悟:等価交換のための第一歩


優雅な仕草で一礼した彼女に、マスターは思わず息を飲んだ。ただ、一礼しただけなのに。結い上げられた髪がこぼれて、後れ毛が白いうなじに流れている。ただ、それだけなのに。

例えようもなく甘く蕩ける毒を流し込まれたような錯覚に陥る。ぐらり、眩暈に似た感覚を自覚して、静かに自分を叱咤する。


「やや、これはご丁寧に。ワシは.Master59でさ。マスターと呼んでくだされ」


マスターの声に、魔女の王は莞爾と笑んだ。大輪の華が咲き開くような笑みだ。

その笑みにまた激情を刺激されるのを自覚するが、努めて平静を装う。


「陛下、マスターさんも、立ち話もなんですから椅子におかけになられては?」


とてもナイスなタイミングで黄桜が助け舟を出す。カウンターと同じ飴色のテーブルにコーヒーをサーブしながら、黄桜はやわらかく笑んだ。


『そうですね、黄桜さんありがとうございます』

「いえいえ」


黄桜が軽く椅子を引いて促すと、彼女はゆったりとした動作で椅子に腰かける。ふと気づいたようにマスターに視線を移動させると、ゆるりと手を動かして対面の椅子に座るように促した。

些細な仕草でさえ夢のなかにいるようだ。足元がやわらかく感じる。地に足がついていない、そんなかんじ。

促されるまま、椅子に座る。と、手を伸ばせば触れられるほど近くに神秘的な紫色の瞳。白い頬と、その頬に零れ落ちている艶やかな黒髪。


『……今回此処に来たのは、挨拶のためだけではありません』

「まぁ、そうでしょうな」

『貴方がたの能力のことです』


軽く伏せられていた瞳が、まっすぐに見据えてくる。どきり、鼓動が跳ねるのを自覚する。


「ワシらの能力?」

『ええ、貴方がたは【契約できる】能力を持たれていますよね?』


やわらかい口調と、声だ。しかし、その内側に秘められているものは厳しい。責めているわけではないのだろうが、内包された冷たさに背筋に冷たいものが奔る。


『世界には当然、秩序というものがあります。理とも言いますね』

「ふむ……?」


ゆるりと彼女はテーブルに肘をついてそのしなやかな繊手を頬に当てた。


『何事もバランスが必要なのです。貴方がたはそのバランスを崩しかねない』


薄く苦笑を浮かべる彼女に、マスターは困ったように頬を掻いた。


「陛下、そのような言い方ではお客人を責めているように聞こえますよ。

 あと、コーヒーが冷めます」


黄桜がまたしても絶妙なタイミングで助け舟を出す。ふわりと香ってきたバターの甘い香りに視線を落とすと、白い陶器に数枚のサブレが乗っている。


「厳しい顔を付き合わせて難しい話も大切でしょうが、ここは私に免じてもう少し言葉を尽くしていただけませんか」


魔女の王は皿に乗ったサブレに手を伸ばし、口に運ぶ。さく、というやや硬めの生地は口にするとほろほろと崩れる。和三盆を入れたのだろうか、甘すぎない絶妙な味だ。周囲にまぶされた小さな岩塩の粒が、塩気と甘味の絶妙なバランスを際立たせている。


魔女の王はコーヒーを一口飲むと、軽く嘆息した。


『こうやっておしゃべりをする機会が少ないもので、わたくしは言葉を選ぶのが下手なようです。……もし、不快に感じたら遠慮なく言ってください』


困ったように笑う彼女は、先程までの冷たさを微塵も感じさせない。どこか幼さを感じさせるような無垢な笑顔に、マスターは無意識に入れていた肩の力を抜いた。


「やや、不快なぞありませんぞ。ワシらこそなにやらご迷惑をかけているようなので」

「迷惑というわけではないんですよ、ねぇ陛下」


黄桜の言葉に、彼女は緩く頷く。


『迷惑ではありません、ただ、貴方がたの能力を此処で使っていただくと、少々困るのです』

「困る、とは?」


マスターの問いに彼女は言葉を選ぶように少しだけ中空を見上げた。紫色の瞳がゆらゆらと揺れている。


『世界は元々単独で他の世界の影響を受けません。貴方がたが元々居た世界がそうであるように、外界からの影響は良いものとは限らないのです。

 極端な話、貴方が例えばわたくしと【契約】したとしましょう。

 それは当然、世界を破滅させる可能性があります。勿論、貴方がたも』


言われた言葉の意味が、わかるようで解らない。眉根を寄せ、腕を組み彼女の言葉を反芻し噛み砕いて考える。……が、やはりよく解らなかった。


「ええと、つまりどういうことで?」

「つまり、貴方がたの能力を使って【契約】した場合、どのような影響があるか予想が難しいということです。

 そして、【契約】したとして貴方がたが何を代償とするか、ですね」


黄桜の補足に、なんとなく解ったような気がした。


「つまり、元の世界に早く帰れということですかの?」


世界にとって欠けた因子を補充しバランスを整える場合はそれが一番手っ取り早い方法だろう。現に黄桜は「ちゃんと元の世界に還す」と明言した。ならば、「還してもらうために何かを支払うべき」だろうか。


『在るべきところに在るべきものがないというのは非常に不安定です。

 貴方がたが此処に居たいとおっしゃるならば、その行動に見合う何かを差し出さなければなりません。

 それが、この世界の理です』




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