第8話「ネムリ」
第八話 ——ネムリ——
「ねぇ、おじさん。結局、私たち戻れないの?」
僕とエクボは、彼女のアパートに戻った。二階の一番奥の部屋、427号室。やはり、二階なのに4で始まる部屋番号が気になる。
「僕たちはもとの世界からここへ来たんだ。ここへ来る方法があるなら、帰る方法もあるはずさ。だけど、僕はここにいなくちゃならない」
僕はこれからここで、彼らのために何をすべきかを考えていた。
「創造主としての責任なんて言うわけ?」
「僕はサハラー・サトールだ。彼らが僕を必要としている」
そのとき、クローゼットで物音がした。
「誰?」
エクボは身構えた。
「ニャー……」
クローゼットの中から鳴き声が聞こえた。猫だ。
「アルサンド……」
僕の口から咄嗟にその名前が出てきた。アルサンド……って誰だ。僕はクローゼットを開けた。そこには、丸々と太った茶色のトラ猫がいた。
「あら、猫ちゃん……。でも、どうして? ここには猫なんて存在しないはずよ」
エクボは猫の頭を撫でていた。猫はされるがまま、じっとしていた。
「アルサンド……」
僕の口から再びその名前が溢れ落ちた。
「アルサンドって、ツキノ書に出てくる、あの……」
「わからない。でも、その猫を知っている」
エクボが猫の喉を撫でると、猫は気持ちよさそうに、カーペットの上に寝転んだ。
「あなたと一緒に来たのかもね」
「彼が帰る方法を知ってる」
「え? どうして?」
「わからない。昔の記憶なのか、そんな気がするんだ」
すると、猫は立ち上がって、玄関のほうへ歩き始めた。僕の言葉がわかるのだろうか。
「外に出たいのね」
「どこへ行こうとしてるんだ?」
僕は玄関まで行き、ドアを開けた。すると、猫は部屋を出て階段のほうへ進んだ。
僕とエクボは彼についていくことにした。
階段のところで、アパートの住人とすれ違った。住人は猫を見ると、化け物でも見たように驚いて、足を踏み外し、階段から転げ落ちそうになった。
「猫を初めて見たのよ。ここには動物も虫も植物もいないからね」
「だけど僕は、あの店でアジフライ定食を食べた」
「あれはコピー食品よ。生きているわけじゃないの。ただの食材よ。ちなみにあれは、アジじゃなくて、メダカだけどね」
僕が食べたのは巨大メダカフライ定食だったようだ。
「でも、野菜は生きているんじゃないか? キャベツの付け合わせがあった」
「あれは合成繊維。食べるものじゃないのよ。ただの飾り」
「食べちゃったけど……」
「体には害はないわ。味なんてなかったでしょ」
「そういえば……」
猫はアパートを出て、右に曲がった。僕とエクボはカッパ頭のカツラを被った。ここをまっすぐ進めばネムリ駅に行く。猫はのそのそと体を揺らしながら、駅のほうへ向かう。すれ違う者たちは皆、猫を見て驚き、走ってその場を離れる。
駅前の交差点まで来ると、猫は右に曲がった。駅前の道をまっすぐに進んで行く。駅には行かないようだ。
「アルサンド、どこへ行くんだ?」
アルサンドは僕の言葉を無視し、振り向きもせずに歩く。
「とにかく、ついていきましょう」
アルサンドは、駅前の道の突き当たりまで来ると、T字路を左に曲がった。
路地に入ると白い四角い建物が連なる。おそらく、この建物は住宅なのだろう。
住宅街の終わりに大きな家がある。アルサンドはその家の先を左に曲がってまっすぐ進んだ。
道の先には公園があった。見たこともないオブジェがある。あれは遊具なのだろうか。
「ここには子供がいないのかい?」
「見たことがないわ。大人の形で生まれてくるのかしら」
子供がいないのなら、誰が公園で遊ぶのだろう。
公園を通りすぎると遮断機があった。地球の物と同じ。黄色と黒の縞模様のポールが上がっている。地面には線路がない。メビウストレインの路線なのだろうか。
アルサンドは遮断機を渡り、まっすぐ進む。
先には大通りがあった。
「あれ? この道は……」
僕はすぐに気づいた。斜め右方向にエクボのアパートが見える。
アルサンドは澄ました顔で歩いている。信号を渡って、アパートへ向かう。
「アルサンド、お散歩に来たの?」
エクボが訊くと、アルサンドはお尻を振って、アパートの前を通り過ぎた。
「アルサンド、アパートはこっちだぞ!」
