第2話「里根」

第ニ話 ——里根——



 出だしはこんなものでいいだろう。ここらで少し休憩することにした。第一話は書き上がったが、第二話は構想すらまだ考えていない。

 僕はいつも、炬燵を机代わりに使って小説を書いている。炬燵の上の湯呑みはもう冷めていた。新しくお茶を入れ直すのも面倒で、冷えたお茶を一気に飲み干した。どこからか隙間風が入ってきた。ぶるっと震えがきたので、寝転んで炬燵の布団に潜り込んだ。

 古い平屋建ての一軒家。僕の財産はこのボロ屋だけだ。アルサンドは朝日の当たる窓際で、呑気に昼寝をしている。まだ午前中なので、朝寝と言うべきか。それを見ていると、僕もだんだんと眠くなってきた。


 僕は石野哲雄。もうすぐ四十歳。独身。結婚歴も離婚歴もなく、隠し子もいない。職業は物書き。「月野哲郎」という名でSF小説を書いている。名前が似ていることもあり、子供のころにテレビで見ていた「銀河鉄道999」の星野鉄郎の名をもじってペンネームをつけた。

 処女作が当たり、それなりの収入を得た。その後、鳴かず飛ばずの十五年を過ごす。それなりの収入は、もうすでに底を突いたが、突き抜けることはなく、借金に追われることもない。

 小説だけでは食っていけず、SF映画評論家として、雑誌などにくだらない原稿を書き、生計を立てている。だが、このまま小説を書いていても、いずれは浮浪者になるか、道端で野垂れ死ぬことになるのだろう。

 そうなりかけたときは、アルサンドを売り飛ばすしかない。だが、年寄りの猫に値がつくだろうか。老いぼれ猫の手も借りたほど、運に見放された超多忙な人物が、きっとどこかにいるだろう。

 僕の処女作は「男は犬であり、女は猫である」というタイトルのSF小説だ。この小説の主人公は名前のない猫で、その名無し猫が二度生まれ変わり、人類を救うという物語だ。詳しいストーリーは、まだ読んでいない方々のために、ここでは触れないでおこう。

 この小説を書き上げた翌日、僕の住むアパートのゴミ捨て場に、子猫が捨てられていた。小説の中の猫が三度目に現実世界に生まれ変わったのだ。二度あることは、三度ある(サンドアル)、というわけで、僕はその捨て猫に、アルサンド、と名前をつけた。

 アルサンドが家に来てから、ささやかな幸運が舞い込んだ。ある雑誌のインタビューで、捨て猫アルサンドの話をすると、「小説の中から飛び出した奇跡の猫」ということで評判を呼び、小説の売れ行きが上がった。アルサンドの写真を携帯電話の待ち受け画面にすると、ラッキーなことが起こる、なんて噂もあった。

 その後、僕の小説の中には、必ずアルサンドを登場させてきた。アルフレッド・ヒッチコックが自分の映画の中にワンシーンだけ登場するように。僕が小説を書き始めてしばらくすると、いつも決まってアルサンドは姿を消す。おそらく、僕の小説の中に入り込んでいるのだろう。小説を書き終えると、また帰ってくる。

 僕に小説家の才能はない。小説が売れたのはアルサンドのおかげだ。彼が僕の小説をおもしろおかしく演出しているようだ。しかし、彼ももうじいさん。なんとか小説の中に返してやりたい。僕はそう思い、この「ねむり駅」を彼の登場する最後の作品にしようと考えている。できるならば、彼と一緒に小説の中で、余生を暮らしたいのだが……。


 主人公は、現在の僕自身そっくりに設定した。崎原覚は小説の中で僕の夢を叶えてくれる。僕の夢は、アルサンドとともに小説の中の世界で暮らすこと。彼はその夢を本当に叶えてくれるのだろうか。いずれにしても、僕の力量にかかっている。僕は眠気を振り切り、炬燵布団から出て、ノートパソコンに向かい、再び小説の続きを書き始めた。



 ふと気がつくと、もう十時になっていた。窓際で朝寝をしていたアルサンドは、いつの間にかいなくなっていた。また、小説の世界に飛び込んでいったのだろう。「ねむり駅」第二話で、早速アルサンドを登場させた。このまま進めて、小説の中で永遠に生きる猫として、物語を終わらせてあげよう。僕の小説家としての人生も終わりになるのかもしれない。「これで満足か!」と僕は天井を見上げて、居もしない神様に不満をぶつけた。

