第37話 人生を豊かに楽しみましょう

 一週間前に、ここで俺たちは『かもめ』を上演した。市民文化祭は終了し、今日、閉会式が行われていた。悲しいことに、俺たちの芝居よりホールには人が入っていた。

 それだけで、落ちこんでしまう。

「もうじきだね」

 隣に座っている晴美が俺に囁いた。

「おう」

「どう、自信のほどは」

「ある」

 俺は首をすくめ、いった。心臓が締めつけられた。ある、といったくせに身体は正直だ。

「そう、わたしたちは勝つ」

 晴美はいった。

「晴美さん、すごい」

 麗奈が晴美を見つめる。

「どこがすごいの。演出家が勝てる、といったなら、わたしたちは信じるのみ」

「絶対晴美さん、いいお嫁さんになるなー」

 俺に向かって遠回しにいっているようだ。

「ま、年収一億でわたしが芝居するのを許してくれる人がいたら、考えてあげてもいいけどね」

 晴美が声をひそめ、いった。

「年収はおいておいて」

 俺はいった。

「あら、聞こえた?」

「俺は晴美が芝居しているときが、一番すきだよ」

 晴美が黙った。麗奈がひゃ〜、と肩をすくめた。

 音楽部門の発表が終わり、ついに演劇部門の発表が始まった。

「優秀賞は、新おため市民演劇協会の『かもめ』」

 やはりな、と俺は思った。壇上に上がった柴崎耕作が、手短に挨拶をした。

「素っ気ないもんですね」

 芳賀が憎らしげにいった。

 完敗だ。なのに苦くはなかった。清々しさしかなかった。

 終演後、ロビーで帰ろうとしている柴崎耕作に挨拶をした。

「青いね」

 一言だけいって、去っていった。滝村先生に報告すると、「あの男らしい、すかしたコメントだな」と笑った。

 滝村先生はというと、「及第点」といった。スタート地点に立った、と思った。

「まだまだ。佳作佳作……」

 芳賀が手を合わせて祈っている。いつもなら茶化すメンバーも、いまは黙っている。全員が祈りを真似しだす。

「佳作は、杉並演劇サークルの『チェーホフ短編集』」

 一位のときよりも大きな拍手が起こった。どうやら女性タレントのファンが多く会場に来ているらしい。タレントの女が、照れた顔で壇上に登り、長々と喋りだした。

「終わった」

 芳賀が拝んだ姿勢のまま呟いた。肩を震わせ、こもった泣き声がでかい身体から響いてくる。後ろの席から麗奈がハンカチを差し出す。

「終わってないよ。俺たちはこれからだ」

 俺はいった。心の底からでた言葉だというのに、誰も聞いてくれていない。これは、負け惜しみなのか?

 演技するのは楽しい。舞台に立つのは最高だ。演出家って仕事を誇りに思う。それが、俺の得たものだ。

 別に、受賞なんてしないでもいい。やるだけのことはやった。アンケートに『面白かった』と書いてくれた人がいた。『クソ演出』とも書かれた。面白くても、クソでも、ただ観てくれただけでも嬉しかった。感謝した。少しでも、心に残るものが出来たら、それでいい。

 発表は続く。もう呼ばれることもないのだし、帰ろうか、と思った。終わるまで、寝ていようと目を瞑った。しかし、神経が昂ぶっているらしく、眠ることができない。

 最後の発表だ。市長賞は……。

「お願い」

 横で晴美の声がした。何いってんだお前。市長賞は奥さんの所属サークルに決まってるんだって。みんなの顔をみることができなくて、俺は目を開くことができない。

「おため市民演劇センターの『かもめ』」

 一瞬、なにが起きたのかわからなかった。拍手がぱらぱらと会場から起きたが、誰に向けてのものなかさっぱりわからない。会場全体が困惑している。

「やばい」

 吉田の声がした。

 一瞬の沈黙。そして、ぎゃあ! という声を周囲からあがった。誰かが強く肩を揺する。俺はゆっくりと目をあける。晴美の顔が間近にあった。泣いている。鬼の目にも涙かよ。俺以外の全員が立ち上がり、大喜びしている。