僕はアパートの前で、正しい行き先を指差した。しかし、アルサンドは、アパートへは向かわず、隣の建物に向かう。隣はコーヒーショップだ。
僕とエクボはアルサンドを追いかけた。
アルサンドは隣のコーヒーショップの店先にちょこんと座り込んだ。
「コーヒーが飲みたいのかい?」
アルサンドは、僕の顔をじっと見つめている。
「猫って、コーヒー飲むんだっけ?」
「インドネシアの猫はコーヒー豆を食べるそうだけど……」
「そう、じゃ私、買ってくる」
エクボはコーヒーショップに入った。
僕とアルサンドは、コーヒーショップの店先でエクボを待った。アルサンドは大きなあくびをひとつして、舌で前足を舐め、顔を拭った。
しばらくして、紙袋を抱えたエクボが店から出できた。
「結局、アルサンドはお散歩したかっただけなのね」
「そういうことみたい」
僕とエクボとアルサンドは、アパートに戻った。
エクボが抱える紙袋には、紙コップのコーヒーとサンドイッチが三つずつ入っていた。アルサンドには、皿にコーヒーを注いで与えた。ペロペロとおいしそうに舐めている。
「ふぅ、汗かいちゃったわ。私、シャワーを浴びてくる。サンドイッチ、残しておいてね」、エクボは僕にそう告げて、シャワールームに入っていった。そして、ドアから半分顔を出し、「覗いちゃダメよ!」と僕に忠告した。
僕はふーんと頷いておいた。
僕はサンドイッチを食べながら、コーヒーをすすった。アルサンドにもサンドイッチを差し出したが、コーヒーのほうがお気に入りのようだった。なかなか絶品のサンドイッチなんだが……。
しばらくすると、アルサンドはフラフラと酔っ払ったように、部屋を歩き回った。
「なんだ、酔っ払ってるのかい?」
アルサンドは、ニャーニャーと鳴きながら、千鳥足で歩く。壁に頭をぶつけては倒れ、また起き上がってはふらふら歩く。僕は笑いながら、それを見ていた。テーブルの上にジャンプしたが、爪が引っかからずにずり落ちる。前脚を上げて、踊りだしたと思えば、そのままコテンと倒れて、そのまま動かなくなった。
「アルサンド、眠っちゃったのかい?」
返事はなかった。やがて、グーグーといびきをかきはじめた。本当に寝てしまったようだ。
僕はサンドイッチを平らげて、ソファーでくつろいでいた。それにしても、エクボのシャワーが長い。コーヒーが冷めてしまう。僕はシャワールームの前までいって、ドアをノックした。
「エクボ、コーヒー冷めちゃうよ!」
返事はない。アルサンドと同じく、寝てしまったのだろうか。物音がしない。ドアに耳を当てて、中の物音を聞いた。シャワーの音がない。
「エクボ、どうかしたのかい? 開けるよ!」
僕はシャワールームのドアを開けた。だが、そこにエクボの姿はなかった。シャワールームは濡れていない。エクボは確かにシャワールームに入ったはずだ。どこへ行ったんだ。アルサンドが彼女を過去へ戻したのか。
僕はアルサンドを揺すって起こした。
「アルサンド、エクボは君が過去へ送ったのかい?」
アルサンドは無言で僕の顔を見つめてたあと、また眠ってしまった。
エクボが消えた、二日後。
僕がサハラー・サトールであることは、すぐに街中に知れ渡っていた。外に出ると、数十人の行列ができる。サハラー・サトールの信者たちだ。食事は彼らが代わる代わる運んでくれる。ベランダから顔を出すと、歓声が上がる。僕が言葉を発するのを待っているようだ。
数日後には、僕の家の前は数百人の信者たちで溢れかえった。アパートの前の道は通行止めになった。ときどき、窓に石が投げ込まれた。「ニセモノー!」という怒号も聞こえる。僕はアパートから出られなくなった。鍵を閉めて、部屋にこもるしかなかった。
ドアをノックする音が聞こえた。アルサンドは目を見開いて、尻尾を立てた。また信者たちだろうか。
僕はドアスコープから外を見た。
誰もいない。
また、ノックが聞こえた。
「ニャー!」
アルサンドはドアまで行くと、外の者に何かを訴えようとしていた。ドアスコープから外を覗くと、上下に動いているカッパ頭が見えた。どうやら、背が低くて、ドアスコープから見えるようにジャンプしているのだ。この身長は、間違いない、チビだ。