 今日の執筆はこれくらいにしておこう。


 根無ノ里駅のイメージがまだ不鮮明だ。僕はどこかモデルになるような駅はないかと探しているのだが、なかなか見つからない。都内や横浜方面、茨城辺りを徘徊したが、ここだという駅はなかった。今日は千葉方面を探してみようと、カメラを持って出かけることにした。


 

 平日の昼間の電車は空いている。携帯電話にイヤフォンをつけたまま、大きな声で話しているアジア系の外国人は、周りの迷惑などこれっぽっちも気にしない。ドアの上の路線図で、行き先を探しているサラリーマンは、大きな紙袋を四つも抱えている。透き通るほどの白い顔の妊婦は、体を揺らしながらお腹の子と話している。リュックを背負って、首にカメラを提げた職業不詳の僕は、電車の一番後ろの車両隅で、窓の外の風景を眺めている。

 今日も目的地を決めず、適当な駅まで切符を買った。路線図を見ず、適当に乗り換えて、適当な駅で降り、その駅で精算を済ませる。電車は目的地を決めずとも、僕を満足させる駅に連れて行ってくれる。僕は途中で何度か眠ってしまい、目覚めると乗り換える、という試行を何度か繰り返した。


 思い立ったところで、電車を降りた。電車は僕を「里根」という駅に連れてきた。駅標にはSATONEのローマ字表記があった。偶然か、小説の中の「根無ノ里」の名前に似ている。しかも、単線、古びた駅標、自動改札がないところまでそっくりだ。改札口に佇んでいる駅長は、無愛想なベイダー卿とは違い、愛想の良さそうなおじさんだった。名札を見ると「米田」ではなく、「飯田」とあった。「米」を収穫して、炊飯器で炊き上げ、「飯」になった、というところか。飯田駅長はニコニコしながら、ご乗車ありがとうございます、と丁寧に頭を下げて僕に言った。


 駅舎の窓の上に時刻表があった。各時間の行にはずらりと文字が並んでいる。どうやら電車は一日一本ではなさそうだ。

 僕は切符を駅長の飯田さんに手渡し、改札を出た。そこで再び驚いた。駅舎の屋根の下に赤電話、ふと駅前の様子を探ると、円筒型の赤いポストまである。僕がイメージしていた「根無ノ里駅」通りだ。ここに来たことがあるのだろうか、と過去の記憶を探ったが、そんな記憶はなかった。忘れているだけかもしれない。忘れた記憶から、あの小説の「根無ノ里駅」を描いたのかもしれない。僕は里根駅の外観をいろんな角度から写真に収めた。途中、不審者を見るように、僕を睨みつけながら、よぼよぼと老婆が通り過ぎた。頰に深い皺のある、不気味なおばあさん。何かぶつぶつと呟いていたが、僕はシャッターを切ることに集中した。里根の駅前は、人通りがほとんどなく、これまでに見た人間は、僕と一緒に電車から降りた男女の二人組と、先ほどの老婆だけだった。


 僕は「食うなら左」のモデルとなる店を探しに、駅を出て左に曲がった。西日が眩しい。狭い二車線の車道の脇に、申し訳なさそうに引いてある白いラインで区切られた歩道は、人がひとりやっと通れる幅である。油断すると、車に引っかけられそうなほどの危なっかしい道路だ。だが、車は一台も通らなかった。

 百メートルほど進んだところに、食堂があった。店名は「食うなら左」でも「左食堂」でもなく、「なりくら食堂」という。「くうならひだり」の字を少し削って並べ替えた、といったところだ。そういえば、朝ご飯は食パンを一枚かじっただけだった。僕は「なりくら食堂」で、昼食とも夕食ともつかない食事を取ることにした。朝食と昼食の中間に取る食事をブランチというが、今はランチとディナーの中間なので、ここはラディナーと洒落込んで言うべきなのだろうか。


 なりくら食堂の入り口のドアを開けた。

 客はいない。

 いやっしゃいませ、と元気のよい女性の声が響いた。

 なりくら食堂の内装は「左食堂」のイメージそのままだった。安っぽい合板のテーブルに赤と緑の丸椅子、ビニール袋を被せた壁付けの扇風機、奥壁の棚のブラウン管テレビ、店の隅の赤電話。これほどの偶然は存在するものか。やはり、僕はここへ来たことがあるのかもしれない。いや、もしかして、自分の小説の中に紛れ込んだのではないか。アルサンドのように。

