第7話「根無ノ里〜里根」
第七話 ——根無ノ里~里根——
小説が完成した。もうどれくらいここに留まっているのだろう。ハテノフノトの427号室(二階にあることは判明したが、4の数字の意味はわからないままである)には窓がない。昼なのか夜なのかもわからず、一心不乱に小説を書き上げた。
何度か左食堂に出かけ飯を食い、何度か隣のコーヒーショップでコーヒーを飲んだ。明るい昼間のときもあれば、暗い夜のときもあった。真夜中過ぎに出かけたこともあったはずだが、どちらの店も必ず開いていた。
カレンダーを確認すると、二週間が経っていた。会社はどうなっているのだろう。無断欠勤が続いている。当然、クビだろう。まさか、突然の失踪で、捜索願が出されているかもしれない。そろそろ帰らなくては……。
帰る方法はわかっている。石野という人物が電話で教えてくれた。アルサンドについていけばいいのだ。この部屋に置き去りにされていたパソコンは、僕が持って帰ることにした。おそらく、これは石野さんのものだろう。僕はもうすぐ彼に会うことになる。理由はわからないが、僕の直感がそう告げている。
二台のノートパソコンをカバンにしまった。そして、机の上のメモ用紙に、この部屋の電話のダイヤルに書かれていた番号をメモし、シャツの胸ポケットにしまった。もしかしたら、彼がパソコンを取りに戻るかもしれない。
僕は部屋を出た。
フロントまで降り、フロントマンにチェックアウトを告げた。
「是非、またお越しください」
フロントマンは宿泊代の請求を忘れているのだろうか。
「代金は幾らですか?」
「あー、えーと、すでに支払われていることになっています」
フロントマンがおかしなことを言う。払った覚えはない。
「え? 僕は払っていませんよ」
「えーと、確かに支払われています。二週間分ですよね。データにあります」
フロントマンはパソコンの画面を見ていた。
「誰が払ったんですか?」
「あ、えーと、イシノさんという方みたいですね」
フロントマンがパソコンのモニターで確認した。
「石野さん? 君は石野さんに会ったのかい?」
「いいえ、私がまだここに赴任する前のことなので……」
「君はいつからここで働いているんですか?」
「四年前ですけど……」
「なんだって! じゃ、四年以上前に、石野さんは僕がここに来ることを知っていた、ってことですか?」
僕はカウンターに身を乗り出した。
「正確には五年前ですけど……」、フロントマンは、よくあることですよ、とでも言いた気に、軽い口調で答えた。
言葉を失った。もう、訊くことは何もない。石野さんの親切に甘えることにした。僕がここへ来ることは、決まっていたことなのだろうか。
僕はそのままハテノフノトを出た。行き先は白菜畑だ。アルサンドを探す。その前に、彼の好物を仕入れておこう。
隣のコーヒーショップへ向かう。
コーヒーショップでは、店員がレジで待ち構えていた。手にはタンブラーを持っている。僕がレジの前まで行くと、彼はそれを差し出した。
「もしかして、代金は支払われているのですか?」、僕はそう訊いてみた。
「はい」
やはり、思った通りだ。
「支払ったのは、石野さんですか?」
「そうです」
「五年前に、ですか?」
店員は、最後の質問には答えず、僕の顔をじっと見つめて、大きく頷いた。
僕は小さく頭を下げ、コーヒーショップを出た。
コーヒーショップを出ると、右に曲がり、駅前を通って、左食堂の先へと進む。今は何時なのだろうか、腕時計をどこかでなくしたらしい。きっと、居酒屋ゲンさんだろう。もう二週間も前なのに、今ごろそれに気がついた。この町にいると、時間の感覚が麻痺する。町は時間を止めたまま、人間たちだけが動いている。
畑の白菜は、すでに刈り取られていた。土色ばかりの畑の中にアルサンドを見つけた。彼は畑の真ん中で、大仏のようにじっと座っている。僕は大きな石に座り、タンブラーのフタを外し、コーヒーを一口すすった。アルサンドに見せつけるように。
すると、アルサンドはこっちをじっと睨みつけ、少しずつ、警戒しながら近づいてきた。僕がアルサンドの顔を見ると、彼はピタリと止まる。
ダルマサンガゴロンダ……。
僕はアルサンドに背中を向けて、座り直した。
アルサンドガゴロンダ……。
アルサンドはさらにこちらへ近づいた。
ツキノサンモゴロンダ……。