「チビか?」、僕はドアの内側から小さな声で外の者に尋ねた。
「サハラー、いたんですね。外がたいへんなことになっています。君が偽物じゃないかと疑う奴らも増えてきています。ここにいるのは、もう限界です」
ドアの向こうからチビの声が聞こえる。
僕はドアを開けた。
「ここから出たところで、どこへ行く?」
ドアの前に立っていたチビは、相変わらず小さかった。
「ノッポのところです。彼はツキノ書の原本の発見で、今や大金持ちになりました。彼の家なら安全です」
チビは僕をここから脱出させるために、来てくれたようだ。
「どうやって、外へ出るんだ?」
「屋上です」
僕はアルサンドを抱えて、チビについていった。
階段を上がり、屋上に出たが、ここからどうやって抜け出すのだろう。
「サハラー、乗ってください」
チビが言ったが、何に乗れと言っているのだろう。
すると、チビの姿が突然消えた。よく目を凝らすと、周りの景色と同化した四角い形が見えた。透明の四角いアクリルのような箱がある。 これは乗り物だ。以前、エクボの箱に乗ったことがある。
僕はアルサンドを抱えたままジャンプして、それに乗った。中は以前に乗ったエクボのピンクの箱に似ていた。
「鉄道員の車は、迷彩モードで発進できるんです」
初めてここに来たとき、エクボの車が壁に張り付いて消えたのを思い出した。あれが迷彩モードだ。
チビの車が発車した。アパートの屋上から浮き上がり、空中を進み始めた。下を見ると、エクボのアパートの周りには、アリの大群のように、多くの人たちで溢れかえっている。
「このまま、ノッポの家に向かいます」
チビの車はスピードを上げて、遠くの丘に向かっていた。そのとき、大きな衝撃がきた。僕は驚いて周りを見渡したが、何もない。アルサンドは飛び起きて、爪を立てた。
「しまった。見つかってしまいました」
「何もいないぞ!」
「おそらく、トラベラーです。アパートの前で、ニセモノだ、と叫んでいたのは奴らです。彼らは皆、自分がサハラーだ、と我らを騙して、贅沢に暮らしているのです」
「彼らの車も透明なのかい?」
「鉄道員を買収して、迷彩車を手に入れるくらい、簡単ですから」
二度目の衝撃がきた。チビのこの車は迷彩モードが切れて姿を現したようだ。次々に衝撃が襲ってくる。
「ノッポの家まで、どのくらいだい?」
「向こうに塔が見えますか? あそこです」
「ずいぶん先だな」
アルサンドは背中の毛を逆立てて、さらに攻撃体制を強めた。
「このまま飛んでいると危険です。着陸します」
「地上のほうが危険じゃないのかい?」
「トラベラーたちは、ここでは犯罪者です。地上を歩いていれは、我々の仲間、鉄道警官が彼らを捕まえます」
「そうか、街中で大手を振って歩けない、ってわけだ」
そのとき、大きな衝撃が下から襲ってきた。
「離陸を阻止しようとしています」
さらに大きな衝撃が、今度は横から襲ってきた。
「墜落させる気だ」
僕たちの箱はバランスを失った。
「サハラー、捕まって! 落ちます」
最後の衝撃で、バランスが完全に崩れ、車はゆらゆらと揺れた。上下が逆になり、重力を失った。
「あー!」、チビが大声で叫んだ。
僕はシートに捕まり、アルサンドを抱えて、歯を食いしばった。
眼が覚めた。まだ頭がぼんやりしている。ずいぶん長い夢を見ていたようだ。ここはどこだろう。
そうだ、僕は養老渓谷の石神でバスに乗った。そのバスの中で眠ってしまったようだ。僕の体はシートにベルトで固定されていた。だが、肝心のバスが見当たらない。
下を見ると、地面が揺れている。僕の座っているシートが木にぶら下がって、ゆらゆらと揺れているのがわかった。僕はどこに向かっていたのだろう。
そうだ、ネムリ駅だ。
「サハラー、大丈夫ですか?」
誰かが誰かの名を呼んでいる。下をよく見ると、小さな男が僕に向かって叫んでいた。だけど僕は、サハラー、という名前ではない。僕は、石野哲雄、という名前がある。月野鉄郎という名で、小説を書いている。
膝の上に温かい物がある。毛がフサフサして心地よい。もう一度、眠りの中に戻りたい。おや、よく見れば、アルサンドではないか。どうやってここまで来たんだ。養老渓谷駅でおまえを見た。あのバスに乗っていたのか?