 そのとき、僕の腹が、グー、と救援信号を放った。僕が席に着くと、女店主がトレイに水を乗せて僕の前に来た。

「何にしますか?」、女店主が水の入ったグラスをテーブルに置きながら訊いた。

「アジフライ定食」

 小説の主人公と同じ、僕の大好物はアジフライ定食である。

「アジフライ定食、ワン!」、店員はこの女店主だけなのであるが、彼女は見えない調理人に注文を告げるように、そう言った。

「あいよ!」

 見えない料理人が現れた。それも女店主の役目のようだ。彼女は調理人と店員の二役を演じている。そして彼女は、カウンターの中で調理を始めた。

 店内には、左食堂と同様、メニューがなかった。もしかしたら、女店主は世界屈指のカリスマ料理人で、この店はミシュラン五つ星の隠れた名店なのかもしれない。どんな料理にも対応し、たとえば「舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食」と注文しても、「あいよ!」と言って、数分後には、注文通りの品が出てくるのだろう。おそらく。

「あがったよ!」、ミシュラン五つ星料理人の女店主は、見えない店員に告げた。

 女店主はフライパンをガス台に置くと、見えない店員が現れた。女店主は店員になり、僕の座っているテーブルまで来た。そして、トレイに乗せた「舌平目の香草パン粉焼きキャビア添え定食」をテーブルに置き、「おまたせ!」と元気よく言い放った。だがよく見ると、僕の前に置かれた品は、豪勢な名のそれではなく、ぷっくりと太ったアジフライが二尾乗ったアジフライ定食だった。

「いただきます」

 いつもは、いただきますどころか、手も合わせずかぶりつくのだが、ひとり二役の女店主の働きっぷりと、威勢のいい掛け声に感謝する気持ちで言ってみた。

「うまい!」

 さすがはミシュラン五つ星シェフである。あれ? ミシュランって三つ星が最高だったかな……。とにかく、根無ノ里駅の左食堂のアジフライ定食に匹敵する旨さであるのは間違いない。だが、あのアジフライ定食は所詮小説の中の架空の定食だ。架空の定食に匹敵するということは、ここのものは世界最高のアジフライ定食といってもよいということだ。

 ほんの数分で、皿の上のアジフライは消えてしまった。

 カウンターにいる女店主を見ると、僕の満足顔を見て喜んでいた。僕はアジフライとご飯を口の中でムシャムシャさせながら、両手を合わせて、「ごちそうさま」と女店主に告げた。そして、残りの味噌汁を飲み干した。それから、湯呑みのまだ熱々のお茶を飲み、口の中の脂っこさをさっぱりと胃の中に洗い流した。

 周りを見渡すと、赤電話が目に入った。あの赤電話も、小説と同じ公衆貯金箱なのだろうか。試す価値はある、と思ったが、十円玉を切らしていた。

 僕は立ち上がって、カウンターの女店主の前まで出向いた。

「おいくらですか?」

「七百円です」

 僕が財布から出した千円札を差し出すと、代わりに女店主は百円玉を三枚、僕に差し出した。

 ふと、赤電話を見た。やはりやめておこう。僕は、百円玉を公衆貯金箱に投入できる身分ではない、と理由をつけたが、本当のところは、電話をかける相手がいなかっただけだ。相手がいたところで、百円分の無駄話をするということは、僕にとっては地獄でしかない。僕は電話が嫌いなのである。そうして、なりくら食堂をあとにした。一瞬、「ツキノさん」と声をかけられる気がしたが、そんなはずはなかった。


 外に出ると、もうすっかり日が傾いていた。僕はカメラを構えて、なりくら食堂の写真を撮影し、次の場所に向かった。次の場所は、もちろん「寝るなら右」である。泊まるつもりはないが、やはり、その存在が気になる。


 僕の長い影が歩いている方向の車道に伸びる。僕は自分の影を追いかけた。追いかけても、追いかけても、自分の影は逃げていく。僕は再びカメラを構えて、影をフィルムの中に捕らえた。逃げないように。


 里根駅の前まで来た。少し離れた駅舎も味があってよい。カメラのレンズを向け、駅の全貌もフィルムに収めておいた。木造の駅舎の時計台が古めかしくていい味を醸し出している。先ほどの老婆が駅前のベンチに座っている。彼女はまた何かぶつぶつと言っていた。写真を撮ったことに文句を言ってるのだろうか。僕はそれを無視して通り過ぎた。


