第36話 僕の憧れ
「先輩」
舞台袖に入ると、井上が俺に声をかけた。
「おう」
とてつもなく疲弊している。汗を衣装で拭った。まだ、始まったばかりだ。
「すごく、素敵でした」
井上がペットボトルをよこした。
「なにが」
水を飲みながら、俺は訊いた。
舞台では、ドールンとトレープレフが語り合っていた。ドールンがさきほどの舞台を絶賛している。
「先輩です」
「お前は俺がなにやっても褒めてくれるよな」
なんいいってんだか。疲れもあいまって、頬が緩んだ。
「そりゃそうですよ。僕の憧れですよ、先輩は」
俺は舞台のほうへと目を向けた。ドールンの作品評を聞いているうちに、トレープレフは気になりだす。ニーナだ。彼女はどこへいった。
そんなとき、マーシャがやってくる。
「どこらへんが憧れるポイントなんだよ」
背後で立っている井上にいった。お前より売れていない、お前より背も低い、お前より顔も悪い、なんにも井上に勝てるところなんて、ない。
マーシャが屋敷に戻ろうというのをむげにして、トレープレフはニーナの元へと駆けていった。
「『若い、若いなあ!』」
しみじみとドールンがいった。どちらかといえば、三浦さんの心からの感想のような気がした。この人は名優だ。いうことなし!
「『ほかに言いようがなくなると、みなさんおっしゃるのねーー若い、若いって……』」
マーシャがかぎタバコを取り出すと、ドールンが取り上げ、放った。
「全部です。全部ですよ。僕は、先輩になりたいんです」
井上がいった。まるで愛の告白されているみたいだ。キザなやつめ。そういうことを恥ずかしげもなくいえるところも、俺は負けている。
舞台袖の隅で、晴美が舞台に背を向けていた。俺は、見つめた。なにか、声をかけたかった。井上のように、さらりと、臭いセリフを。いまは、そんなときじゃない。俺たちは、見つめ合うんじゃない。とてつもなく遠くのものを、お互い、見ている。そして、きっと同じものを見ている。それだけで、十分だ。それが、ともに生きる、ということだ。
マーシャはドールンに、自分が抱えている秘密を告白しようとしていた。
「ありがとよ」
俺はいった。
「これからもっと俺のこと憧れさせてやるから」
自分にハッパをかけるために、いった。
「『わたし辛いんです。誰も、誰ひとり、この辛さがわかってくれないの! わたし、トレープレフを愛しています。』」
裕子は化けた。どいつもこいつも最高だ。
「『なんてみんな神経質なんだ! なんて神経質なんだ! それに、どこもかしこも恋ばかしだ。……おお、まどわしの湖よ、だ! だってこの僕に一体、何がしてあげられます、ええ? 何が? え、何が?』」
舞台が次第に暗闇に包まれる。
「行くぞ」
俺は井上にいった。舞台転換だ。
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