「サハラー、今助けます」
僕はサハラーではない。サハラーは小説の崎原覚のことだ。
「ニャー!」
アルサンドが僕の顔を何度も舐めた。
「あっ!」
ようやく気がつき、記憶が繋がった。僕はバスに乗ってネムリ駅に来たのだ。僕が書いた小説「ねむり駅」が「ツキノ書」となって、この街を作った。主人公の崎原覚が描いた未来都市がここ「ネムリ駅」。僕がサハラー・サトールと名乗り、トラベラーに襲われた。
僕は下を見た。チビがいる。
「チビ、アルサンドを受け取ってくれないか!」
チビは僕の真下でオーケーサインを出した。僕は狙いをつけて、アルサンドをチビの待つ地上へ落とした。
アルサンドは大きく太っているが、猫である。空中でクルッと一回転して、チビの体の上へ見事着地した。チビは大きなアルサンドの下敷きになって倒れたが、どうやら無事のようだ。親指を立てて、合図を送っている。僕もここから降りなければ。
シートのベルトを外し、引っかかっている木の枝に飛び移った。木の枝がグニャリとしなって、車のシートが大きく下へと引っ張られ、やがてまた上へと持ち上げられて、木の枝から外れて落下した。僕は枝にしがみついたまま、上下に振り回された。その勢いに絶えられず、僕は手を枝から離してしまった。僕の体は空中を大きく弧を描いたあと、隣の木の枝に勢いよく叩きつけられた。しかし、木の枝がクッションになって、そのままドサッと枝の間をすり抜け、ようやく地面に辿り着いた。
「ふぅ……」
腰を打ち付けたが、大きな怪我はないようだ。
「サハラー、大丈夫ですか?」
チビが心配そうに、僕の顔を覗き込む。
僕は大木の根元で倒れたまま、チビに言った。「思い出したんだ。僕は、崎原覚でも、サハラー・サトールでもない。僕の名前は、石野哲雄だ」
「え? なら、追われることなんて、ないですよね」
「そう。サハラー・サトールは架空の人物なんだ。そんな人物は存在しないんだ」
そのとき、森の奥から声が聞こえた。
「やっと見つけた。二人とも無事か?」
その声の主はノッポだった。
「大丈夫だ」
僕は立ち上がり、体についた葉っぱを払った。
「奴らか来るぞ。早く逃げるんだ」
ノッポは焦っている様子だったが、僕は落ち着いていた。
「僕はサハラー・サトールじゃない。思い出したんだ。だから、逃げる必要なんてない」
「でも、それを奴らに証明できるのですか? 奴らは君をサハラーだと思っているんです」
「証明できる。ツキノ書の秘密も解明できるんだ」
「ツキノ書の秘密?」、ノッポとチビはお互いの顔を見合わせて、同時に言った。
すると、木の陰からぞろぞろと人が現れた。全員がカッパ頭でピッタリスーツを着ている。
「大丈夫です。彼らはあなたの信者です」
カッパ頭たちは、じっと僕を見ていた。
僕は立ち上がった。
「みんな、よく聞いて」
するとカッパ頭たちは膝をつき、僕にひれ伏した。
「僕はサハラー・サトールじゃないんだ。サハラー・サトールこと崎原覚は実在しないんだ。彼は架空の人物。僕が書いた小説の主人公なんだ。ツキノ書は、聖なる書でもなんでもない、ただの小説だ。ここは主人公の崎原覚が小説の中で書いた小説、架空のそのまた架空の場所。ネムリ駅は存在しない」
「ならば、我々は誰なんですか?」、チビがアルサンドを揺らしながら尋ねる。
アルサンドはされるがまま無抵抗でいた。
「君たちは僕の意識の断片なんだ。これは夢なんだ」
僕は民衆に向かって、そう語った。
「いいえ、崎原覚は実在する」
民衆の中からひとりの人物が現れた。そいつはピッタリとしたスーツは着ていない。どこかで見たことのある制服を着ている。
「私は崎原覚に会った」