 しばらく進むと、ホテルらしき建物があった。建物の前に立てられたポールの先の巨大なネオン看板には「Paradise Heaven Rest Hotel」とあった。Paradiseのロシア語訳、Heavenのラテン語訳、Restの火星語訳は、いずれも「ハテノフノト」である。小説で使った僕の勝手な訳だが。やはり、僕の書いた小説と関係している。ここは小説の中なのだろうか。

 ホテルの建物と看板を撮影し、さてどうしたものか、と思案した。泊まるつもりはなかったが、どうしてもホテルの中を見たかった。小説の中で見つけられなかった「死にな」の部屋に何かがある、と僕の直感が働いた。そしてそのまま、「楽園天国の休息」を体感することにした。


 ホテルに入った。中は、やはり僕が描いた通りのフロントだった。

「いらっしゃいませ」

 鍋を逆さまににしたような、つばのない帽子を被ったフロントマンが出迎えた。

「部屋は空いていますか?」

 ホテルのロビーで、得体の知れない何か、を感じた。何か、はわからないが、ここに、何か、がある。

「はい。今日は平日なので、十分に空いています」、フロントマンは笑顔で答え、宿帳を差し出した。

 僕は宿帳に、自宅の住所と本名の「石野哲雄」とを明記した。ここは小説通りに、「崎原覚」と主人公の名前を書いてみようとしたが、思い直し、本名にしておいた。あとで何かが起きて、偽名を使ったので、死刑、なんてこともありえる。

 フロントマンは、ふむ、と頷いて、宿帳を閉じた。

「あのー、427号室はありますか?」

 きっとそこに何かがある。過去の記憶なのだろうか……。

「え? 427号室ですか?」

 フロントマンは、妙なことを訊く奴だ、とでも言いたげに、眉間に皺をよせた。

「あ、なければいいんです。どこでも」

「いえ、ありますよ。ここはビジネスホテルで、どの部屋も同じ作りだから、部屋を指定される方は珍しいので……」

 フロントマンはもとの笑顔に戻った。

「できれば、その427号室を」

「かしこまりました」

 フロントマンは、フロントの後ろの壁に設置されたボックスのひとつから、透明の長いプラスチックの付いた鍵を抜き取り、僕に差し出した。プラスチックには427と番号が書かれていた。