気がつくと、アルサンドは僕の隣にいた。
「アルサンド、家へ帰ろう」
僕が言うと、アルサンドは小さく頷いたような気がした。僕は手のひらを窪ませて、コーヒーを注ぎ、アルサンドに飲ませた。ほんの数週間前に会ったばかりだが、彼と僕は長年連れ添った飼い主とペットのように、体を寄せあった。
アルサンドはよろよろと歩き始めた。コーヒーに酔っている。僕は彼のあとについていった。アルサンドは白菜畑の中をふらふらと歩いていく。周りは田舎の風景。畑の向こうには林が見える。アルサンドはまっすぐ林に向かっているようだ。
畑を抜けると畦道が続く。空は晴れている。雲がゆっくりと流れていく。あっちの方角は、東なの西なのか。太陽は真上に輝いている。林の真ん中に道が続く。
アルサンドは林の中に僕を連れていく。日陰になると少し寒い。サラサラと木々の葉が擦れる音だけが聞こえる。春はまだ来ていないのに、木々たちは青々とした葉をつけている。林道の脇にも草木が生い茂っている。この林は季節を忘れてしまったのだろうか。
林道は少しずつ細くなる。道はうねり、先が見えない。
道はさらに細くなり、もはや獣道となった。僕の身長よりも高い雑草が、視界を遮る。
アルサンドが早足になった。僕は雑草のトンネルの中を進む。茶色のトラ模様を見失わないように。
彼はさらにスピードを上げた。
アルサンドを見失った。僕は微かな獣道の痕跡を辿る。ふと、何かが追いかけてくる気配がした。クマだろうか、イノシシだろうか、サーベルタイガーか、マンモスか、ティラノサウルスか……。僕は怖くなって走った。乾いた雑草の葉が、カミソリの刃のように僕の手や頰を切りつける。拳を上着の袖の中に隠して、俯けた顔の額の前にその腕を持ち上げ、顔を隠しながら獣道を走った。前が見えない。
腕に触る草木の感触が消えた。僕は立ち止まり、顔を上げた。この場所だけが四角く草が刈り取られている。
アルサンドは上を見上げていた。彼の視線の先にあるものを、僕も見上げた。僕とアルサンドの前には、僕たちの行き先を遮るように、コンクリートの高い壁があった。四角く刈り取られた広場の隅、壁に沿って螺旋階段が備え付けてある。アルサンドはじっとその上を見つめている。登れ、ということなのだろう。
アルサンドは螺旋階段に向かった。僕も彼に続いた。螺旋階段の手前で、彼は僕のほうに向き直った。
「コーヒーが欲しいんだな」
僕は片足の膝をつき、カバンからタンブラーを出した。蓋を開け、手のひらにコーヒーを注ぐ。アルサンドはペロペロと僕の手のひらのコーヒーを舐める。ザラザラとしたアルサンドの舌が、こそばゆい。彼は僕の顔を見つめて、もう一杯を要求した。もう一度、手のひらにコーヒーを注ぎ、その手をアルサンドに差し出した。僕はもう片方の手でタンブラーを口元に運んだ。コーヒーはまだ暖かい。
「さぁ、行こう」
僕がそう言うと、アルサンドは頷き、螺旋階段を上り始めた。僕は立ち上がり、膝についた草切れを払った。そして、タンブラーを鞄にしまい、アルサンドのあとを追いかけた。
革靴の底が螺旋階段の鉄製のステップに当たり、コツコツと音が響く。アルサンドは後ろを振り返ることもなく、器用に前と後ろの足を使って階段を上る。僕は手摺につかまりながら、そのあとをついていく。あまり、高いところは好きじゃない。下を見ないように、黙々と上を目指す。とは言っても、隙間だらけの螺旋階段だ。壁と町の風景が代わる代わる見える。壁の向こうにはきっと、東京の街が広がっている。遠くには、東京タワーも見えるだろう。やっと帰れる。そう思うと、足が軽やかに動き出す。アルサンドもきっとそうだろう。壁の高さは十メートルほど。もうすぐ、壁の上に到着する。
壁の向こうを見て、僕は愕然とした。
茶色の大地が広がっているだけだった。東京の街はどこへ消えたのだろう。緑がひとつもない。どこまでも土色の平野があるだけだ。アルサンドはこれを見せたかったのだろうか。
彼は僕のほうを向いて、静かに座っている。お前の帰る場所などない、とでも言っているようだ。石野さんはこのことを知っていたのだろうか。未来がなくなることを。アルサンドについていかせ、現実を見せたかったのか。もしかしたら、僕に助けを求めたとは考えられないだろうか。石野さんの小説には僕が登場していた。ここに来てからのことが綴られていた。となると、彼はやはり、この現実を知っていたのだろう。消えてしまった街を見せて、彼は何を僕に伝えたかったのか。