あれは地球の鉄道員の制服だ。右の胸にネームプレートが付いている。
「あっ! あなたは!」
彼の胸には「駅長・米田」と書いたプレートが付いていた。紛れもない、彼こそ僕が書いた小説の登場人物、根無ノ里駅の駅長だった。
「私は、向こうの世界で崎原覚に会った。彼はツキノテツロウと名乗ってたが……」
「あなたこそ、僕が書いた小説の登場人物だ」
「はい、それは知っている。だが、崎原覚も実在しているんだよ。あなたがここに来た理由は知っているか?」
僕は答えを探したが、見つからない。
「もし、ここがあなたの小説の中なら、あなたは自分でここに来たことを、小説に書いたことになる」
「僕は書いていない」
「あなたをここに送ったのは、崎原覚だ」
「どうやって、僕を……」
「あなたと同じ方法で、だ」
「崎原覚が向こうの世界で、この物語を書いているのか?」
ベイダー卿は、コクリと頷いた。
僕は頭の中が混乱していた。
「僕がツキノテツロウだ!」、僕はやけっぱちになって叫んだ。
その声を聞いて、周りの人たちはざわめき始めた。
「あ、あなたが、ツ、ツキノ様……」
チビの声は震えていた。
一同は三歩ほど後退して、再びひれ伏した。
「神が現れた!」
「おー、ツキノ様!」
「無礼をお許しください」
「あなたが本物のツキノ様……」
民衆は口々にツキノを敬う言葉を口走った。
「違うんだ、ツキノは神なんかじゃない。ただの小説家なんだ」
「ご、ご乱心だ。神は気が狂われた」
「悪魔に付きまとわれている」
「発狂された!」
民衆たちは、一歩一歩、僕に近づいてきた。
「みんな、待ってくれ! 違うんだ」
「あなたは神ではないのか?」
「違う、違うんだ!」
「チビ、ノッポ、助けてくれ! ベイダさん……」
僕は民衆たちに捕らえられ、頭から黒い袋をかぶせられた。
気がつくと、僕はネムリ駅の時計台に縛られていた。周りには、民衆が群れをなしている。僕はロープを解こうと暴れた。
「イシノさん、騒がないで。状況を見て助けます」
それはチビの声だった。
僕は体をくねらせて、後ろを見た。時計台の裏にチビとベイダー卿がいた。
「ベイダさん、あなたはどうしてここに来たんですか?」
「ここに来た、というより、戻ったんだ。私はもともと、ここにいた。ある日、気がつくと根無ノ里という町にいた」
「どうやって戻れたんですか?」
「わからん。気がつくと戻っていた」
「そうか、エクボだ」
「エクボさんがどうしたんですか?」、チビが小さな声で、縛られている僕に訊いた。
「エクボが消えた。代わりにベイダさんが現れた。偶然じゃない」
「向こうの世界には、ここにいた仲間があと五人いる」、ベイダー卿はそう言った。
僕はその五人を知っている。左店主とフロントマン、コーヒーショップの店員、バーテンダー、床屋だ。彼らは僕が描いた登場人物だ。
「彼らもおそらく、向こうの住人と入れ替わりになっているはずだ」
「ならば、その五人をこっちに戻せば、あんたは帰れるんじゃないか?」、ベイダー卿が訊く。
おそらくその通りだ。
「でも、その方法が、わからない」
「エクボさんはどうやって?」、チビがさらに訊いた。
あのときの状況から考えた。「おそらく、アルサンドが帰したんだろう。けれど……」、僕は言葉を詰まらせた。確信はない。
「猫か。向こうにも猫がいた。確か、崎原覚も、その猫をアルサンドと呼んでいた」
ところで、アルサンドはどこへ行ったのだろう。この騒ぎの中、はぐれてしまった。
「こっちにも向こうの世界から来た五人がいるはずだ」
そのとき、階段からノッポが現れた。「身代わりを連れてきた」