「では、右手の階段から二階へどうぞ。部屋は右手の一番奥になります」

「わかりました。ありがとう」

 フロントマンは確かに二階だと言った。四階ではなく、二階の一番奥だと。

「あのー、四階ではないのですか?」

「あー、427号室。このホテル、昔は四つの建物があったんです。ここ四号館だけが残って、あとの三つは取り壊されました。その名残でして」

「なるほど、四号館二階の七号室なんですね」

「紛らわしくて、申し訳ありません。部屋を指定なさったので、ご存知かと思いまして」

 フロントマンは丁寧に頭を下げた。

「あのー、何枚かフロントの写真を撮ってもいいですか?」

 僕はこの愛想のいいフロントマンなら、撮らせてくれるだろう、と予想した。

「あー、勝手にインターネットやその他の媒体に使われるのは困ります」

 フロントマンは首を振って拒否した。

「いや、実は僕、小説を書いておりまして、この町をモデルにしようと考えているんです。写真は誰に見せるわけでもなく、単なる資料写真として使うだけなんですですが……」

 僕はリュックからカメラを取り出しながら、フロントマンの顔色を伺った。

「そうですか、そういうことなら、いくらでも撮ってください」

 僕の予想は当たった。

「ありがとうございます」

 とりあえず、僕は荷物をフロントのソファーに置き、撮影を開始した。

「なんて小説なんですか?」、フロントマンは僕の後ろにぴったりひっついて、興味深げに尋ねてきた。

「『ねむり駅』というタイトルの予定です」

 僕は楽園天国の休息地の内装を撮影しながら、フロントマンに返事をした。

「いつ完成するんですか?」

 フロントマンは、金魚の糞のように僕の背後について、質問を続けた。

「まだ構想の段階なので、完成するのは一年後か……」

 はたまた、三年後か、未完成のまま忘れられるのか。そのことは、言わずにおいた。

「どんなお話なんですか? 推理小説ですか? もしかして、ここで死体が発見されるとか?」

「いえ、推理小説ではないんです。SF小説なんですよ」

「へー、そうですか。私は、崎原覚の大ファンなんです。彼のSF小説、面白いですよね」

「え?」

 僕は耳を疑った。フロントマンは「崎原覚」と言った。僕の小説の主人公だ。同姓同名の作家がいるのだろうか。

「石野哲雄さんでしたよね」

 先ほど書いた宿帳の名前を彼は覚えていた。僕はカメラを構えながら、フロントマンの相手をした。

「あー、それは本名です。作家名は、月野哲郎なんですよ」

「そうなんですか。発刊されたら、必ず読みますね」

 やはり、フロントマンは「月野哲郎」を知らなかった。売れたと思っていた「男は犬であり、女は猫である」も、世間ではたいしたことがないようだ。

「よろしかったら……、記念に、フロントの看板をバックに一枚撮りましょうか? それ、フィルムカメラですよね」

 フロントマンは、どうやら僕のカメラに興味があるようだ。それで、愛想よくつきまとっていたのだろう。撮影の許可をくれたことだし、仕方なく、撮影してもらうことにして、カメラをフロントマンに渡した。

「では、笑ってください。はい、チーズ!」

 フロントマンは満足したようで、僕にカメラを返してくれた。

「やっぱりフィルムカメラはいいですね。シャッター音と、シャッターが降りる指の感覚が最高です」

 フロントマンはニコニコしながら、僕のカメラの撮り心地を伝えてくれた。僕は、そうですか、と愛想よく笑っておいた。

 その後、僕はフロントマンに礼を言って、二階の「死にな」の部屋へ向かった。


 階段を二、三段上がったところで、フロアから猫が降りていくのが見えた。その後ろから客らしき男が続く。ここは猫も一緒に泊まれる宿なのだろうか。あの猫、どことなくアルサンドに似ていた。アルサンドがここにいるわけがないが……。

 二階に着くと、左に曲がる。薄暗い廊下の両側にはドアが並んでいた。201、202、203、205……。204号室はない。「4」は「死」をイメージする、ということなのだろうが、「死にな」はよいのか……。そんなことを考えながら、僕は廊下の一番奥を目指した。

 427号室は、フロントマンの言う通り、廊下の一番奥の右側にあった。僕はフロントマンにもらった部屋の鍵をドアの鍵穴に差し、施錠を解いた。そして、ドアノブを回して、ドアを開けた。

 何だか知っている匂いがする。だが、その匂いは何なのか、思い出せなかった。小説の中の町とそっくりなこの場所へ僕が来た理由は、この部屋にあるはずだ。そう思って部屋に入った。しかしそこは、狭い空間にシングルサイズのベッドがひとつ、ぽつんと置かれている、普通のビジネスホテルの部屋だった。

 壁の照明が薄っすらとオレンジ色の明かりを灯している。壁のスイッチを入れると、天井の明かりがついた。部屋には、ベッドの向こうに引き出し付きの木製の台があり、その上には読書灯が置かれている。ベッドのこちら側の壁には北欧風のシンプルな机と椅子。机の上にはダイヤル式の白い旧式電話がずっしりと居座っている。その横にはメモ帳とボールペンが仲良く並んでいた。机のとなりには小さな冷蔵庫がある。中を開けると缶ビールが二本とミネラルウォーターが二本入っている。バスルームは入り口の横のドアにあり、中に入るとトイレの便器と浴槽があった。部屋にテレビはなく、小説の中へと移動する転送装置はどこにも見当たらない。

 ベッドボードに埋め込まれたデジタル時計は「17:25」を示している。僕はリュックからノートパソコンを出し、机の上に置いた。やることもないので、小説の続きを書こうと、パソコンを開く。ワープロソフトを立ち上げ、新規文書に「第三話」と打ち込んだ。


 コン、コンという音で意識が戻った。どうやら、うとうとと眠りかけていたようだ。何の音だ。僕は小説を書こうと、ノートパソコンを向かっているが、出だしが書けない。静か過ぎるホテルの部屋。時間が止まっているようだ。時々、冷蔵庫のモーターがウォーンと唸りを上げる。パソコンの画面には、白い背景に「第三話」と打ち込んだ黒い文字の下で、カーソルが点滅を繰り返している。僕はカーソルの点滅をじっと見つめていた。

