質:驚天動地


『…………………』


魔女の王は沈黙を保っていた。黄桜の非礼など全く意に介していないような、穏やかな表情だ。ゆるりとした動作で立ち上がると、マスターの腰元に抱き着いたままの白月にゆっくりと近づき、そのまましゃがみこんだ。


『わたくしは、魔女の王と呼ばれています。

 貴方に危害を加える気は一切ありません。

 マスターさんにも、です。……驚かせてしまって、ごめんなさい』


やわらかく、やさしい、ゆっくりとした口調で彼女が白月に話しかける。しかし、白月は顔を上げる気配がない。薄い色素の細い髪から、真っ赤になった耳が覗いている。


「ほれほれシロちゃん、ご挨拶しなきゃ失礼だぜな~」


腰にまとわりつく白月の腕を力ずくで引きはがして、マスターは満面の笑みを浮かべる。嫌な予感が白月の全身を更に強張らせる。細く小さな腕を握って、ぐるん、と半回転。

嫌な予感というものは確実に的中するものだ。それが、嫌なものであればあるほど、的中する確率が上がる。


咄嗟に逃げようとするが、両肩をがっしりと力強く握られ、抑えられている。動けない。

視界の下側に、白い肌の女性がいる。ちょっと手を伸ばせば触れられるほどの距離で。最後の抵抗として顔を伏せているけれど、しゃがんでいる彼女の膝や、そこに添えられている白い手を見るとどうしようもなくなる。その細さ、白さ、嫋やかさ、女性特有の滑らかな曲線、目に入るなにもかもが思考を乱す。


「あ、ぅ、う、」


無意識に口唇から声が漏れる。額から頬にかけて汗が流れ、手が震える。見えていた白い繊手がゆっくりと持ち上がり、握りしめた自分の手にそぅ、と触れる。労わるような、慈しむようなやさしい触れ方だった。


『怖がらせるつもりはありませんでした。……おゆるしくださいね』


少しだけ低い、やわらかい声音。触れられている手も、やわらかい。なにか、なにかこたえないと。そうおもうけれど口唇は言うことをきいてくれない。応えない白月に苦笑を浮かべたのが気配で解る。呆れられたのだろうか、嫌われただろうか、思考だけがとめどなく脳内を駆け巡る。喉の奥から声を絞り出そうとしたけれど、結局出てきたのは吐息に近いような声にならない声。

触れられた時と同じように白い手がゆっくりと離れていくのが、ものすごくさびしく思えた。触られるのが不快ではなかった。


その様子を一方はにやにやと、片やもう一方はにっこりと眺めていたマスターと黄桜だったが、ほぼ同時のタイミングで同じ方向に顔を向けた。店の入り口側、開き戸の向こう側。見える光景は全く変化がない。少し遅れて魔女の王が悠然と立ち上がる。


『……これも波の影響でしょうか』

「おそらくは。陛下、下がって」


ください、という黄桜の声は轟音によってかき消された。びりびりと硝子が振動し、その振動に耐えられなくなったものから破砕音を立てて砕け散っていく。思わず、マスターと白月は両手で耳を押さえた。ある意味耳慣れた咆哮だ。しかし、違和感があった。あれは、生息地域が限定されているはず。こんなところにいていいモノではないはず。

瞬間よぎった思考が、反応を数瞬遅らせた。


さりげなく前に出た魔女の王を止めようとしたが、間髪入れず響き渡った轟音に咄嗟にまた耳を押さえてしまいそれは叶わなかった。魔女の王は轟音なぞ耳に入ってないかのようにゆるやかな動きで入り口の方へと歩んでいく。


咆哮が止んだと同時に、全身を突き刺す冷気。絶対零度を思わせる冷たさが、足元から這い上がってくる。本能的に身体を縮め、両腕で体幹を抱きしめる。吐き出す息も白い。

びきびきと音を立てて開き戸と言わず床と言わず壁と言わず凍っていく。凍り付きながらその熱量の変化に耐えきれなくなったかのように鈍い音を立てて崩れていく光景が、何故かひどく現実味がない。夢を見ているような心地だ。


割れた氷のその先に、鈍く白銀に輝く重厚な鱗が見える。丘よりも大きな前脚だ。ドリル状の爪とどっしりとした指が、まるで中空を掻くように動いている。その先にささくれのようにも見える鋸刃にも似た鱗がいくつもいくつも連なっていた。特徴的な下顎はスコップのように平たく、けれど鋭い。


「ウカム……!?」


白月の口唇がようやく動く。ある意味見慣れた巨躯だ。相方と何度も何度も狩りに行ったことがある。けれど、ウカムルバスは極圏でのみ生息が観測されていたはずだ。まさしく想定の範囲外の出来事に、思考が鈍る。

ウカムルバスが息を吸い、背中をのけぞらせる。圧縮した氷を吐き出すレーザーのようなブレスだ。気付くのと同時に、身体が動いた。魔女の王は自分たちよりもウカムルバスに近い場所にいる。ほぼ同じタイミングでマスターも床を蹴っていた。距離にして5mもない。1、2秒あれば届く距離。


ウカムルバスが大きく口を開いた、その瞬間。





柔らかな、けれど有無を言わせぬ強い声が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る