壱:緋色の雫


盆に載せたクッキーが香ばしい香りを運ぶ。座敷に入ろうとして、黄桜はふと足を止めた。


「だいたいお前が『行ってみようず』とか言って俺をひっつかんだんだろうが!」

「えー?そうだったかの?」

「ラオ狩りに行く予定だっただろうが!それをお前がちょい待ちとか言って路地裏に行くから!」

「なんか変な感じがしたんだにょ」

「……変な感じ?」

「なんていうかなぁ、うーん、」

「世界が感覚でしょうか?」


気配を完全に消していた黄桜に、マスターと白月はほぼ同じタイミングで振り返った。失礼、と言いつつ飲み物のお代わりとクッキーの皿をサーブする。その動作は滑らかでまったく澱みがない。


「……驚きやしたぜ、まさにそんな感じでしたの」

「クッキーはシナモンにチョコ、紅茶、胡麻とメレンゲになっております。お好きなものをどうぞ」


ことりと置かれた皿に美しく盛られているクッキーの数々。狐色に香ばしく焼き上げられたそれは、黄桜の説明の通りいくつかの種類が小さく盛り合わせになっていた。


「おお、これはまたうまそうな」


思わず手が伸び、ぱくりと一口。サクサクとした小気味よい歯ざわりと、鼻に抜ける香ばしい風味。胡麻のプチプチとした触感も楽しい。


「うーん、これは絶品ですなぁ」

「お褒めにあずかり光栄です」


にこやかに一礼する黄桜に、白月は当初の緊張もほぐれたのか少しだけ眉をひそめた。


「ところで、世界が歪む感覚って?」

「嗚呼、そうでしたね。もうお気づきかと思いますが、、ということです。

 理由は不明ですが、境界線が一瞬交わった、その結果でしょう」

「……よくわからん」


小首を傾げる白月に、黄桜は微笑んだ。些細な仕草も、兎角幼子のように見えて仕方ないのだ。


「まぁまぁシロちゃん、そんなことは置いといてこのクッキー絶品だにょ」

「お前クッキー大好きだもんな」

「自分で作るくらいには好きだのー」


言いつつ、軽い手触りのメレンゲクッキーを口に放り込む。サクッとした表面とは対照的に、口に入れた瞬間広がる甘味と、焙煎したような香ばしさ。細長く刻まれ、炒られたアーモンドが混ぜ込んであり、これまた食感の違いが楽しい。

ご満悦とばかりにマスターは笑顔を絶やさない。皿に乗っているクッキーを次々と口に放り込み、咀嚼する動作が止められないようだ。


「まぁ、そんなに心配なさらなくても貴方がたの世界へちゃんと送り届けますよ。

 ご安心ください」


追加のクッキーを出したほうがいいだろうか、と考えつつ黄桜は笑んだ。自分が作ったものをこれほどまでに喜んで食べてもらえる事実は、なかなかに楽しいものだ。滅多に客はこない店だし、来たとしても一風変わった客とも呼べない客だから。


「帰れる?」

「ええ、もちろんです。此処に居たいとおっしゃるならば強制はしませんが、なにやら用事がおありのようですので」


黄桜の言葉に白月は思いっきり頷いた。


「俺、ラオシャンロン狩りに行くつもりだったんです。だからこいつを連れていこうとしてたら、逆に引っ張られちゃって」

「シロちゃんそんな怒らんといてー」

「……ラオシャンロン……?」


初耳とばかりに軽く首を傾げた黄桜に、白月はズボンのポケットから小ぶりの情報端末を取り出す。指先で画面を操作して、目的のものを見つけたのか黄桜に画面を向ける。


「これがラオシャンロン。別名老山龍って言って、ものすごいでかい竜ですね」

「……ほぅ……!」


黄桜は感嘆の声を上げた。それなりに長く生きていたが、初めて見るものにはやはり心が躍る。

やや赤みを帯びた外殻と、威風堂々とした巨体。鋭い爪と、牙。外殻は外に向かうにつれやや黒みを帯び、その硬さを容易に想像できるほど重厚だ。


「この竜を、貴方がたは狩るのですか?」

「一応それなりの装備と武器で、あと狩場ってのが決まっててラオはシュレイド城限定だったよな」

「一応ラオの通り道になってるからにょ、定期的にラオ狩りがクエストで出るんだほ」


最後のひとつを口に放り込み、マスターが補足する。気付けば皿は空になっていた。


「あ!お前俺の分まで食ったろ?!」

「いやぁ、ついつい手が止まらなくてのー、すまんちょ」


食って掛かる白月に、黄桜は今度こそ苦笑した。襟元をつかんでがくがくと揺らしながら涙目になっている白月は、どう見ても八つ当たりする幼子そのもので、なんというか、愛らしさがにじみ出ているように思える。