 意識の遠くのほうで、またコン、コンとなっている。それがドアをノックする音だと気づくまで、ずいぶん時間がかかった。

 僕はひとつ大きなあくびをして、立ち上がり、ドアへ向かった。

 ドアを開けた。だが、そこには誰もいなかった。おそらく、フロントマンだろう。もう一度、フィルムカメラを見せてくれ、とでもいうことだろう。


 どれくらい時間が経ったのか、打ち込んだ文字は「第三話」の三文字だけ。ふと、机の上の電話を見た。今時珍しいダイヤル式の電話だ。白い色の旧式電話を始めて見た気がする。電話の隣にはメモ帳が置いてある。そこで気がついた。メモに数字が書いてあった。数字が二段に並んでいる。先客が書いたものだろうか。どうやら、これは二件分の電話番号のようである。

「あっ!」、思わず声を出してしまった。あまりに静かな部屋で、その声が予想以上に大きくて、さらに驚いた。

 下の段の電話番号が、僕の自宅の電話番号だ。やはり、この「死にな」の部屋に「何か」があった。誰かが僕の家に電話したということなのか。わからない。メモの上段の電話番号に覚えはなかった。僕は上の段の番号に電話してみようと考えた。

 白い電話の受話器を取る。旧式のダイヤル電話の受話器はずっしりと重みがある。コインの投入口はない。公衆貯金箱ではなさそうだ。受話器を耳に当てると、ツー、と鳴り、通話可能であることを知らせてくれた。

 僕はメモの知らない方の番号を回した。

 回したダイヤルがゆっくりと戻る。

 プル、プル、プル、と呼び出し音が鳴る。

 僕の心臓はバクバクと音を立てる。

 中学生のころ、好きな女の子の家に電話したことを思い出した。家の人が出たら、切ってしまおう、と。

 呼び出し音が止まり、沈黙が続いた。

 彼女なのか? 

 出たのは僕の好きな女の子だった。

『……もしもし』

 男の声だ。僕は現実に戻る。

「もしもし」、僕は真似をした。

 あのときと同じように。

『どちらさまですか』、電話の向こうで誰かが尋ねる。

 あのとき、僕は女の子と話せないまま、電話を切ったのだった。あれ以来、僕は電話嫌いになった。

「そちらこそ、誰ですか?」

 知らない相手のときは、特に嫌になる。

『電話をかけたのは、あなたでしょ』

 相手の言うことはもっともだ。僕が彼に電話をしたのだ。先に名乗らなければならないのは、僕だ。

「石野、と言います」

『僕は、崎原ですが……』

 僕はその名前を知っている。

「覚さん……、ですよね」

『はい、そうです』

 やはり、小説の中の崎原覚だ。

「えーと……」

 僕は言葉に詰まった。相手は僕が書いた小説の主人公だ。何を話せばいいのだろう。

『どちらの石野さん?』

 そう言われて、あなたの生みの親だとも言えず、返事に困った。

 小説の通りだと、彼は今、根無ノ里にいるはずだ。

「あなた、今、ライトホテルにいるんですよね」

『どうして、僕がここにいることを……』

「メモを見た」、僕は適当に言葉を返した。

『この町から出られないんです。助けてください』

 知っている。彼を町に閉じ込めたのは、僕なのだから。彼を根無ノ里から脱出させるには、僕が小説の続きを、そう書けばいいだけだ。だが、彼を脱出させたところでどうなるのだろう。その続きの展開は考えていない。

「猫を見つけたら、ついて行ってください。そうすれば出られます」、僕はとりあえず、そう言っておいた。

『猫ですね。わかりました。探してみます』

 崎原はそう言うと、ガチャンと電話を切ってしまった。

 なんだよ! 僕はあのときの女の子の気持ちを知った。誰だかわからない相手に、勝手に電話を切られたのだ。きっと彼女も、なんだよ! と思っていたのだろう。

 仕方ない、彼を脱出させる方法を考えよう。まず、アルサンドを登場させて、ついて行くところまでを書いてしまおう。続きはそのうちまたアイデアが浮かぶだろう。僕は受話器を置き、再びパソコンに向き合って、キーボードに両手を乗せた。画面の「第三話」の文字の下で、カーソルが早く打ってくれ、と待ちわびていた。僕は両手を動かし、第三話を書き始めた。僕の両手は、先ほどと打って変わって、スラスラと動きだした。


