捌:鬼は嗤う


瞬間、何もかもが止まった。比喩ではない。きらきらと光を反射する氷の破片も、ひび割れた大地も、咲き誇る黄色い桜も、何もかもがその動きを止めた。例にもれずマスターと白月も動けない。中途半端な姿勢のまま、凍り付いてしまったかのように。動けない。意識はある。だが、自分の身体なのに外側と内側の両方からギチギチに締め上げられているような。

こそりとも音を立てない不気味なほどの静寂に満ちた空間に、感心するような、或いは諦めたかのような嘆息が響いた。


ぽん、とマスターと白月、それぞれの右肩と左肩に手が乗せられる。奇妙で重苦しい重圧がそれだけで消えて動けるようになる。肩に乗せられた手を視線でたどると、いつもの微笑に少しだけ苦いものを混ぜた黄桜の横顔。


「……黄桜どん?」

を忘れてしまうとは、陛下はずいぶんとお怒りのようですねぇ」


マスターの声に応えるように呟かれた言葉は、少しだけ呆れたような色。すくめられた肩も、彼の諦めにも似た感情を表している。


「おい、なにやってんだドット!ウカムが、」


黄桜の表情の意味をはかりかねていたマスターが、白月の声で我に返る。そうだ、いくら魔女の王とは言え、彼女は女性。恐らく初めて相対するであろう古龍、どのように立ち回るか、どこに攻撃すれば効果的か、どのような生態でどのような攻撃パターンがあって、そんな知識があるとは思えない。ならば慣れている自分たちが、と刹那で考えを巡らせ足を踏みだそうとしたその瞬間。

また、声が響いた。



声にはじかれるように、膝をついた。頭を伏せ、手を付く。いやな汗が頬を伝う。血管のなかに直接冷たいものを流し込まれたかのようだ。心臓を鷲掴みにされるような圧迫感と、息苦しさ。身体が震える。心臓は痛いほど強く鼓動していて、無意識に身体が強張っていく。すぐ隣にいる白月も同じような感覚を味わっているらしい。白い肌が更に白く見える。

どぉん、鈍い轟音が響いた。ウカムルバスがその巨躯を地に伏せた音だった。ブレスを吐こうとして口を開いたまま、上から押さえつけられたように伏している。


「おやおや、」


黄桜ののんびりした声が、酷く場違いに聞こえる。この圧迫感を彼は感じていないのだろうか。緩やかな動作で黄桜はマスターと白月の背中をぽんぽん、と軽くたたいた。それだけで今の今まで感じていた圧迫感や閉塞感が霧散する。


「な、なにが」


訊きたいことは山ほどある。何故ウカムルバスが此処にいるのか、彼女の言葉の意味は、黄桜が触れただけで何かから解き放たれる気がするのはなぜか、嗚呼、そんなことより。


「……助け、なきゃ、」


言葉を吐く時間すら惜しいという表情で走り出そうとする白月を、黄桜が止めた。ひょい、と抱え上げられる。まるで大人が幼児にするような扱いに白月が思わず黄桜をにらみ罵声を浴びせようとして、目に映った黄桜の表情に息を飲む。


黄桜はいた。いや、元々穏やかに笑っている表情しか見たことがないが、それでも彼は確かに嗤っていた。純粋無垢な子供が、愉しい玩具をようやく見つけたような、或いはこれから起こる出来事を心待ちにしていたような、狂気を滲ませた笑み。


ぞ、と白月の全身に冷たいものが奔る。先程の圧迫感と同じような、或いはまったく別物のような寒気だった。

強張った白月の身体に気付いたのか、黄桜は柔和な笑みを浮かべる。


「おっと、失礼しました。……しかし、今手を出してはいけませんねぇ」


のんびりした口調に、マスターは息を飲む。黄桜は何を言っているのだろうか。いや、言葉の意味はわかる。言葉としての意味は、だが。


「陛下が前に出られたということは、私は貴方がたに傷がつかないようにしなければなりません。ここで貴方がたが傷ひとつでも負えば、あの方の意志を踏み躙ることになりますからね」


抱えていた白月をそっと下ろし、黄桜はやわらかく笑んだ。







白月は口唇を噛み締めた。自分はハンターで、確かに相方のように強くはないけれど、それでも古龍だって狩ってきた。窮地に立った時も、相方に助けられながらそれでもなんとかしてきた。けれど、いまこんなにも自分は無力だ。よりにもよってあんなにもやさしく触れてくれた女性に、いる。


「黄桜どんの言いたいことはわかりまさぁ。でも、ワシらだって護られてばかりはいやなんでさ」


白月の頭をぽん、と叩き、マスターは不敵に笑った。いつの間にか、マスターの手には愛用のヘヴィボウガンが握られている。


「ど、ドット、」

「じゃからワシはマスターだぜの。ほれ、シロちゃんの双剣」


見上げた顔は、いつもと変わらない相方の、にやけた顔。


「まぁ、無理には止めませんがねぇ。

一応忠告しておきますと、どのような行動であれ、代償を支払うことになりますよ。

それでも良ければ、どうぞお好きに」


本気で止める気がないようなのんびりした声を聞き流し、マスターと白月はほぼ同時に駆け出した。


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