がくがくと頭を揺らされながらも、マスターは笑顔を崩さない。こういう仕打ちも慣れっこのようだ。白月の罵声の合間に、ぐぅ、と鈍い音が響いた。

その音は紛れもなく白月の腹から聞こえてきた。それを自覚したのか、白月の顔に朱が走る。


「クッキーの追加と、……何か作りましょうか。白月さんはなにか食べたいものがおありですか?」


なだめるように優しく、ゆっくりと問う黄桜に、羞恥で顔を伏せたままの白月が答える。うつむきながらも少しだけ見上げてくる大きな瞳。


「……しょうがやき、好き、です……」


消え入りそうなほど小さな声に、黄桜は笑顔で応える。と、マスターは何かを思いついたようにぽん、と手を打った。


「そうだ、良かったらワシに作り方を教えてくださらんか。向こうに戻って作れるように覚えておきたいんでさ」

「構いませんよ、私のレシピで良ければ」


にこやかに答えつつ、黄桜がキッチンへ促す。ありがたいでさ、と言いつつ立ち上がり、マスターは黄桜に続いた。











生姜の皮を剥いて擦り下ろす。擦り下ろす際に残ったヒゲは細かく刻んでおく。酒、醤油、みりんを適量ボウルに入れ、下ろした生姜と混ぜておく。

冷蔵庫から豚肉の薄切りを取り出して赤身と脂身の間に切れ目を入れる。研ぎ澄まされた包丁は何の抵抗もなく、す、す、と切れ目を入れていく。


「いやぁ、惚れ惚れする手際ですなぁ」


手放しに賞賛するマスターに、黄桜は照れたように苦笑した。


「下手の横好きですよ、それほど手間のいるメニューでもありませんしね」


謙遜しつつも、その手は止まらない。流れるように豚肉の下処理を終え、一旦バットに移す。包丁と俎板を洗って、キャベツと玉ねぎをリズムよく切っていく。

タンタンタン、という規則的な音に合わせて、キャベツの千切りが出来上がっていく。ふわりと仕上がったそれを皿に盛りつけ、玉ねぎは薄切りに。

棚から平鍋を取り出し火にかける。と、その平鍋がふつうのフライパンと違っていることにマスターは気付いた。


「珍しいものですな、これは?」


まじまじと見つめているマスターに、黄桜は笑んだ。


「スキレットと言いましてね、鋳鉄製の平鍋になります。所謂鉄鍋のひとつで、均等に熱が伝わるのでいろいろな料理に使えますよ」


説明しつつ、下処理しておいた豚肉に片栗粉をまぶしていく。余分な粉をはたいて、平鍋に乗せていく。油をひいていないが大丈夫だろうか、と心配そうに見つめるマスターだったが、気に留めることなく黄桜は作業の手を止めない。

油が跳ねる軽い音と、肉の焼けていく甘さを感じる香り。肉の色が変わったところで、薄切りにしておいた玉ねぎを加える。ジャァ、という音と同時にまた香りが変わる。菜箸で炒めながら、返す動作も流れるように滑らかだ。


「そうだ、良かったらどうぞ」


黄桜が不意に手を止めて戸棚からグラスを取り出し、マスターに差し出す。小首を傾げたマスターに笑んだままグラスの上に黄桜が手をかざす。と、ぽとん、という水音と同時にグラスが赤い液体で満たされる。

とろりとした粘性のある、深紅の液体。独特の鉄のにおい。


「……貴方が求めるものはかと思いましたが……余計なお世話でしたかねぇ?」


苦笑にも似た笑みを浮かべている黄桜を見返すマスターの瞳は、赤く染まっている。驚いたように見開かれたそれが、じわじわと笑みの形になる。


「ふ、ふふ、」


口唇から漏れた笑みが大笑に変わるのに、時間はかからなかった。ひとしきり笑ったあと、マスターはゆっくりとグラスに口唇をつける。紅い、赤い液体がマスターの口に吸い込まれていく。甘い、甘い液体を口に含んで飲み込む。

最近口にしていなかったせいか、余計に甘く感じる。

気付けば、黄桜は調理を終えて既に盛り付けの段階に移っていた。生姜と醤油のまじりあった食欲をそそる香り。

ほこほこと湯気を立てる炊き立ての白飯をふわりと茶碗に盛り付け、黄桜がマスターの方へ振り返る。


「さ、出来ましたよ。……お気に召すと、良いのですが」





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