第9話「里根〜根無ノ里」
第九話 ——里根~根無ノ里——
午後十一時五十九分。なりくら食堂の時計は止まったままだった。
「作戦を考えた」
小説の中では、いつもエクボが作戦を考えていた。だが、いつもそれは失敗ばかりだ。今回は僕が計画を思いついた。
「どんな作戦?」
「僕がいた根無ノ里と、ここ里根の町は五年ほどの時差がある」
「そうね。物語を読めば、そうなっているわ」
エクボは二台のノートパソコンを開き、僕の書いた小説と石野哲雄の書いた小説を読み比べている。
「時間とともに、石野さんの小説は自動的に書き進められる」
どういう原理であるのかは、全くの不明であるのだが……。
「おそらく、石野さんが未来へ行ったせいよ」、エクボは根拠のない理由をつけた。
「石野さんの小説を書き換えることはできない」
何度も試してはみたが、書いた文字は数秒で消されてしまう。
「うん、それで?」
「トリックを使う」
我ながら、素晴らしいアイデアだ、と自分では思っている。エクボもそう思うのだろうか。
「トリック? どんな方法なの?」
僕は少し間を置いて、エクボの目を見た。
エクボは真剣な顔で、コクリと頷き、唾を飲んだ。
「現在の時間からすると、状況は石野さんが根無ノ里にいる僕に電話をかけ、自宅に戻った後だ」
僕が書いた小説だ。間違いない。
「427号室から、自宅へ転送されたのよね」
なりくら食堂の時計は、十一時五十九分で止まっている。正確な時間はわからない。
「そう、今、根無ノ里のホテルには、僕がいて、小説を書いている」
すべて、小説通りだ。複雑な時間経過の問題が、僕たちをさらに混乱させる。今、という時間は、いったい、いつ、なのだろう。
「うん。それで?」
「僕がここのホテルから、石野さんのふりをして、もう一度、根無ノ里の僕に電話をする」
これが僕の考えた作戦だ。どうだ、エクボ。本当の作戦とは、こういうものだ。
「どうなるの?」
「根無ノ里での物語は、石野さんが書いた僕の物語だ」
「そうよ」
「里根での物語は、僕が書いた石野哲雄の物語だ」
「うん。だから?」
「今、僕はどこにいる?」
「ここは里根よね」
「そう。里根の物語は、誰が書いた?」
「えーと、なんだかややこしいわね。あなたよね。あれ……?」
やっと気づいたかい? エクボちゃん、この作戦ですべてがうまくいくのだよ。
「そう。ここ里根の物語は、僕が書いたもの。そして、主人公は僕なんだ」
僕は自信満々に腕を組んで、エクボに言った。
「あなたはあなたの書いた物語を自由に操れる、ってことよね」
「そういうこと。だが、僕の行動自体が、石野さんの行動の影響を受けている」
ここからが、作戦の素晴らしいところだ。よく聞け! エクボちゃん!
「どうするの?」
「ホテルから、崎原覚に電話する」
「あなたが、あなたに電話するのよね」
「石野さんの書いた物語を、完全に乗っ取るんだ!」
どうだ! エクボちゃん!
「……どういうこと?」、エクボはあっさり、そう返した。
僕の作戦の素晴らしさがわかっていないようだ。ならば、説明しよう。
僕は考えていた。こうなった原因はどこにあるのだろうか。石野さんの書いた僕の物語は、僕が根無ノ里に閉じ込められた、という物語。僕の書いた石野さんの物語は、その影響を受けて、石野さんが未来に行く、という物語にした。これこそが、間違いの原因だ。僕は仮説を立てた。石野さんが未来に行ったことで、石野さんの書く僕の物語は放置された。現在は、僕自身の行動によって、自動的に書き加えられている。僕の行動は、未来にいる石野さんの行動の影響だ。僕がここ里根に行き着いたのも、その影響だろう。つまり、お互いの影響で、お互いの物語が進んでいる。まさに、負の連鎖が続いているのだ。そこで、完全に二つの物語を切り離せば、石野さんは未来から戻れる、そう考えた。
エクボにはどこまで説明すればいいのだろうか。