彼が書いた小説「ねむり駅」は、僕が主人公だ。僕が書いた小説「ネムリ駅」は、石野さんの名を借りて、石野哲雄という主人公にした。もしかして、石野さんのいるあちらでは、僕の書いた小説の通りに物語が進んでいるのか……。まさか、僕が石野さんを未来の別世界に送ったことで、ここの未来が変わってしまった、ということはないだろうか。
カバンから石野さんのパソコンを出した。文書ファイルを確認すると、彼の小説が書き加えられている。小説の中の僕は、今、壁の上にいる。僕が体感しているこの現実と同じ。
石野さんに会わなければ……。僕の直感がそう囁く。彼に会って、この小説を完成させてもらわなければならない。彼に会うには、僕が小説の中で書いた別世界から、彼を呼び戻さなくてはならない。
「アルサンド、もう一度、ハテノフノトに戻ろう。石野さんをこっちの世界に呼び戻すんだ」
僕がそう言うと、アルサンドは勢いよく駆け出し、螺旋階段を下っていった。僕も駆け足で、階段を降りた。
螺旋階段を降りると、雑草の獣道を戻った。
林の中を駆け抜ける。
畑を横切る。
道路に出た。
アルサンドは駅のある左食堂のほうではなく、反対の道を行く。
「おい、アルサンド、ハテノフノトはこっちだぞ!」
僕の声にアルサンドは立ち止まり、こちらを向いた。だが、戻ろうとはしない。きっとあっちに何かがあるのだろう。僕はアルサンドを信じ、彼についていった。
道は住宅地に入る。駅からまっすぐの道だが、また、別の場所に繋がっている。住宅地に入ると、アルサンドは路地に入り、ゆっくりと歩き始めた。彼はキョロキョロと周りを見渡し、塀に登った。何かを探しているようだ。
僕はアルサンドと反対側の塀を探した。何を探しているのかはわからないが、きっと見ればわかるのだろう。アルサンドの様子から、とても重要なものであることは間違いない。
住宅地の家は、どこも表札が「月野」となっている。人が住んでいる気配はどこにもない。庭は荒れ放題。植木は枯れている。
「ニャー!」、反対側の壁でアルサンドが鳴いた。
何か、を見つけたようだ。僕はアルサンドのほうに駆け寄った。
「あっ!」、僕はそれを見て、思わず声を上げてしまった。
その家の表札が「石野」となっている。
塀の上から庭を覗いた。庭はきれいに手入れされている。僕は石野という表札のかかった家の周りを観察した。家は古い木造住宅だ。窓はどこも閉まっている。二階の物干しには、洗濯物が干しっぱなしになっていた。Tシャツにジーンズ、男性の下着、黒い靴下が見える。誰か人が住んでいる。僕の知っている、あの石野さんだろうか。
玄関の呼び鈴を押してみた。人が出てくる様子はない。
アルサンドは塀の上から飛び降り、門の柵の下をくぐり抜け、庭の方向に向かった。
門を開け、玄関のドアをノックした。だが、やはり返事はない。
アルサンドが庭への通路でこちらを見ている。ついて来い、と言っているようだ。
アルサンドは勝手口に僕を連れていった。勝手口のドアの下は猫の出入り口になっているようで、板の上部が蝶番で止められ、前後に開くようになっている。アルサンドが何度か出入りを繰り返し、それを僕に教えた。ここから入れ、と言っているようだ。
僕は地面に這いつくばり、猫の出入り口から家の中に侵入した。
中は板の間の台所になっていた。台所の流しには、まな板やら包丁、茶碗、皿、ガラスのコップなどが洗わずに置いてあった。誰かがここで生活している。
「あのー、どなたか居ませんか?」、すでに不法侵入だったが、家の奥に向かって声をかけた。
返事はない。
アルサンドはすでに上がり込んで、奥の部屋へ向かっている。
「おじゃまします」、僕は見知らぬ家主にそう言って、勝手口で靴を脱ぎ、家に上がった。
台所にはダイニングテーブルが一つ、イスが二つ、食器棚と冷蔵庫がある。台所の隅には、ペット用のものらしい皿が置かれていた。アルサンドの物なのだろうか。
台所を抜けると、廊下があり、左側は玄関に続いている。右側の奥は暗い。台所の正面にはガラス張りの引き戸がある。引き戸は十センチほど開いていた。アルサンドはこの隙間を通って中に入ったようだ。引き戸を開けると居間があり、炬燵があった。
