重:桜の下には鬼が居る
ふ、と意識が浮上する。見慣れない和室の天井が見えて、思わず身体が飛び起きる。眠ってしまっていたのか。まだはっきりしない意識を、頭を振ってどうにかしようとする。
なにか、夢を見ていた気がする。甘くて、やさしくて、そして何故か哀しい夢だったような。
けれどその夢の面影を思い出そうとするとかすんでいってしまう。伸ばした手の先にはなにもない。
「……シロちゃん、」
マスターはあることに思い立って周囲を見回した。そうだ、そういえばラオシャンロンを狩りに行こうとしていた途中だった。変な感じがして、その原因を知りたくて路地裏に入って、それから。
それから?確か、黄色い桜が咲く場所に出た。そこで、なんとなく親近感が沸く店主に逢って、そして、クッキーを、ごちそうになって、それで?
思考を巡らせながら、座卓の向こう側に小さな肢体を見つけ、ほ、と安堵。何故か少しだけ重く感じる身体を持ち上げ横たわったままの白月に近寄り、マスターは少しだけ息を飲んだ。
白い頬に幾つも幾つも透明な雫が流れては零れ落ちていく。細い眉はきつく寄せられ、小さな口唇は噛み締められている。
「……く、」
押し殺しきれなかった嗚咽が、白月の口唇から漏れる。
「なんで泣いてんのシロちゃん」
「……うっせ、……っ、……なんか、わ、わかんないけど、す、すげぇ哀し、……っ」
そんな涙をたっぷり浮かべた大きな瞳でにらまれても、全く、全然、ちっとも迫力がない。
「おお怖い怖い、」
茶化すように言いつつ、マスターは内心かなり驚いていた。白月はその繊細な外見に見合って内面も繊細だが、こうも涙を無防備に流すことは珍しい。男だから泣いてはいけない、という意識がどこかにあるのかもしれない。ずず、と鼻をすする音に苦笑し、ポケットからハンカチを取り出して投げてやる。
「ん、」
遠慮なく涙をぬぐい、鼻を噛む白月にマスターは少しだけ安心した。動揺していなかったと言ったら嘘になる。なにかが心に引っかかったような気がして、なんだろう、と記憶を探ってみるが思い当たるようなことがないことに気付き、疲れているのかな、と自嘲する。
「おや、お目覚めになられましたか」
穏やかな声が不意に降ってきた。視線を声に向けると黒い着流しに白い前掛けをかけた黄桜の姿が見えた。
「やや、これは失礼、眠ってしまっていたようですの」
「いえいえ、お疲れだったようなので声をかけなかっただけですよ」
手にしていた盆を座卓に乗せ、黄桜はゆるやかに笑んだ。白月はゆるゆると起き上がると、泣いていたことを気付かれないように目元を強くこすった。
「こちらをどうぞ」
差し出されたのは冷たく冷やしたおしぼりだった。
「目元をあまりこすると腫れますからね、どうぞお気になさらず」
柔らかく言われるのに白月は頷いて、ありがたくおしぼりを目元に乗せて使わせてもらう。嗚呼、冷たい。気持ちい。
「マスターさんには、こちらを」
渡されたのは古めかしい鍵だった。持ち手のところには桜が彫り込まれている。
「これは?」
手に取ると少しだけひんやりとしている。が、つるりとなめらかな表面がとても触り心地が良い。
「せっかくのお客様ですからね、もし貴方がたが此処に来たいと思われる時に使ってくだされば宜しいかと」
「ふむ……、具体的にどう使えば宜しいので?」
やや大振りな形をしているためか、どう見てもふつうの鍵穴には収まらないだろう。
黄桜は少しだけ苦笑し、手を差し出す。その手に鍵を戻し、マスターは黄桜の次の行動を待った。
黄桜は鍵を手にすると立ち上がり、障子を閉めた。その障子に鍵をとん、と当てる。と。
ぐにゃり、と障子が歪んだ。渦を巻くように歪んだそれが中心にぽっかりと穴を空けた。穴の先には、見慣れた空の色、遠く何処までも広がっていく深い森、そして、龍識船と呼ばれる気球群。
あ、とおもった次の瞬間に、その穴は輪郭をぼやけさせて消えてしまう。
「このようなかんじで使っていただければ」
「なるほど、」
鍵はひとつの形に過ぎないということだろう。再び黄桜が差し出した鍵を、マスターはまじまじと見つめる。桜の彫刻がされているだけの、いたってふつうの鍵にしか見えない。
「さて、そろそろお戻りになられますか?」
「そうですな、たくさんもてなしていただいて、こちらがあまり返せるものがなくて申し訳ないですにょ」
「いえいえ、あちら側で教えていただくことがたくさんあるでしょうから、お互い様ですよ」
相方がそんな会話をしているのをなんともなしに聞きながら、白月はすこしだけ息を吐いた。長い付き合いのある相方だが、今回巻き込まれたトラブルは果たして良かったのだろうか。……良かった、ような気もする。いや、確かに良かったことばかりだった。美味しい桃ジュースや大好物の豚の生姜焼き。美味しいものをたくさん食べさせてもらった。
……けれど、ただそれだけじゃなかったような気もする。
ちくり、胸が痛んだような気がして押さえるけれど、もちろんそこには疵なんてなかった。
「シロちゃん、そろそろお暇しますぜな」
「嗚呼、お世話になりました」
立ち上がり、礼儀正しく頭を下げる。黄桜は穏やかな笑みを崩さず、いえいえ、と手を振った。
「さぁ、参りましょう」
促され店の外に出ると黄色い桜が咲き誇っている。黄金色にも似た花弁がひらりゆらりと舞っていた。桜の下には鬼がいる、そう言ったのは誰だっただろうか。ぼんやりとそんなことを考えた。
(そうして彼らは日常へ戻る)
黄桜亭の非日常 夜の魔女 @crimeroses
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