「僕が書いたシーンは、石野さんが根無ノ里の僕に電話する、というものだ。現在、その行動は実行された後だ。僕の作戦は、その後もう一度、石野さんに代わって僕が未来の僕に電話する。つまり、そこで僕が石野さんのフリをして彼にすり替わる。石野さんの物語を、僕の物語にすり替えるわけだ。小説の中の物語に錯覚を起こさせ、石野さんの書く物語を、完全に僕が書く物語に変える。そうすれば、僕の影響を受けずに、石野さんは戻って来られるはずだ」
さぁ、認めてくれ。僕の作戦が凄い、ってことを。
「あ、んー、とにかく、それを実行しましょう」、エクボは頭を抱えて、そう言った。
おそらく、僕の説明は伝わっていないのだろう。さっきまでは自信満々だったが、エクボの反応を見ると、上手くいくのだろうか、と僕自身も疑ってしまう。僕も根拠のない作戦を実行するわけだから、これまでの思いつきのエクボの作戦を悪くは言えない。
とにかく、やってみるしかない。
午後十一時五十九分。止まったままのなりくら食堂の時計を見た。僕は店を出て、パラダイスホテルへ向かった。
エクボに石野さんの状況を監視してもらうため、石野さんのパソコンは食堂に置いてきた。
里根の駅前を通る。駅の時計も十一時五十九分。この駅の時計も、なりくら食堂の時計と同じ時間で止まっている。十一時五十九分。根無ノ里駅の電車が発車する時間。何かが起こる前触れだろうか……。
パラダイスホテルまで歩く。心臓が高鳴る。成功するのだろうか。
パラダイスホテルに入ると、フロントマンが声をかけてきた。
「あ! よかった石野さん。キーを部屋の中に置き忘れましたよね。オートロックなので気をつけてください。出るときはキーをフロントに預けてくださいね」
フロントマンは427号室のキーを僕にくれた。
深夜なのに、フロントマンはまだ働いている。壁にかけられた時計を見ると、午後十一時五十九分で止まっていた。ここの時計も壊れている。それとも、時間が止まっているのか。
石野さんは、もう自宅に転送されたのだろう。フロントマンの口振りから、彼は部屋にはいないようだ。
僕は二階へ上がった。
部屋に入ると、石野さんのパソコンが置き去りにされていた。僕が書いた物語通りだ。僕は早速、未来の僕、いや過去の僕だろうか、とにかく、もうひとりの僕に電話をすることにした。
パソコンを開き、僕の書いた通りにセリフを言う練習をする。トリックを実現するためだ。
机の上に電話番号のメモがある。僕が書いて、僕が置いたメモだ。石野さんはこのメモを見て、ハテノフノトに電話をかけたはずだ。
僕はハテノフノトの427号室の番号を回した。
九コール目で、相手は受話器を取った。
『……もしもし』、もうひとりの僕が言う。
彼の名は崎原覚。僕と同じ。
「もしもし」、僕は僕の真似をした。あのときと同じように。
『どちらさまですか』、電話の向こうでもうひとりの僕が訊く。
「そちらこそ、誰ですか?」
僕が書いた筋書き通りだ。
『僕は、石野です』、電話の相手がそう答えた。
……え? そんなはずはない。彼は崎原覚のはずだ。彼は僕ではないのか?
「あ、あなた石野さん?」
『あなたが僕に電話をかけたんですよ。僕が石野と知らなくてかけたんですか? あなたは誰?』
「ぼ、僕は、崎原……覚です。あなた、石野哲雄さん、ですか?」
『そうですけど、何の用ですか?』
「あなた、今、根無ノ里のライトホテルにいるんですよね」
『え? 違いますよ。ここは、里根というところです。パラダイス・ヘブン・レスト・ホテルですが……』
「な、なぜだ?」
『え?』
「……」
『ここから出られないんです。助けてください』
「ね、猫についていってください。そうすれば、出られます」
『猫ですね。わかりました。探してみます』
僕はそのまま電話を切った。どういうことだ。もうひとりの僕は、根無ノ里のハテノフノトにいるはずだ。里根のパラダイスホテルは、ここだ!