アルサンドはその部屋の大窓の前に敷いてあった座布団の上で、心地よさそうに眠り始めた。アルサンドはこの家の飼い猫らしい。
僕は廊下の奥へ進んだ。
家の奥は薄暗く、外の光は入り込まない。手探りで電気のスイッチを探した。台所側からの微かな灯りで、壁のスイッチを見つけた。
廊下に電灯がつく。
廊下の先には風呂場があった。そのドアを開けると、黒いカーテンがかけられていた。カーテンを手繰り寄せて、中に入る。カーテンを閉めると真っ暗闇になった。この家の主は、真っ暗闇で風呂に入るのが趣味なのか、風呂場に入って映画でも上映するのだろうか。カーテンを大きく開き、廊下の電気の灯りで壁のスイッチを探した。スイッチを見つけ、電気をつけると、黒いカーテンの意味がわかった。家主は風呂場を写真現像のための暗室に使っているようだ。
脱衣所には現像の薬品が入ったポリタンクが散乱しており、風呂場にはフタをした浴槽の上に、引き伸ばし機と液の入ったバットや薬品を量るピッチャーなどがそのまま置いてあった。僕もモノクロ現像の経験があり、何に使う道具なのかは知っている。
脱衣所には、柱から柱に渡した紐があり、何枚かの写真が洗濯バサミに挟んで吊るされていた。僕はその写真の一枚を手に取って、見た。
「これは……」
僕が見たその写真には、根無ノ里の駅舎が写っていた。だが、駅舎の壁には「里根駅」という看板が掲げられている。他の写真も確認してみた。写真の町の風景は、ここ根無ノ里に似ている。一枚の写真には左食堂が写っている。だがやはり、その店の名前も「なりくら食堂」となっていた。そして、もう一枚。ハテノフノトとそっくりなホテルの写真は、「Paradise Heaven Rest Hotel」の看板になっている。ホテル内の写真もあったが、内装もハテノフノトそのままである。
ホテルの室内らしきの写真があった。僕が泊まっていた部屋に似ている。よく見ると、ベッドの上にキーが写っている。僕は浴室にあったフィルムルーペを使い、写真に写ったキーを拡大して見た。
鍵に付いたキーホルダーには部屋番号が書いてある。やはり思った通り、427号室だった。
僕が書いた小説の中に彼はいたのだ。里根駅は実在する。
僕は写真の中から数枚を拝借し、カバンに入れた。彼が写った写真はなかった。それもそうだ。これは彼が撮影した写真で、撮影者がフィルムに写るはずがない。
僕は浴室を出て、アルサンドのいる居間に戻った。
部屋の隅にある座机の上に現像済みのネガがあった。ネガは保管用のビニールシートに入れられていた。僕は大窓の明かりに透かして、そのネガを一枚一枚確認した。ほとんどが脱衣所に干されていた写真だ。だが、最後の一枚に人が写っているのを見つけた。ホテルのフロントで撮影されたようだ。
コンタクトシート……。
自家現像をする者なら、必ずコンタクトシートがあるはずだ。撮影したフィルム画像の一覧のプリントだ。
僕はもう一度浴室に戻った。
コンタクトシートは脱衣所の棚に無造作に置かれていた。フィルムルーペとコンタクトシートを持って居間に戻り、炬燵の上で、最後の一枚に写る人物の顔を拡大して見た。
「あっ!」
アルサンドはその声に驚いて、僕の顔を見た。
そこに写っていたのは、僕だった。なぜ、僕がここに写っているんだ? 僕はこのホテルに行ったことがあり、石野さんが僕を撮影した、ということか? いや、そのはずははない。ホテルの従業員なら制服を着ているはず。制服を着ていない、ということは、彼が石野さんなのか? つまり、僕が石野なのか? わからない……。
アルサンドの顔を見た。アルサンドは僕の驚いた顔を見て、なんだそんなことか、とでも言いたげに、舌をペロリと出して、再び眠ってしまった。
部屋を見回すと、座机の上にダイヤル式の黒電話があった。僕は四つん這いで電話に近づいた。そのダイヤルの中央に、この家の電話番号が書いてあった。ポケットを探った。胸のポケットに紙があった。それはホテルで書いた427号室の電話番号のメモだった。机の上のペン立てからボールペンを取って、その下にこの家の電話番号をメモし、再び胸のポケットに戻した。
アルサンドは陽のあたる畳の上で眠っている。
考えを巡らせたが、混乱が増すばかりで、もう何も考えられなかった。いつのまにか、僕は炬燵で眠ってしまった。
カリカリ、という音で目覚めた。
そうだ、ここは石野という人物の家だ。おそらく、彼、だ。