「先生、やったね!」

 麗奈の声が聞えた。

「最高、マジで、最高」

 吉田の声がした。片岡さんと平嶋さんが号泣している。あまりに俺たちがはしゃぎすぎているものだから、会場にいる全員が爆笑した。

「どういうことだ?」

 俺はわけがわからなかった。

「市長夫婦、不仲なのかな……」

 芳賀が笑いながら首をかしげる。

「なんじゃそりゃ」

 俺は腰を抜かして立ち上がれずにいる。

「あるいは、うちと市民演劇協会を間違えた、とか?」

 こそこそ話している俺たちに、司会者は咳払いをし、「代表の方、壇上へどうぞ」と迷惑そうにいった。

「ほら、先生」

 晴美がいった。いままでで一番美しい顔をしている、と思った。

「もう一回、ひっぱたいてあげようか」

「大丈夫。信じろ」

 俺はいった。深呼吸をして、ゆっくりと立ち上がる。

「どうだか」

 俺は晴美の耳元で囁く。

「キスするか」

「バカ」

 晴美が俺の頬を軽くひっぱたく。

「いちゃついてないで早く!」

 麗奈がいった。振り向くと、吉田と手を繋いでいる。やっぱり付き合ってたのかよ。

 本番のときと同じ通路を俺は歩いて舞台に向かった。慎重に。

 今度は失敗しないように。

 本番のとき、俺は最初の出をとちった。


「『七三年のポルタヴァの定期市で、あの女優はすばらしい芸を見ましたっけ。ただ驚嘆の一語に尽きます! 名人芸でしたな! それから、これも次手に伺いたいですが、喜劇役者のチャージン……』」

 シャムラーエフ役の本田さんが朗々と語るのを聞きながら、客席の通路を移動しているとき、緊張していた俺は、ずっこけてしまった。本田さんのセリフが止まる。俺は頭が真っ白になった。

 前方でを歩いていた晴美が駆け寄ってきた。

「ほら、しっかり」

 といって、俺を立ち上がらせた。晴美は笑いながら、俺を平手打ちした。そして、頬にキスしたのだった。

「仕方のない人ね」

 俺が持っていたバラの花束を晴美は奪った。

「『あなたはいつも、大昔の人のことばかりお訊きになるのね。わたしが知るもんですか!』」

 シャムラーエフに向かってアルカージナが叫ぶ。

「『パーシカ・チャージン! 今じゃあんな役者はいない。舞台の下落ですな、アルカージナさん! 昔は亭々たる大木ぞろいだったものだが、今はもう切株ばかしでね』」

 セリフを飛ばされたシャムラーエフはものともせず続ける。

「『いかにも、光輝さんぜんたる名優は少なくなった。だがその代り、中どころの役者は、ずっとよくなったです』」

 舞台上のドールンが叫ぶ。

「のっけからアドリブだなんて、名優ね」

 アルカージナがいった。

 俺こと、トリゴーリンは、頷いた。


 壇上にあがり、俺は客席を見渡した。役として出るのとは別の威圧感に襲われた。座席にいる人々を眺める。市民演劇センターの面々が手を振っているのがわかった。俺は小さく手を振り返した。

「それでは、前回市長賞を受賞した、絵画サークル『おためあーと倶楽部』代表から、賞状の授与です」

 おそろしくショッキングピンクなスーツを着たおばさんが、袖からやってきた。

「おめでとうございます」

 俺はびっくりしてしまい、とにかく深々と礼をした。賞状を受け取った。

「熱が伝わってくる、いい作品でした」

 おばさん……市長夫人が囁いた。俺がただ頭を下げることしかできなかった。

 賞状をもらうのは小学校の漢字テスト以来だった。なんだか、顔がかゆくなってきた。

「それでは、一言お願いします」

 司会者が促す。俺は喉を鳴らす。音がマイクで会場全体に響く。笑いが起こった。慣れていないもので申し訳ない!

 深く地面に届きそうなくらいに、礼をした。会場にいる全員が、俺がなにをいいだすのか、注目している。俺は、自分の役目をまっとうしよう。大きく深呼吸をして、そして、いった。

「我々、おため市民演劇センターは毎週日曜日、午後一時から五時まで基礎トレーニングをしています。発声練習からはじまって、セリフを読み、自分とは違う人物を演じてみることを体験してみませんか。年に一度、市民文化祭で発表会もしています。演劇で、人生を豊かに楽しみましょう」




台詞引用

「冬物語」ウィリアム・シェイクスピア 小田島雄志訳(白水社『冬物語』)

「みごとな女」森本薫(筑摩書房『現代日本文学大系83 森本薫、木下順二、田中千禾夫、飯沢匡集』)

「紙風船」岸田國士(早川書房『岸田國士Ⅰ』)

「かもめ」チェーホフ 神西清訳(新潮社『かもめ・ワーニャ伯父さん』)




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日曜演劇家 〜干され演出家、シロート劇団を立て直します!〜 キタハラ @kitahararara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