黄桜亭の非日常

夜の魔女

序:黄色い桜


それは偶然だった。絶え間なく揺らいでいるが、何かの拍子にぐらりと歪み、さざめいた。そのさざめきはひどく幽かでわずかなものだったが、その上に根を張るものには些少とは言えないほどの影響があった。が、しかしそれに気付いたものがどのくらいいただろうか。

世界は表面上なにも変わっていないように見えたし、そこで暮らす様々な生命も何一つ変わりなく、ただその輪廻を繰り返しているようにも見えた。


「……おや、」


何かに気付いたように仕込みの手を止めて、黄桜は視線を上げた。当然、彼の瞳にはいつもの店内が見えている。飴色のカウンター、緩やかな曲線を描く客席の脚、埃ひとつ落ちていない床。

どう見てもいつもの店内だが、わずかな、ほんのわずかな違和を感じる。


「ふぅむ、」


前掛けで手を拭きつつカウンターから出て、もう一度店内を確認。やはり何も変わっていないことを実感して、軽く首を傾げながら店の入り口である引き戸を開ける。カラカラ、と軽い音を立てて開くと、大輪の桜が見える。房のように見えるそれは、黄金にも似た黄色の桜。はらはらと花弁を散らせ、それでもなお咲き誇っている。

常ならば緩やかな丘になっているそこには誰もいないはずだ。が、重さに耐えきれず垂れ下がっているような花弁を指先で遊ぶ人物が居た。


「なんとも珍しい、黄色い桜とは、初めて見たぜな」

「そんなことより俺は早く帰りたい」

「ほれほれ白の字、そんなに縮こまってないで見てみなって」


黄桜よりは小さいがそれでもすらりとした長身の人影と、その腰のあたりにもうひとつの人影。二つの影は、対照的なほど印象が違った。

黒く艶やかな髪と、うっすらと青みがかかった透き通るような髪。引き締まった筋肉と、華奢な腕。正反対の印象を与える人物がそれぞれ黄色い桜の下で談笑している。

一瞬、声をかけようか迷った黄桜だったが、予想もしていない客が来たからといって拒む理由にはならない。


「こんにちは、珍しいお客様ですね」


努めてやわらかく、優しく声を発したが、小さい方の人物は飛び上がるように驚いて、もう一人の人物の後ろに隠れてしまった。怖がらせたのだろうか、腰のあたりにしがみついて顔も上げない。一方、しがみつかれた方は極めてにこやかに振り返った。しがみつかれていることなど慣れているかのようにその動作は自然だった。


「これは失礼失礼、ついつい見惚れてしまってましたぜ」

「お気に召したようで何よりです。私はそこで小料理屋をしている黄桜と申します。……失礼ですが貴方がたは……?」

「ワシは.master59(ドットマスターファイブナイン)、面倒なのでマスターって呼んでくだされ。

 んで、こっちの隠れてるちんまいのが白月でさ」


マスターと名乗った人物が、白月と呼んだ人物の頭にぽん、と手を乗せる。びく、と身体をこわばらせるが、それでも顔を上げないのに黄桜は苦笑した。

ゆっくりと近づき、かがみこんで視線の位置を近くする。


「はじめまして、黄桜と申します。せっかく此処に来られたのも何かの縁。

 よろしければ私の店で少し休んでいかれてはいかがでしょう」


柔和な笑みとやわらかい、やさしい声に少しだけ緊張が解けたのか、そろそろと顔を上げると小さく頷く。幼子を相手にしているような錯覚に、黄桜は笑んだ。さ、どうぞ、と促しながら店の方へ戻る。歩く道すがら背後の気配に意識を向けてみる。

人間の形をしているが、。しかし、害意や敵意は感じない。おそらく先程の波にさらわれてしまったか、偶然波長が合って世界の隙間をみつけてしまったか、それとも混沌の海へ沈む途中か、まぁいずれかだろう。どちらにせよ客には違いない。滅多に客も訪れないこの世界だ、歓待することが嫌いなわけでもない。それに、違う世界から来た客人にその世界のことを聞くのも楽しみがあっていい。

食材の在庫を思い出しながら黄桜は入り口の引き戸を開け、客人を招き入れた。











「いやぁ、これはまた、なかなか風情があってよろしきかな」


庭が一望できる縁側のついた和室。掘り炬燵になっている座卓。畳の青い香りが一層心地よい。まるで故郷に戻ってきたかのような錯覚を覚えるほどの安堵感だ。

さらさらと水の流れる音に目をやると、庭に小川が流れていた。その水面に黄色い桜の花弁がひらひらと舞い落ちている。招かれた奥座敷は、洋風だった入り口近くのフロアとは全く印象が違っていた。馴染み深い、穏やかでやさしい時間が流れていくのを実感する。


「果物がちょうどあったのでソーダ割にしてみました。甘味が足りなければこちらのシロップを足してくださいね」


かろん、という氷の音と同時に、グラスが目の前にサーブされる。大振りの氷が浮いているが、ほんのりとした黄色みを帯びた色と、甘く、さわやかな香り。

口をつけるととろりとした濃厚な桃の香りと、芳醇な甘さ。そして、それを際立たせる弾ける炭酸の刺激。


「おお、これは……うまい!

 シロちゃんちょっとこれ飲んでみ、超絶んまし!」


手放しに絶賛し、ホレホレと相方に勧める姿は酔っ払いのそれを彷彿とさせるが、シロちゃんと呼ばれた小柄な人物はいつものことなのだろうか嫌がりもせず目の前のグラスを手に取り、口をつける。口に含み、こくん、と喉が上下する。と、ただでさえ大きな瞳が驚きと感動で見開かれる。


「うまい……」


感動したようにこぼれた言葉に、黄桜はにっこりとその笑みを深くした。


「完熟の桃を絞ったものとつぶしたものを混ぜて炭酸で割ったものですが、お気に召していただけたようでなによりですね」


黄桜の説明が聞こえているのかいないのか、白月は夢中になって飲んでいる。当然、あっという間にグラスは空になった。


「お代わりもありますよ、ご遠慮なく」


空のグラスをしょんぼりと見ていた白月の表情が、ぱあぁ、と明るくなり、大きく頷いた。それをまさしくにやけた表情で見ていたマスターが、次の瞬間眉根を寄せた。掘り炬燵の下で強かに泣き所を蹴られたようだ。

無言で悶絶するマスターの姿に、苦笑を浮かべつつ新しい飲み物を準備するために鬼桜は下がった。手際よくお代わりを準備しながら、ふとずいぶん昔のことを思い出した。


「……嗚呼、懐かしいと思うくらいには昔のことでした」


浮かべる笑みには自嘲の色がにじんでいる。頃、気の置けない友人たちに囲まれていた。他愛無いことで笑い合い、酒を酌み交わし、遠慮なく生の言葉をぶつけ合った。仲間という言葉では足りない間柄だった、友人たち。

多少胸が痛んだような気もしたが、飲み物のお代わりとお茶請けにと皿に盛ったクッキーを盆に載せたあたりで既に鬼桜の意識からは消えていた。

ひらひらと、黄色い桜が咲き誇っていた。








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