アルサンドが押入れの襖をカリカリと爪で引っ掻いていた。押入れに入りたがっている。もしかして、石野さんの死体がその中に……。
僕は炬燵から出て、押入れに近づいた。もし、死体がニョキッと顔を出したらどうしよう。迷っていても仕方がないので、目を瞑ったまま、勢いよく襖を開けた。
目を開けると、石野さんの死体よりも、奇妙なモノがそこにあった。洋風の作りの部屋。ベッドがひとつ、机がひとつ、椅子がひとつ。押入れの中には、僕の知っている部屋があった。
間違いない、ここは427号室だ。
だが、ハテノフノトの427号室ではない。ハテノフノトの427号室の電話は黒だ。ここのは白いダイヤル式の電話。
ここは、「Paradise Heaven Rest Hotel」だ。このホテルは、ハテノフノトを真似た、僕の小説のホテルだ。僕が描いたのだから、間違いない。この部屋で石野哲雄が「ねむり駅」を書くのだ。
僕は427号室に足を踏み入れた。
ドアが静かにしまった。そのドアは427号室のクローゼットの扉だった。クローゼットの扉をもう一度開けてみた。しかしそこは、もう何の変哲も無い、ただの空っぽのクローゼットだった。
アルサンドはベッドの上に乗って、お楽しみの昼寝を始めていた。ベッドボードの時計を見ると、16:46と表示されている。昼寝ではなく、夕寝のようだ。
パラダイスホテルの427号室で、僕は考えていた。僕がここへ来た理由を。未来世界に送った石野哲雄を呼び戻さなければならない。その方法は、僕が小説の続きを書けばよいのである。
机の上でノートパソコンを開き、さっそく執筆に取り掛かった。椅子に座り、キーボードを前にしながら、上着を脱いで、ベッドに放り投げた。
だが……いいアイデアが浮かばない。
彼を呼び戻すには、アルサンドの助けを借りなければならない。
「アルサンド、未来から石野さんを連れ戻すには、どうすればいいんだ?」
すると、アルサンドは部屋の入り口の方へのそのそと歩いて行った。どうやら、外に出るようだ。
ここでパソコンの画面をじっと見つめていたところで、石野さんは戻らない。僕はアルサンドについていくことにした。
再びパソコンを鞄にしまい、上着を着た。もしかしたら、石野さんが戻るかもしれない。念のために、シャツのポケットのメモを机の上に置いておくことにした。彼の家と、ハテノフノトの427号室の電話番号を書いたメモだ。僕、崎原覚から石野さんへのメッセージとして。
僕は部屋のドアを開け、廊下に出た。廊下をまっすぐに進んで階段を降りる手前で、男にすれ違った。こんな奇妙なホテルにも泊まる客はいるようだ。階段を下り、フロントのある一階へ降りた。
「石野さん、もうお出かけですか?」、愛想のよいフロントマンが僕にそう言った。
おや? 石野さんはここにいるのか? 未来に行ったはずでは……。石野さんの家で見つけた写真には、僕とそっくりな人物が写っていた。あれはやはり、石野さんなのだ。おそらく、フロントマンは僕の顔を見て、石野さんだと思ったのだろう。
「僕は何日ここにいますか?」
僕は探りを入れた。
「いやだなー、さっき来たばかりじゃないですかー」
僕はそこで気づいた。ここは過去だ。僕が書いた、あのシーンだ。
「あっ!」
さっき階段ですれ違った男、石野さんだ。彼はアルサンドに気づかなかったのだろうか。
僕は、フロントマンに、忘れ物をした、と言い残し、急いで427号室へ戻った。
キーを持っていない。部屋のドアを叩いた。
反応はない。
もう一度、ノックした。
やはり、反応はない。
もう、自宅へ転送されてしまったのだろうか……。そんなはずはない。彼はこのあと、あのメモを見て、ハテノフノトの崎原覚に電話し、深夜の十一時五十九分に自宅へ転送される。僕が書いた筋書き通りに……。物語を止めることは、できないということか……。
やはり、別の方法で彼を戻すしかない。仕方なく、一階のフロントに戻った。
「二週間ばかり泊まろうと思っているので、前払いを……」
僕はフロントマンにそう言って、ポケットから財布を出した。
「そうですか、二週間ですね。それなら……」
フロントにあった電卓をポンポンと打ち込んだあと、彼はそれを僕に見せた。
僕は財布からその金額を出して、フロントマンに支払った。
「ありがとうございます。今日はこのあと、何時ごろ戻られますか?」
