弐:魔女の微笑
白月はこめかみに指先をあててぐりぐりと押していた。少し頭が重く感じる。視線の先にはお代わりした桃ジュースのグラスがあった。氷が少しだけ溶けて、グラスの周りに水滴がついている。つぅ、と音もなく水滴がグラスをなぞり、ぽとん、テーブルに落ちる。
いつも通りにラオシャンロンの素材が欲しくて相方を狩りに誘っただけだった。普段のふざけた言動とは裏腹に、サポートの行動は的確で、咄嗟の判断も鋭い。そういうところは長年の付き合いで解っているし、頼りにもしている。が、突飛な行動に慣れたと言えどいくら何でも世界線を飛び越えるとは。
自分も白い悪魔だとか白い死神だとか大概ひどい言われようだが、それでもまだ常人の領域からひどく逸脱しているとは思いたくない。
さらさらと水の音に顔を挙げる。やわらかい光を反射する水面に、黄色い桜が舞い落ちている。ゆらりひらりと舞いながら、また同じように水面で踊る花弁をなんともなしに眺めていると、まるでずっとずぅっと昔から此処に居たような錯覚を覚える。嗚呼、此処は誰も拒絶しないんだな、とぼんやり思ったところで、耳慣れた声が聞こえた。
「シーローちゃーん!できたぜなー!」
お盆を両手に持ち、早歩きで座敷に入ってくる、見慣れた顔。にやけてだらしない表情も全くいつもの相方で、なんとなく安堵の息が漏れた。
白月の表情に気付いているのかいないのか、マスターはにこにこと笑顔を浮かべたまま、慣れた手つきで皿をサーブする。ことりと軽い音を立てておかれた椀にはほかほかの蒸気を上げるつやつやの白米。続いて馴染み深い味噌の香り。わかめに豆腐、刻みネギ。そして拍子切りされた大根。綺麗に六角形になっているのは里芋だろうか。蓮根やこんにゃくなども覗いており、なんとも具沢山な豚汁だ。
そして、メインの生姜焼き。香ばしい醤油と生姜の、食欲をダイレクトに刺激してくる香り。ぐぅ、白月の胃が空腹を訴えて、頬が赤らむより先に箸に手が伸びた。
「いただきます」
行儀よく手を合わせ、まずは豚汁を一口。豚の脂の甘味と、根菜の風味が鼻を抜けていく。懐かしく感じる味に、ほ、と肩の力が抜ける。続いてつやつやの白米を口に放り込むと、米そのものの甘味が際立って感じられる。咀嚼しつつ、口角がゆるむのを止められない。ただの白米と豚汁なのに、なんというか、もう、
「……んまぁ~……っ……!」
表情がゆるゆるになっているのは自覚しているが、止められない。やわらかい里芋を口に入れると、とろりとほどけるような感触。芋と味噌の甘味が白米にとても合う。
さて、本命の生姜焼き。肉汁たっぷりの豚肉に絡んだ醤油と生姜の香ばしい香り。ふわふわに千切りされたキャベツを肉でくるんで、一口でがぶりと行く。
タレの旨味と、やわらかい豚肉。カリッとした表面と油の甘さ、そしてキャベツのシャキシャキ感。
「~~~~~~~~~~っ!」
言葉もなく咀嚼し続ける白月を見ながら、にやにやと笑むマスターの前にグラスがサーブされる。ふわりと花のような香りが昇ってきて視線を上げると、黄桜の微笑が眼に入る。
「クッキーがお好きなようですので、こちらもお代わりでどうぞ」
同じく流れるような仕草でサーブされた皿には、チョコチップやココナッツが混ぜ込まれたもの、シナモンやバニラの香りがするもの、多種多様なクッキーが、山盛りになっている。白月ではないがマスターも表情が緩む。自分で作って食べるほどの好物が眼の前に山になっていたら顔がにやけるのも仕方ない。
とりあえず目についたものを口に放り込むと、鼻に抜けるさわやかな香り。
「おお、これはレモンですかにょ?」
「ええ、レモンの皮を摺り下ろしたものを混ぜ込んだものです」
もう一度レモンクッキーを口に放り込み、グラスをあおる。辛口の酒が更にすっきりと身体に沁み渡っていく。ほぅ、知らず息が漏れる。
客人の満足げな表情に、黄桜は更に浮かべていた微笑を深くすると静かに席を外す。無事に客人を帰すまでがもてなしというものだ。
さて、しかしどうしたものか。時間はかかるが手当たり次第に該当する世界線を探すか。それともいっそ裏口を使って干渉するか。悩ましいところだ。
「ふむ……」
ふとあることを思いつき、黄桜は客間に続く廊下の窓へ向かう。窓の外には黄色い桜が咲き誇っている。それを見るともなしに窓を一度閉め、掌で埋めるようになぞる。その軌跡を追いかけるように木の扉がじわりと浮かび上がってくる。白い木肌の扉は、金色の金具で装飾されている。やや豪奢な印象を与える扉を、黄桜はこともなげにとんとん、ノックした。
「はい」
応える声を確認し、扉を開ける。扉の先には草原が広がっていた。黒い燕尾服に身を包んだ執事が、折り目正しく礼をしている。礼を返しながら、黄桜はそっと周囲をうかがった。青々とした草木と、頬をくすぐる微風。甘い花の香りに、あたたかな陽光。此処の主が息災な証だ。
「黄桜さま、本日はどのような御用件で」
「陛下はどちらに?」
執事は微笑を浮かべているが、その笑みの裏に鋭いものを隠している。やわらかな物腰とは裏腹に、主を害するものは決して赦さない、覚悟にも似た感情が瞳の奥で押し込められている。
「Ladyは此方です。ご案内いたします」
「ありがとうございます。嗚呼、そうだこれを宜しければ」
懐から包みを取り出し、執事へ差し出す。
「ありがとうございます、これは……?」
恭しく受け取りながら、執事が問う。
「珍しい客人がウチにいらっしゃいましてね、焼き菓子がお好きだったようでたくさん用意してしまったのです。余りと言っては押し付けのようで申し訳ないのですが、お茶請けにでもしてもらえると嬉しいですねぇ」
「そうですか、Ladyもきっと喜びます」
執事が先導し、湖のほとりにある洋館へ辿り着く。白い外壁には緑の蔦が絡んでいて、所々苔むしている。古めかしい印象を与えるが、暗くはない。色とりどりの花が咲き誇るフラワーガーデンがあるからだろうか。
「此方です」
生垣を抜けた先に、ガーデンカウチが見える。金属フレームにかけられた薄い紗の日除けの下、ゆったりとくつろぐ肢体。物憂げに伏せられた瞳は、長い睫毛で縁取られている。頬に添えられた指はほっそりとしていて、桜色の爪が艶やかな光を称えている。
完成された絵画のようにも見えて、黄桜は軽く息を吐いた。静かに膝を折り、頭を下げる。
「ご機嫌麗しゅう、陛下」
冥王ばりに芝居がかった仕草で礼を捧げる黄桜に、彼女は苦笑したようだった。ぎぃ、カウチが軋む音。かつ、かつ、軽い足音に次いで、甘い香りが近づく。
『お久しぶりですね、黄桜さん』
頬に手を添えられて、持ち上げられる。白い手はやわらかく、ほんの少し冷たい。
促されるままに顔を挙げると、細められた紫色の瞳。やわらかく弧を描く口唇。さらりと流れる黒髪。
魔女の王が艶然と微笑んでいた。
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