トリック作戦は失敗に終わった。頭がクラクラする。僕は、石野さんのパソコンをそのまま置き去りにして、部屋を出た。
廊下を進み、一階に降りる。フロントマンはいない。僕はそのままホテルを出た。
待てよ。この後、僕は、石野さんがパソコンを忘れたホテルの部屋に行き着いたはずだ。あのホテルはパラダイスホテルだったのか……。そうだとすると、辻褄は合っている。だが、腑に落ちない。
僕はホテルの前で、看板を見上げた。ネオン管の切れた「ハテノフノト」の文字が見える。ハテノフノトに変わっている。訳がわからず、僕はそのまま駅のほうに向かった。ここは、パラダイスホテルだったはずだ。
駅に着いた。駅の看板も「根無ノ里」に変わっている。そっくりそのまま、僕と石野さんが入れ替わっている。町ごと、全部。
僕は先を急いだ。なりくら食堂でエクボが待っている。
まさか……。
まさか、は、当たりだった。
なりくら食堂ではなく、「左食堂」の暖簾があった。僕は食堂のドアを開けた。店主はいないが、エクボがそこにいた。
「エクボ! 僕はいったい誰なんだ?」
「どうしたの? そんなに青い顔をして。忘れちゃったの? 自分の名前……」
「教えてくれ。僕は誰だ?」
「石野哲雄でしょ。もう、しっかりしてよ」
「石野……。僕は、石野……。どうなってるんだ……」
僕は完全に自分を見失った。パソコンの時計を見ると午後の十一時五十九分で止まっていた。時間が止まっている。僕の思考も止まった。僕は考え込んだまま、左食堂のテーブルで、突っ伏した。
「ツキノさん」
誰かが呼んでいる。だが、僕はツキノではない。本当の名前は……。
目の前にいたのは、女店主ではなく、男の店主だった。
「ツキノさん、こんなところにいたのか。ちょっと訊きたいんだが……」、左店主は僕に話しかけた。
顔を上げたところで、もとには戻っていないようだ。
「何ですか?」、僕は頭に混乱を抱えながら、訊き返した。
「さっきあんたをホテルに運んだあと、駅長が消えたんだが……」
「僕を運んだって、何のことですか? ……根無ノ里のベイダさんが、消えた?」
左店主は僕に、さらなる混乱を投げつけた。
突然、勢いよく店のドアが開いた。
顔を出したのは、ホテルのフロントマンだった。
「いたか?」、フロントマンは左店主に訊いた。
左店主はただ横に首を振っただけだった。
「さっき駅長から電話があったんだ。ツキノさんについて行け、と」
さらに、コーヒーショップの店員が駆けつけた。
「いたか?」、コーヒーショップ店員が訊くと、左店主とフロントマンは同時に首を横に振った。
そして、床屋とバーテンダーがやってきて、同じことを訊く。五人とも酒の匂いをプンプンさせていた。
「駅長はネムリにいる」、フロントマンがそう言った。
「帰れたのか? あいつだけ……」、左店主は悔しそうにしていた。
「帰れた? あなたたちは未来から来たのですか?」
これは石野さんが書いた新しい筋書きなのか……。
「未来かどうかは知らんが、我々はネムリというところにいたんだ」
「どうやってここへ?」
その質問に誰も答えなかった。いや、答えられなかったのだ。
「私はこの世界の者だけど、ネムリに行ったのよ」、エクボが根無ノ里の住人たちに言う。
「どうやって戻った?」
エクボもそれに答えられなかった。
「もしかしたら、エクボが戻ったから、ベイダさんは帰れた。その逆かもしれないが……」、僕は推測して答えた。
「なら、あなたたちが未来へ戻ったら、未来にいる崎原さんは戻れるんじゃない?」
僕は考えた。今、僕は、石野なのだ。未来には崎原がいる。未来にいるのは僕なのか……。考えると、さらに混乱する。
「とにかく、あなたたちを未来に帰さなければならない」
僕は考えるのをやめた。彼らを帰すことに集中する。
「エクボ、今、アルサンドは未来にいるのかい?」
帰り方を知っているのは、アルサンドだけだ。
「うん。未来の物語にアルサンドがいる」
アルサンドは未来に行ってしまった。万事休す、か。
「僕は数時間前、アルサンドと一緒にいた。彼は電車で旅立った。おそらく、未来へ」
僕が、どうにかして彼らを未来へ送らなければならない。
「ならば、我々も電車に乗ろう」
「普通に乗っても未来へは行けない。手順があるんだ」
僕は彼らにアルサンドを未来へ送った経緯を話した。
「ネコなら、さっきいたが……」、左店主が思い出して言う。
「そうか、ここは過去だ。皆さん、ツキノさんと居酒屋ゲンさんに行ったあとですね」
アルサンドはあのとき、コーヒーに酔って、ふらふらと駅前の道を歩いて行ったはずだ。
「なんだい、他人ごとみたいに。あんたがツキノだろ。さっきまでベロベロに酔って眠ってただろ。まだ酔ってるのか?」、左店主が僕を責める。