それは僕と同じ背くらいの男で、僕と同じ髪型をしていた。
「幸い、君と僕たちの顔は似ている。彼を身代わりに時計台に縛っても誰も気づかないだろう」、ノッポが計画を皆に話した。
「本当だ。今まで気がつかなかった」
僕は今になってようやく気づいた。記憶をなくしていたせいだろうか……。
そのとき、駅と反対側、ちょうど時計台から正面に見えるところで、爆発音がした。
「今だ!」、ノッポが叫ぶ。
それはおそらく、ノッポが仕掛けたのだろう。
駅前の民衆が、ザワザワし始めた。みんなは時計台を背にして、向こうを見ている。僕はロープを解かれ、時計台の中へ引き込まれた。代わりに、僕に似た男が時計台に縛り付けられた。
「すまない、しばらく身代わりになってくれ。世界を救うためだ」、ノッポが男に言う。
男は黙って頷いていた。
僕たちは時計台の中の階段を降りた。
「地下道へ行こう」、ベイダー卿が提案する。
地下道なんてものは、僕は小説の中で描いたものじゃない。僕の知らない裏の物語もあるようだ。
「地下道なんてあるんですか?」、チビがベイダー卿に訊いた。
チビも地下道のことは知らないらしい。
「おそらく、我々が掘った地下道がここにもあるはずだ」
別の場所で掘ったということなのだろうか……。
「駅の地下には物置があります」
チビが言う地下の物置に、僕たちは向かった。
地下室の入り口には、「立ち入り禁止」の札が下げられていた。僕たちは部室に入り、地下道の入り口を探した。
「この辺りだ」
ベイダー卿は地下室の壁の一面を指差した。
「ベイダさん、これですか?」
棚の後ろに扉があった。ノッポが棚を退けて、扉を開けた。
「ここから、駅の左にある食堂と、右にあるホテルに通じている」
「ホテルは、ここではアパートだ。エクボの部屋がある」、僕はベイダー卿に伝えた。
根無ノ里の町とここネムリの街は、同じ作りだということか……。
「427号室はあるか? もしかしたら向こうの世界へ連絡できるかもしれない」
「エクボの部屋だ!」、僕は叫んだ。その声は地下室に響きわたった。
地下室の倉庫で懐中電灯を見つけた。僕たちは扉の中へ入った。
真っ暗な地下道を進んだ。
「向こうの世界とこっちの世界は、おそらく次元の違う同じ町だろう」、ベイダー卿が説明する。
だが、意味がわからない。
「どういうことですか?」
「向こうの世界はすでに崩壊している。根無ノ里の外は、何もない砂漠だ」
「僕がいた地球はもうないんですか?」
「たぶんな。何か大きなエネルギーが働いて、人の住む街が消えた。例えば、何かが大爆発するとか……。そのエネルギーで時空が歪み、この世界ができた」
「わからない。僕が書いた小説が現実に現れたのは、そのせいなんですか?」
「想像でしかないが、そう考えるしかない」
「なら、小説の中の崎原覚が書いた小説の中に僕がいるのはなぜだ」
「わからないが、現実と空想の世界が、時空の歪みでひとつに繋がった、とか……」
「僕が崎原覚のいる世界を描き、崎原覚が僕のいるこの世界を描いた……。ならば、僕たちの運命は、彼にかかっているということ?」
「同時に、あんたが崎原覚の運命を握っている、ということだ」
「僕が書いた小説は、向こうの世界にあるんだ」
「あんたは戻らなければならない。エネルギーはやがて消滅する。そのとき、この世界は終わる」
「向こうに戻れば、ここのみんなを救えるんですね」
「ここのみんなではなく、あんたを救わなければならん。我らは所詮コピーだ。本物の命を持っているのは、あんただけだ。我々は繰り返し上映される映画のようなものだ。あんたがここで死ぬと、この世界は終わる。二度と上映されなくなる。あんたは崎原覚に会わなければならない」