 どれくらい時間が経ったのだろうか、うとうとし始めた。眠気に襲われ、ふと時計を見た。十一時五十六分。

 冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、キャップを開けて一口飲み、そのままペットボトルを机に置いた。睡魔はまだ襲ってくる。僕はベッドに座り、カバンからカメラを出した。僕はデジタルカメラを使わない。モノクロのフィルムカメラを愛用している。すでに一本分を撮り終えていたので、フィルムを巻き取り、カメラから取り出して、シャツの胸のポケットに入れた。十一時五十八分。

 眠気で頭がふらつく。あと一分で根無ノ里の電車が出ることを想像し、ベッドボードのデジタル時計を見ていた。

 それは時計の「8」が「9」に変わる瞬間だった。

 僕はカメラを持ったまま意識を失って、ベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。


 

 目覚めた。ずいぶん眠っていた気がする。だが、まだ窓の外は暗かった。僕は無意識に時計に目をやった。テレビの横のデジタル時計に。時計は「11:59」と示していた。そこで我に返った。

 ここは僕の家だ。さっきまでのは夢なのか。僕は混乱した。二、三度深呼吸をして、目をこすり、周りを見渡した。やはり、ここは僕の家だ。

 何だ、夢を見ていたようだ。小説を書いている最中に、昼過ぎから炬燵で寝てしまったのだ。僕は立ち上がり、天井からぶら下がる蛍光灯の紐を引っ張った。

 明かりの眩しさに目を細めた。小説がどこまで書けたのかを確認しようと、炬燵の上にあるはずのノートパソコンに右手を伸ばした。

 右手は空を切った。そこにあるはずのものが、ない。

 明るさに目が慣れてきた。寝転んで畳の上でパソコンを操作していたのだろうか、と炬燵の周りを探した。パソコンは見つからないが、カメラが転がっていた。炬燵布団を捲り上げ、その下を探していたときだった。胸のポケットから、何かが落ちた。僕はそれを拾い上げた。

 ……フィルムだ。

 思い出した。僕はホテルのベッドの上で、カメラから撮り終えたフィルムを取り出し、胸のポケットにしまったのだ。あれは現実だったのか……。それを確かめるには、フィルムを現像するしかない。いったい、何が起こっているのだろう。

 風呂場へ向かった。モノクロフィルムの現像を行うために。

 いつものように、脱衣所の窓を遮光カーテンで塞いだ。ドアを閉め、電気を消せば暗室になる。脱衣所の棚に、現像器具が置いてある。その中から、現像タンクとリールを取り出し、ハサミを用意した。ドアを閉め、電気を消し、脱衣所を真っ暗にした。暗闇の中でフィルムのケースを剥がし、中からネガを取り出した。その端をハサミで切り、リールに巻きつける。現像タンクにリールをセット。そこまで終えれば、とりあえず、もう暗室は不要だ。電気をつけ、次の作業の準備をした。

 現像液と定着液は、先週作ったばかりだ。他には停止液を、それぞれピッチャーに用意する。タイマーをセットし、フィルム現像の準備が整った。

 現像液は少し温めなければならない。洗面所の赤い蛇口をひねって、洗面器に湯を溜め、現像液と定着液をタンクごとその中に入れる。

 しばらく待ち、温度を確認して、現像タンクに現像液を注入。撹拌を繰り返したあとは、一定時間ごとにまた撹拌。指定時間で現像液を排出。停止液を注入し、また撹拌。停止液を排出し、定着液を注入。指定時間で終了。あとは、フィルムをタンクから出して、水で洗う。

 フィルムに、何かが写っていることは確認できた。水洗いを済ませたあと、フィルムの水を切り、乾燥させる。

 蛍光灯にフィルムをかざし、写っているものを確認した。

 駅だ。

 やはり、里根駅で撮影したものが写っている。白黒反転しているが、これは確かに僕が昼間に撮影したものだ。いったい、どうやって家に戻って来たのだろう。

 ならば、僕のノートパソコンは、「楽園天国の休息」に置き去りにされている。もう一度あそこへ行くしかない。パソコンには、書きかけの小説がある。アルサンドと崎原覚を助けださなければならない。

 始発までまだ時間がある。僕はそのまま朝まで、フィルムの焼き付け作業をすることにした。もう一度、里根駅に行かなければ……。フィルムに重要な何かが写っているかもしれない。僕は風呂場で、焼き付けの準備を始めた。

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