詳しく話すのは面倒だ。そういうことにしておこう。
「それなら、アルサンドがどこかにいるはずだ」
「あのネコというイキモノを探すんですか? フロントマンが顔をしかめて訊く。彼は猫が苦手のようだ。
「なら、さっさと探しましょう」、コーヒーショップ店員が言う。
彼らの連帯感は素晴らしい。見ず知らずの場所に送られた、同郷同士の絆なのだろうか。捜索隊が直ちに組まれて、めぼしい行き先を推定し、チームに別れた。嫌がる者もなく、直ちにアルサンド捜索が始まった。
僕たちは真夜中の根無ノ里駅前で、アルサンドを探した。
駅前のゴミ箱の中、左食堂先の畑、住宅街の公園、手分けして探したが、アルサンドはいなかった。
それぞれが持ち場の捜索を行ったあと、一旦、全員が駅前に集まった。この暗闇の中で一匹の猫を探すのは、困難であった。
最後にアルサンドがいた場所から、順を追って探そうと作戦が練られた。最後にアルサンドを見た場所は、ここ、駅前だった。
「駅前の通りを向こうに行ったはずだ」、左店主が駅前からまっすぐ伸びる道の先を指差して言う。
「行ってみよう」
僕たちは駅前通りをまっすぐ進んだ。駅前には数メートル間隔で電灯が灯るが、やはり暗い。駅前の道から繋がる路地や塀の上、溝などを探した。
「おーい! アルサンドー!」
暗がりの中、二つの小さな光を見つけた。あれはもしかしたら……。
「いた! アルサンド!」
アルサンドは駅前通りの先のT字路で、僕たちを待っていたかのように、ちょこんと座っていた。暗闇の中、アルサンドの目が光っている。
僕たちがアルサンドのところに来ると、わかっていますよ、とでも言うように、左側の住宅地に進んだ。
あの、ルートだ。
僕たちはアルサンドについていく。ところどころで街灯がついている。
住宅地の終わりの大きな家の先を左に曲がる。
公園がある。夜中の公園は寂しい。
公園を右手にまっすぐ進むと遮断機がある。
遮断機をわたると、駅前の大通りへ出る。
僕たちは左に曲がり、根無ノ里駅に着く。
アルサンドは立ち止まる。
駅舎の時計は午後十一時五十九分のままだ。改札口から駅のホームを覗くと、電車が止まっていた。
「皆さん、あれに乗れば未来のネムリに行くはずです」
「そうか、色々世話になったな。イシノさん」
左店主は、ツキノさんとは言わずに、イシノさん、と呼んだ。
「お元気で!」
「イシノさんもな」
フロントマンも僕をイシノさんと呼んだ。
僕は本当に、崎原覚ではなくなったのか……。
飯屋、宿屋、コーヒー屋、床屋、バーテンダーの五人が電車に乗り込む。
ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。五人が電車の中から手を振っていた。
電車の窓の隅に、アルサンドがいた。いつの間に、彼は電車に乗ったのだろう。
電車は徐々に速度を上げ、暗闇の中に消えていった。
駅の時計を見ると、針は十二時三分を指していた。時間が動き出したようだ。
僕は左食堂に向かった。エクボが待っている。
町は静まり返り、闇が町を包む。皆を送ったはいいが、僕はこれからどうなるのだろう。もう町には僕とエクボしかいない。おそらく。不安はあったが、なんだか晴々とした気分だった。
左食堂に戻ると、エクボは石野さんのパソコン、いや今は崎原覚のパソコンの物語を目で追っていた。
「崎原さんはどうなった?」
「地球の四人と遭遇したわ」
「四人! 彼を入れて五人だ。やはり左店主たちと入れ替わったようだね。彼らも五人だ。彼らが帰れば、地球にいた五人も帰ってくるだろう」
「スカイマジックって、あなたの小説に出てきた人だよね」
「スカイマジック? 彼が未来にいるのかい? もしかして、他の三人は、AOB軍団かい?」
「そうよ。知り合いなのね」
僕の記憶は混乱していた。それが、僕が書いた小説の中の人物なのか、実際に会った人たちなのか、石野の記憶と崎原の記憶が混ざり合っている。もしかして、石野と崎原は同一人物ではないだろうか……。かつて、僕がこの町の住人が同一人物であろう、と推測したように。
そんなことを考えていると、食堂の入り口あたりで物音がした。誰かがドアを叩いているようだ。
僕はドアを開けた。ドアから顔を出して、左右を確認したが、誰もいない。誰かがいたのは左でも右でもなかった。下を見ると、アルサンドがあくびをしていた。
「アルサンド、みんなを未来に送ってくれたんだね」
アルサンドは眠そうな目で、よろよろと店に入り、エクボの足元で丸くなって眠ってしまった。
「アルサンド、おかえり」
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