「えーと、五年後です」、僕はフロントマンにそう言って、ホテルを出た。
彼は冗談だと思ったのか、笑って、ごゆっくりどうぞ、と僕たちを見送った。猫と一緒に宿泊するのは大丈夫なのだろうか。ただ、アルサンドに気がつかなかっただけなのだろうか。フロントマンは、陽気に手を振っていた。
アルサンドは、ホテルを出ると、駅とは逆の左に曲がった。そして、そのまま隣のコーヒーショップへ向かった。アルサンドは、コーヒーを要求しているようだ。
僕は店に入り、持ち帰りのコーヒーを注文した。アルサンドは行儀よく、店の入り口で待っていた。
店員は持ち帰りのコーヒーを作って僕に差し出した。
「250円です」
僕は500円を出し、そのまま出口に向かった。
「お客さん、お釣り……」
「あ、またあとで来ますから、そのときに!」
「いつ来られますか?」
「五年後です!」
アルサンドはコーヒーショップを出て右に曲がり、駅のほうに向かった。
外は暗かった。この先には、里根駅がある。僕が書いた小説の通りならば、だが。
駅名は、やはり里根だった。
アルサンドは駅に向かわず、駅前の道をまっすぐ進んだ。
駅から遠ざかり、突き当たりを左に曲がる。
住宅地だ。
さらにまっすぐ行くと、大きな家があり、その先を左に曲がる。かつて、根無ノ里でコーヒーショップへ行ったときのルートだ。
公園があった。
公園を左手にまっすぐ進むと遮断機がある。
遮断機をまっすぐ進み、大通りへ出る。
アルサンドは左に曲がる。
里根駅だ。
未来には、電車で行くのだろうか。
駅舎の壁に時計があった。十一時五十分。
時間の経過がおかしい、パラダイスホテルに入ったときは、午後の五時前だった。あのルートを歩くのに、六時間以上もかかったはずはない。アルサンドが時間を早めたのだろうか。
改札の手前で、アルサンドは僕のほうに振り返った。何かを要求している。なんだろう。
僕が改札を通ろうと足を踏み出すと、アルサンドは、進行を止めようと、僕の前に立ちはだかった。ついてくるな、と言っているようだ。
そこで僕は気がついた。定期券だ。この定期券でアルサンドは未来へ行こうとしているのだ。
僕は鞄の中にあった会社のネームプレートの紐を、定期券の穴(根無ノ里駅でベイダー卿が開けた)に通し、アルサンドの首にかけた。
十一時五十八分、電車が到着した。降りる者は誰もいない。
僕はアルサンドに、よろしく、と手を振った。
十一時五十九分。電車が出発した。
パラダイスホテルでは、この時間に石野さんが自宅に転送されたはずだ。
僕は改札の外で、電車の音が聞こえなくなるまで立っていた。
アルサンドは、本当に石野さんのいる未来へ行ったのだろうか。
時間の経過が混乱している。石野さんが未来へ行くのは、明日のはずなのだが……。
ふと、駅舎の壁の時刻表を見た。この駅の最終電車は十一時三十一分。十一時五十九発の電車は、存在しない。
僕はホテルに戻る前に夕食を済ませようと、そのまま駅を出て、「食うなら左」に向かった。
店の暖簾は「なりくら食堂」だ。「くうならひだり」の文字を削って並べ替えて、僕が店名をつけたのだ。ここには、女性の店主が、調理人と店員の二役を演じている。これも、僕が考えて小説に綴ったものだ。
僕は「なりくら食堂」に入った。
「いらっしゃい!」、女主人が元気よく言う。
僕の書いた小説通りだ。
すぐにトレイにグラスを乗せて、店員がやってくる。
僕は入り口近くのテーブルに着く。
「何にしますか?」、女主人が注文を訊く。
テーブルの上にも、店内を見回しても、メニューはない。
僕の小説通りなら、彼女は世界屈指のカリスマ料理人で、この店はミシュラン五つ星(ミシュランの最高評価は三つ星である)の隠れた名店なのである。
「舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、お願いします」
僕は試しに無茶な注文をしてみた。
「あいよ! 舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、一丁!」、女店主は誰もいない厨房に向かって、そう叫んだ。
そして、早足でカウンターの中に入り、「舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、入ったよ!」と威勢のいい返事をした。
