をかけ、天板を外した枠から天板裏によじ登った。
天井裏に上がると、這いつくばって前に進んだ。
光が漏れる穴を見つけた。
『ツキノ書じゃないですか!』
『カナ文字のツキノ書だと。お前、カナ文字が読めるのか』
『読めますよ』
まずい。もうすぐ、チビが殺される。僕は下へ降りられる場所はないかと探した。
『おや、ちょっと待ってください。このツキノ書は、私の持っているデジタルブックのと違います』
『どこがどう違うのだね』
天板はしっかり固定されており、どこも外れない。もう時間がない。
排気口の鉄の柵を見つけた。下を覗くと三人のやりとりが見える。
これを外さなければ……。
だか、力尽くで押しても引っ張っても、それは外れない。
『なに! そ、それなら、歴史的大発見じゃないか』
ノッポが拳銃を取り出し、チビに向けた。
『何をす……』
パンッ——。
乾いた音が屋根裏に響く。
間に合わなかった。チビは再び殺された。
チビは過去へ戻ることができなかったのだろうか。もしかしたら、僕たちがミスを犯したのかもしれない。通気口から下を覗くと、チビが血を流して倒れていた。チビを救ってやれなかった。
僕はもうツキノ書を取り返す気にもなれなかった。ツキノ書を手に入れて、僕たちだけが過去に帰れたとしても……、チビが生まれ変われたとしても……。
僕が監視室に戻ると、エクボはいなかった。ドアの鍵は開いている。取り調べ室を見ると、ちょうど過去の僕が部屋を出て行ったところだった。
僕はしばらく動けなかった。
心を落ち着かせて、僕も監視室を出た。エクボとはぐれたときの待ち合わせの場所は、「ヒタリシヨクトウ」と書かれたあの飯屋だ。僕はがっくりとうなだれて、とぼとぼと駅舎を出た。
ネムリ駅を出てすぐ左に曲がる。道の先を見ると、ピンクの箱とランプの箱がカーチェイスをしているのが見えた。あれにエクボと過去の僕が乗っているのだ。彼はこのあと、未来に向かい、未来を通り過ぎて、また2101年に戻る。
ヒタリシヨクトウに着いた。暖簾をくぐるとエクボがいた。
「チビは?」とエクボが尋ねた。
僕は黙って首を横に振った。
「ツキノ書も取り戻せなかったわ」
「そうか」、僕は落胆して、ひとことそう言った。
「次の作戦を考えましょう」
エクボが提案したが、僕はその気になれなかった。
「いや、もういいよ」
「どうして?」
「チビは死んでしまったんだ」
「でも、彼はまた生まれ変われるのよ」
「僕は彼を救いたかった。彼を救えないで、僕たちだけが過去に戻るなんて、できないよ。チビに申し訳ない」、僕はエクボにそう言って、椅子に腰をかけた。
すると、店の外から声がした。
「チビ、って僕のことかい? 確かに身長は小さいけれど……」
「だれ?」、エクボが声の主に訊いた。
暖簾の下から現れたのは、さっき殺されたはずのチビだった。
「チビ! 生きてたのかい?」
僕は立ち上がってチビに近づいた。
「君は、未来から来た君だね。過去の君は、もう行ったのかい?」、チビは僕に訊いた。
よく見ると、チビの脇腹が血で濡れていた。
「たいへんだ! 早く病院に行かないと!」
僕はどうしていいものか、右往左往したあと、チビの傷口に手を当てて、血を止めようとした。
「大丈夫だよ。これは、僕が作った特製チリソースさ」
僕は確かめようと、手についた血を少し舐めた。
「ぶほっ、か、からい!」、僕はむせながら言った。
「どういうこと?」、エクボが眉間に皺を寄せて、チビに尋ねる。
「最初から、こうなることに決まってたんだ」
僕はどういうことなのか、わからなかった。
すると、もうひとり、誰かが暖簾の向こうに現れた。それは暖簾をくぐり、顔を出した。
ノッポだ。
「ノッポ! 君は、殺人犯だ!」、僕が大声でノッポに怒鳴りつけた。
「で、僕が、誰を殺したんだい?」、冷静にノッポが答える。
チビは生きて、目の前にいる。つまり、ノッポは殺人を犯してはいない。
「どういうことなの?」、エクボはチビとノッポの顔を交互に見ながら、ヒステリックに尋ねる。
すると、ノッポはポケットから何かを取り出して、僕たちに見せた。
「ツキノ書だ。それは僕のものだ!」
僕はノッポに飛びかかった。しかし、二メートルの長身のノッポが伸ばした手の先にあるツキノ書には届かない。
「二人を騙したようで、すまない。だけど、このことはすでに決まっていたことなんだ」、チビが冷静に言う。
「そう。このツキノ書に、書いてあるんだよ」、ノッポも落ち着き払って説明する。
「え? その本に? これまでの僕たちのことが書かれてあるの?」
僕はひとつ深呼吸をして、冷静になった。
「そう。既成事実は変えられない」
チビがコクリと頷いて、それぞれの顔を順番に見た。
「監視室のドアの鍵を閉めたのは、誰なんだ?」、僕は二人に尋ねた。
「それも、最初から決まっていたことなんだ。この世界の者なら誰でも知っている」
チビは僕たちに諭すように、少し笑って話す。
「でも、何のために?」
「ツキノ書にそう書いてあるだけだ。理由なんてない。歴史的な事実だ」、ノッポがぶっきらぼうに答える。
「納得がいかないんだね。自分の目で確かめてみるといい」、チビはそう言って、ノッポからツキノ書を受け取り、僕にそれを差し出した。
ツキノ書、それは月野哲郎という人物が書いた「ねむり駅」というタイトルの小説。僕はヒタリシヨクトウで、その小説を読み始めた。
ツキノ書はSF小説だった。崎原覚という主人公が、根無ノ里という駅に迷い込み、脱出しようとするが、なかなか出られない。その体験をヒントに、物語の中で崎原覚が書いた小説が「ネムリ駅」だ。物語の中の小説に出てくるネムリ駅は、この世界のネムリ駅そのものだった。
この本をもとに、僕が迷い込んだこの世界が作られたのだろう。僕がこの世界に来てからの出来事も、小説の中に書かれている。僕は「名もなき者」として描かれていた。
僕は最後までツキノ書を読み通した。残念なことに、この世界から脱出する方法は書かれていなかった。「名もなき者」がこの世界にツキノ書を持ち込み、ツキノ書に書かれている通りの世界が出来上がっている。おそらく、2101年から2200年を何度も繰り返し、少しずつこの世界が作られていったのだろう。
「エクボ、僕が誰なのか、わかった」
「誰なの?」
「僕の名は、おそらく、崎原覚だ」
「やはり、君がサハラー・サトールなんだね」
チビは初めからわかっていたようだ。
「この世界は、崎原覚が作った。僕がこの世界にツキノ書を持ち込んだんだ。だから、僕がこの世界を作ったんだろう」
「サキハラ・サトル。あなたの名前。ここはあなたが作った世界だったのね」、エクボは優しい顔で、そう言った。
僕は大きく頷いた。
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