肆:邂逅
執事の提案に、魔女の王は少しだけ驚いたようだった。形の良い紫色の瞳が、少しだけ見開かれる。
「世界を構築する因子のひとつが欠落すれば、いずれ破綻してしまいます。そうなる前に戻す必要がありますし、なんなら海に《沈め》てしまってもいい。
どちらにせよ、Ladyご自身の眼で見極める必要があるかと」
有能な執事は、澱みなく言葉を紡ぐ。この執事にとっては己の主だけがすべての行動の指針だ。彼女の為にならないと判断すれば、例え鬼桜にだって刃を向けるだろう。折り目正しい言動だが、それほどまでの苛烈さを秘めている。そうしてしまったのは、彼を創り出した時に自分の因子が多少なりと入ってしまったことに由来するのだろうか。そんなことを考えて、黄桜は少しだけ苦笑した。しかし、カップを傾ける仕草でその表情は彼女らに見えない。
魔女の王は軽く目を伏せて思案するようにそのしなやかな指を頬に当てた。桜色の形良い爪がほんのりと光を反射している。指先がつい、と動いて口唇をなぞる。無意識の仕草なのだろうが、扇情的なその仕草に、黄桜は平静を装ってカップをソーサーに戻す。
『……そうですね、色々と確認しないと次の手が打てませんね』
軽く吐かれた嘆息と同時に、伏せられていた瞳がまっすぐに黄桜に向けられる。今度こそ腰のあたりからぞくぞくと全身に奔る寒気にも似た激情を黄桜は自覚した。が、そのことを表情にも出さずに彼は微笑する。
「では、一度店に戻りましょうか。お客様はまだ食事を楽しまれているでしょうし、ゆっくり参りましょう」
静かに席を立ち、手を差し出す。その手に嫋やかな白い手が乗せられる。エスコートされるのに慣れている動きだ。ふわり、彼女のイブニングドレスが揺れる。乗せられた手から淡い光が彼女の肢体を這っていく。そしてその光が消えた時、彼女が纏っていたドレスは一変していた。
黄桜の黒い着流しと対になるような白い単衣。淡い薄紅色の花が染め抜かれていて彼女にとてもよく似合っている。長く艶やかな黒髪は緩く結い上げられている。執事が結い髪に簪を挿した。チリカンと呼ばれる簪だ。桜を象ったモチーフがチリチリとかすかな音を立てて揺れている。
魔女の王は艶然と微笑み、黄桜を見つめた。
『参りましょうか、黄桜さん』
ゆったりと紡がれた声、やわらかな口調、細められた両眼、浮かべられた微笑。
その何もかもが例えようもなく美しく、黄桜は自然と頭を垂れていた。
「ええ、魔女王陛下」
†
「なぁなぁシロちゃん一口おくれ」
「やだ!俺のだ!」
座卓を挟んで言い合いをしていたマスターと白月は、その口論に気を取られていた。なので、気付かなかった。少し、ほんの少しだけ空間の雰囲気が変わったことに。やわらかく、穏やかな空気は変わっていない。しかし、ほんの少しだけなにかが変わった。それに気付かなかったのは或いは幸運だったのかもしれない。
「いいじゃんいいじゃん、ワシも味見したい」
「だめだ!俺の!全部俺が食べる!」
手を伸ばそうとしたマスターをじろりとにらみ、手が届かないように皿を近くに引き寄せる。
「シロちゃんのケチー」
「お前がクッキー全部くれたら一口やってもいい」
「ええ……」
「お前さっき全部ひとりで食っただろうが」
そんな会話をしつつ、白月はタレが絡んだ豚肉をかじる。何度口に運んでも飽きない、醤油と生姜の程よいバランス。ほっぺたの内側がきゅぅ、となった気がして、思わず手で押さえる。ほっぺが落ちそう、とはこのことだろうか。元々大好物だが、店主の腕がいいのかはたまた素材がいいのか、これほどまでに絶品な生姜焼きを初めて食べた。
先程までの怒号はどこへやら、顔が緩んでいるのを自覚する。つやつやの白米を口に運び、米の甘味に感動。そしてそれを追いかけるようにして豚汁を啜る。味噌と豚の甘味がたまらない。
特別なものは使っていない、どこにでもあるメニューだが、手が止まらなくなる。
そんな白月の様子をにやにやと笑いながら見つつ、マスターはクッキーを口に放り込んだ。ベリーの甘酸っぱい香りが鼻に抜ける。しっとりとした口当たりとほろほろと崩れていく柔らかさに、マスターの表情が緩む。
「いやはや絶品絶品、善哉善哉」
古めかしい口調でカラカラと笑うマスターが、瞬間表情を鋭くしたのに白月は気付かなかった。極々自然な動作でゆっくりと立ち上がる。
「ん?」
「んにゃ、なんでもないにょ、ちょっとトイレ」
「はよ行ってこい」
あきれ顔の白月に笑顔で返しながら座敷から廊下へ出ると、花のような甘い香り。甘ったるいわけではなく、ほんのりとしたどこか懐かしいような、けれど惑わされてしまうような、危険な香りだ。ポケットに手を入れ、指先に触れる冷たい感触に安堵。武器がなくともやろうと思えば攻撃できる。が、できることなら戦闘はしたくない。
暖簾を手で避け、店内を覗く。飴色のカウンター、やわらかい曲線を描く椅子。店内に満ちているのはほのかな甘みを感じる重厚なコーヒーの香り。
「おや、お食事は終わりましたか?」
カウンターの内側で店主がコーヒーを淹れている。彼が動く度にコーヒーの香ばしい香りが店内に満ちていく。マスターは黄桜の言葉に応えない。カウンターの椅子に腰を下ろし、静かに微笑を浮かべている人物の横顔から視線を動かせない。
やや伏せられた瞳が長い睫毛で彩られている。白い頬と黒く艶やかな髪の鮮やかなコントラストがはっとする程美しい。マスターの視線に気づいたのか、彼女はゆっくりと此方に視線を向ける。目が合う。吸い込まれそうな紫色の瞳。ぐらり、眩暈のような感覚。形の良い口唇が微笑の形を取る。
『はじめまして』
少しだけ低い、艶のある声がマスターの鼓膜を揺らしそれが脳に伝達されて初めて、彼は呼吸を忘れていたことを自覚した。どくどく、鼓動が耳の奥で鳴っている。努めてそれを表面に出さずに、マスターは笑顔を作った。
「はじめまして、ですな。いやはやなんともお美しい」
頭を掻く仕草で動揺を隠し、苦笑する。幻想郷には顔立ちの整った少女たちがたくさんいる。相方の白月だって男性とは思えない程華奢でかわいらしい顔立ちだ。けれど、彼女の存在は今まで逢った女性の中でも極めて異質だ。惹き込まれてしまう、魅惑されてしまう、何もかもを差し出して手に入れたくなる、そんな危険な衝動に駆られそうになる。
彼女はゆったりとした動きで席から立ち上がり、優雅に一礼した。
『わたくしは、魔女の王と呼ばれています。黄桜さんのところにお客様がいらっしゃったと訊いて、ご挨拶に参りました』
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