僕が描いた通りだ。
まさか本当に、舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食があるとは思わなかった。やはり彼女は、世界一の料理人なのだ。
店内には、僕の他に客がひとりいた。頰に深い皺のあるおばあさんだった。おばあさんはサングラスをかけている。サングラスなんて、なんとハイカラなおばあさんなんだ。夜なのに。彼女はアジフライ定食らしきものを食べていた。
「舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、上がったよ!」と調理人役の女店主が告げる。
すると、彼女はフライパンを置いて、ささっとカウンターの外に出て、トレイの料理を僕のテーブルに運んできた。
「舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、おまたせしました!」と言いながら、彼女はトレイの皿や碗を僕の前に並べ始めた。
さてさて、舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、とやらを初めて見るが、いったいどんな料理なのだろう、と彼女が運ぶ皿を覗き込む。何のことはない、それは舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、ではなく、アジフライ定食だった。
いったいどうなっているんだ?
料理を並べ終えて、カウンターに戻ろうとした女店主に、僕は抗議した。
「ちょっと。僕が頼んだのは、舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、ですよ。これ、アジフライ定食じゃないですか?」
すると、女店主はキョトンとして、何を言ってるのかわからない、といった表情をした。
「あ、すみません。作り直します」
女店主は再びトレイを抱えて、僕のテーブルまでやってきて、皿を下げようとした。
「もったいないので、これでいいです」
僕はアジフライ定食が好物である。舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食が食いたいわけでもない。ただ、ちょっと試したかっただけなのだ。
ところが女店主は、「そういうわけにはいきません。お客様は神様なのですから、注文された以外のものを、食べさせるわけにはいきません」と言って、テーブルの上のアジフライ定食を回収してしまった。
僕はなんだか、申し訳ないことをしたような気がした。
客のおばあさんは向こうのテーブルで、その光景を見てニヤニヤと笑っていた。
女店主は大急ぎで、舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食を作り始めた。その間も、向こうのテーブルのおばあさんはニヤニヤと笑っている。
「舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、上がったよ!」
女店主は再びトレイに料理を乗せて、僕のテーブルにそれを運んだ。
さてさて、舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、とやらを拝ませてもらおう、と皿を覗き込んだ。
「え?」、僕は思わず声を漏らして、女店主を見た。
「たいへんおまたせしました。申し訳ございません。舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食です。ごゆっくりどうぞ」
女店主は申し訳なさそうに、先ほどの失態の謝罪をしたが、テーブルに再び運んできたものは、またしても「アジフライ定食」だった。
もしかして、「舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食」という料理は、「アジフライ定食」のことなのだろうか……。
すると、向こうのテーブルのおばあさんが声を上げて、ゲラゲラと笑いだした。
「あのー、これ、アジフライ定食ですよね。僕が頼んだのは、舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食、ですけど」、僕は少しムキになって、女店主に訴えた。