「ベイダー卿、あなたは何者?」
「私は、あんたが作った物語の、ほんの端役にすぎん」
「我々は、サハラー・サトール、いや崎原覚が作った、脇役ってとこですかね」、僕の後ろでチビがノッポに話す。
「石野さん、サハラーに会ったら、お礼を言ってたと伝えてくれないか」、ノッポが言う。
「それに、この世界をありがとう、って」、チビが言う。
僕たちはアパートの地下に到着した。階段を登り、四階へ向かっていると、建物が揺れた。
「なんだ? 地震か?」
地球の僕が住んでいたところでは、よく地震が起こった。少々の揺れには慣れっこだ。
「ジシンってなんだ?」、ノッポが訊く。
彼らは地震を知らないようだ。
「地震というのは、地球の層のプレートが歪んで起こるものです。ここはメビウス空間。地震が起こるはずがありません」、物知りのチビが答える。
「だけど、揺れている」
「崩壊が始まったのかもしれない」、ベイダー卿が仮説を立てた。
僕たちは二階を目指した。
一階から二階へ向かう階段の踊り場で、地震に怯える人たちがいた。
「地震だ! 僕、地震、嫌いだ。早く外へ逃げよう」
彼らは地震を知っている。この世界の者ではない。地震に怯えるひとりはピッタリスーツではなく、青い上衣を着ている。もうひとりが、ここでは珍しい赤いキャップを被っている。他の二人もジーンズにTシャツという姿だった。すれ違ったとき、青い上衣の背に文字が見えた。「Sky Magic」と。
「あっ! 君は!」
彼の隣にいた男の赤いキャップには、「ABO」と書いてあった。
彼らは小湊鉄道で出会ったABO軍団とスカイマジックだった。
「入れ替わって来たのは、君たちだったのか!」
彼らは僕が何を言ってるのかわからないのだろう。お互いに顔を見合わせて、キョトンとしていた。おそらく、記憶をなくしているのだ。
「僕は向こうの世界で、君たちに会っているんだ」
「ここはどこなんですか?」
スカイマジックが僕にしがみつく。
「どこ、ではなく、いつ、だ」、ノッポが答える。
僕がここへ来たときにも、彼はそう言っていた。
「ここは2101年のネムリという空間です」、チビが答えるが、スカイマジックにはその意味がわからないようだ。
「とにかく、427号室へ行こう。君たちも一緒に」
定期的に「揺れ」は続いている。
ベイダー卿は部屋中を探り、向こうの世界との交信方法を探していた。
「電話があった」
僕はクローゼットの中にダイヤル式の赤い電話を見つけた。しかし、赤電話の線は途中で切れていた。
「使えるかもしれない」
ベイダー卿は、耳につけていた無線のイヤホンの線を歯で切り、赤電話の線の先に繋げた。
そして、ダイヤルを回した。
「向こうの世界の電話は、違う世界の427号室に繋がるんだ」
僕がいた里根のパラダイスホテルから、根無ノ里のハテノフノトの崎原覚に繋がったことを思い出した。
ベイダー卿は受話器を耳に当てて、待った。
「宿屋か?」
通じたようだ。
『——』
「私だ。駅長だが」
『——』
「うん、わからないが、戻ったらしい」
『——』
「お前たちは、イシノさんについていくんだ」
『——』
「戻れるはずだ」
『——』
「もしもし、もしもし……」
電話は切れてしまったようだ。
ベイダー卿はそのあと、何度も試したが、二度と繋がることはなかった。
「僕たち、帰れるの?」、スカイマジックが怯えながら、僕に尋ねる。
「わからない」としか、僕は言えなかった。
「ここ、崩れ始めてる。僕たち見たんだ」
「何を見たんですか?」、チビがスカイマジックに訊いた。
「電車の写真を撮ってたんだ」