「何度やっても、同じだよ」、向こうのテーブルのおばあさんが、そう言って笑う。
どうやら、僕に言ってるようだ。
「同じ?」
おばあさんは何を言いたいのだろう。わからない。
「あんた、舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食っていう料理を知ってるのかい?」
彼女の言う通り、僕は舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食というものがどういう料理なのかを知らない。見たこともないのだから。
「いやぁ……」、僕は言葉を詰まらせた。
「あんたの知らないもんが、この世界にあるわけがないじゃろうが」
おばあさんはニヤニヤしながら、僕に説教をする。
「どういうことですか?」
「あんたは、もう知っているんじゃろ?」
「何を……ですか?」
僕の背中に汗が流れる。
「この世界は、あんたが作ったもんじゃろ」
おばあさんはサングラスを外して、僕を睨みつけた。
「あなたは、だれ?」、僕はおばあさんに尋ねた。彼女は知っている。この世界は僕が作ったことを……。
「それも、知っているはず」
おばあさんは、頰の深い皺をさらに深く窪ませて、笑顔を見せた。
一瞬、おばあさんの顔が若い女性に変化し、また老婆に戻る。
「やろうと思えば、できるはず。ここはあんたの世界なんじゃから」
僕は眉間に力を込めて、念じた。すると、また一瞬だけ、彼女は若い女性に。そして、テレビの電波が切り替わるように、ノイズを発生させながら、老婆と若い女性の顔が、交互に変化した。さらに、眉間に集中させると、突然回線が繋がったように、若い女性が現れた。
「私を知ってるよね」
彼女が口角を上げて微笑むと、両方の頰の真ん中が、ポコっとへこんだ。
「エクボ……かい?」
「あなたが、本物の、サハラー・サトールね」
「どうして、君はここにいるんだい?」
「私がここにいても、おじさんが戻らなければ、何の意味もないことなの」
「おじさん? 石野さんのことだね」
「彼が戻らないことには、あなたも消えてしまうのよ」
「彼を戻すには、どうすればいいんだい?」
「それも、あなたは知っているはずよね」
確かに。僕は石野さんを未来から戻す方法を知っている。それは、僕が小説の続きを書けばいいだけのことだ。
「うまく、書けるか、わからない」
「あなたは、自分の小説の中に入れたのよ。うまく書けないはずがない」
「だけど、僕は、石野さんが書いた、ただの小説の主人公じゃないかい?」
「それに気づいているなら、なおさらよ」
「君は、何者なんだい?」
「あなたが書いた小説の登場人物のひとり」
「僕と同じ、ってことか」
「おじさんもね」
「石野さんが僕を書いて、彼が書いた僕は君を書いた。そして、彼が書いた僕が、また彼を書いた」
「そういうことになるわね」
「だれも現実には存在しない、ってことなのかい?」
「存在って、姿のこと? 意識のこと? どっちにしたって、そんなの、誰にだって証明できないでしょ」
「僕の意識の中に君が存在して、石野さんが存在して、僕自身が存在する」
「だけど、あなたの意識の私は、本当に存在しているのかしら。それはあなたにしかわからないことでしょ」
「君の意識の中に僕は存在しているのかい?」
「もちろん、存在しているわ。でも、それはあなたの意識の私が言っているだけで、本当に私が存在してるなんて、あなたはわからないでしょ」
「僕は君の意識の中に入れないからね」
「私もあなたの意識の中には入れない」
「だけど、石野さんの意識は、僕が作ったものだ」
「そうよ」
「わかった。やってみる。石野さんを未来から連れ戻す。アルサンドが彼を連れてくる。石野さんがそう教えてくれたんだ」
「その前に、アジフライ定食をどうぞ!」
「うん。宇宙一うまいアジフライ定食だ」
「アジフライ定食、一丁!」
フロアで僕たちの話を聞いていた女店主が、カウンターの中の厨房に立つ調理人の女店主に告げた。いつのまにか、女店主が二人になっていた。
壁の時計を見た。時計は午後の十一時五十九で止まっていた。
壊れているのだろうか……。
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