「メビウストレインだね」
「電車の路線の向こう側が、砂漠になっていて、どんどん砂が吸い込まれている」
「それはどこだい?」
ここはメビウス空間であり、裏も表もない世界である。どこかに穴が開き始めたのだろうか。
「あっち!」
スカイマジックは窓の向こうを指差した。
「行ってみよう」
「地下を通って、食堂から出れば、民衆を回避できる」、ベイダー卿がルートを提案した。
僕たちはアパートの階段を降り、再び地下に戻った。
懐中電灯を照らし、真っ暗な地下道を歩いた。
「ねぇ、僕たちどうなっちゃうの?」
スカイマジックは今にも泣き出しそうだった。しかし、誰もそれに答えることはできなかった。
僕たちは地下道の来た道を戻る。駅に向かう曲がり道を通り過ぎて、まっすぐ進む。
地下でも揺れは続く。
食堂の地下から一階へ上がる。幸い、ここまでは民衆がいない。僕たちは店を出て、駅と反対側に向かった。
四角い建物が続き、途中、遊具が何もない広場があった。この先でスカイマジックは砂漠を見たようだ。
「あ、アルサンド!」
僕は見つけた。アルサンドは広場の真ん中に座っていた。
「アルサンド、おいで!」
僕は呼んだが、アルサンドは駅の方向にのそのそと歩き始めた。
「待って、みんな。アルサンドが駅に向かう。何か知っているのかも……」
アルサンドが帰る方法を知っている。
「駅は民衆たちで溢れている。時計台の者が君じゃないとわかったら、彼らは何をするかわからんぞ!」、ノッポが警告する。
しかし、帰る方法を知っているのは、アルサンドだけだ。
僕が返事をする前に、スカイマジックたちはアルサンドのほうへ走り出した。そして、僕も彼らを追いかけた。
「無茶な奴らだ」、ベイダー卿はそう言って、僕たちについてきた。
チビとノッポもあとからついてくる。
アルサンドは公園を通り抜けて、住宅街の裏通りを進む。僕とベイダー卿、スカイマジック、ABO軍団、チビ、ノッポがあとに続く。
アルサンドは駅前の通りの、少し駅から離れた場所に出た。駅前には人だかりが見える。駅舎の時計台には、僕の偽物が貼り付けにされているのが見える。
アルサンドは駅前の通りの終わりで、左に曲がった。
「また、このルートだ。エクボはこのルートを通ったあと、消えたんだ」
「帰り道へ繋がるルートなのか?」、ベイダー卿が訊く。
きっと、その通りだ。
僕らは民衆に見つかる前に、駅前通りから抜けた。
住宅街の細い路地を進む。
大きな家の先で左に曲がると公園がある。
公園を右手にまっすぐ進むと遮断機がある。
遮断機を渡ると駅前の大通りへ出る。
大通りの向こう側に渡って右に進めば、エクボのアパートだ。
427号室から、過去へ戻れる。
しかし、大通りには、たくさんの人で溢れていた。
「もう少しなのに……」
アルサンドは遮断機を過ぎた辺りで止まった。焦っている様子はなく、道の傍らの日当たりで、背中を丸めた。
「ベイダさん、他に427号室へのルートはないのですか?」、チビがベイダー卿に尋ねた。
「ない」、ベイダー卿が一言で答える。
「仕方ない、我々が囮になる。イシノさん、スカイマジックさん、AOBの皆さん、ここでお別れだ。我々は、駅まで戻って奴らの気を引く。その隙に、427号室へ行ってくれ」、ノッポが何か覚悟を決めたように、真剣な表情で告げる。
「何をする気ですか?」
「それはこれから考える」
チビとベイダー卿は、ノッポの提案に深く頷く。そして、軽く手を挙げて別れの挨拶をし、来た道を戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます