第35話 かもめ

「『人も、ライオンも、鷲も、雷鳥も、角を生やした鹿も、鵞鳥も、蜘蛛も、水に棲む無言の魚も、海に棲むヒトデも、人の眼に見えなかった微生物も、ーーつまりは一切の生き物、生きとし生けるものは、悲しい循環をおえて、消え失せた。……もう、何千世紀というもの、地球は一つとして生き物を乗せず、あの哀れな月だけが、むなしく灯火をともしている。いまは牧場に、寝ざめの鶴の啼く音も絶えた。』」

 作者の傲慢、頭がいいと褒めてもらいたいという品性下劣な思い。胸糞が悪くなる。こんなくだらない言葉を吐かされている目の前の少女が哀れだ。眠くなる。横にいる作者の母親が険しい顔をしている。まったくの同意見だ。

「『……わたしの中には、人間の意識が、動物の本能と溶け合っている。で、わたしは、何もかも、残らずみんな、覚えている。わたしは一つ一つの生活を、また新しく生き直している。』」

 硫黄の匂いが強く鼻につく。舞台の横で、鬼火が揺れた。誰かが驚きの声をあげた。

「なんだかデカダンじみてるね。」」

 アルカージナが俺に囁く。これがデカダン? デカダンがかわいそうだ。

「『お母さん!』」

 母の言葉を聞きつけ、どら息子が叫んだ。

「『わたしは孤独だ。百年に一度、わたしは口をあけて物を言う。そしてわたしの声は、この空虚のなかに、わびしくひびくが、誰ひとり聞く者はいない。……お前たち、青い鬼火も、聞いてはくれない。』」

 若い傲慢な感傷。聞くに耐えられない。この作者は忍耐や苦労を知らないにちがいない。とんだおぼっちゃんだ。

「『……夜あけ前、沼の毒気から生れたお前たちは、朝日のさすまでさまよい歩くが、思想もなければ意志もない、生命のそよぎもありはしない。お前のなかに、命の目ざめるのを恐れて、永遠の物質の父なる悪魔は、分秒の休みもなしに、石や水のなかと同じく、お前のなかにも、原子の入れ換えをしている。だからお前は、絶えず流転をかさねている。宇宙のなかで、常住不変のものがあれば、それはただ霊魂だけだ。』」

 言葉が連なりとして入ってこない。眠い。頭が言葉を拒絶している。いや違う。これは、肯定してはならないと、身体から信号が送られているのだ。こんな甘い感傷を受け入れてはいけない。なのに、声が耳の奥にへばりつく。言葉の力ではない。これは、目の前でまったく意味を理解しようともせずに、ただ下手くそな台詞回しで話している、この女の力だ。

「『うつろな深い井戸へ投げこまれた囚われびとのように、わたしは居場所を知らず、行く末のことも知らない。わたしにわかっているのは、ただ、物質の力らの本源たる悪魔を相手の、たゆまぬ激しい戦いで、結局わたしが勝つことになって、やがて物質と霊魂とが美しい調和のなかに溶け合わさって、世界を統べる一つの意志の王国が出現する、ということだけだ。』」

 なんとくだらないことだ。部屋に戻りたくてしかたがない。だが、同時にこの女優を見ていたくもある。体内に渦巻く二つの感情にくたびれてきた。

『しかもそれは、千年また千年と、永い永い歳つきが次第に流れて、あの月も、きららかなシリウスも、この地球も、すべて塵と化したあとのことだ。……その時がくるまでは、怖ろしいことばかりだ。』」

 千年後、わたしたちはもうここにはいない。わたしたちは、苦労にあえぐだけで終わる。王国など、幻想でしかない。自分の死が、世界の終わりなのだから。

 舞台の奥に広がる湖で、紅い点が二つあらわれた。なにものかの目、なのかもしれない。くだらない。正気を俺は取り戻す。

「『そら、やって来た、わたしの強敵が、悪魔が。見るも怖ろしい、あの火のような二つの目……』」

「『硫黄の臭いがするわね。こんな必要があるの?』」

 アルカージナが鼻をつまむ。

「『ええ。』」

 神妙な顔で頷く息子を、アルカージナは笑った。

「『なるほど、効果だね。』」

「『お母さん!』」

「『人間がいないので退屈なのだ……』」

 外野が騒ぐたびに舞台の上にいる娘は言葉を途切らせる。親子ゲンカにうんざりした。

「『まあまあ、帽子をぬいで! さあさ、おかぶりなさい、風邪を引きますよ。』」

 ポーリーナがドールンに話しかける。誰もかれもが退屈している。

「『それはね、ドクトルが、永遠の物質の父なる悪魔に、脱帽なすったのさ。』」

 アルカージナが茶化した。

「『芝居はやめだ! 沢山だ! 幕をおろせ!』」

 息子が絶叫した。

「『お前、何を怒るのさ?』」

 息子の怒りと自分の言動がなにも関連性がないという顔をしてアルカージナはいった。女には、原因と結果という理屈が通じない。

 息子はといえばわめきちらしながら下男たちに幕をおろすよう命じる。観客たちは、癇癪が終わるのを待つしかなかった。舞台の女優もなにが起こったのかわからず、息子を見つめている。自身で舞台をぶち壊す。哀れだ。

「『失礼しました! 芝居を書いたり、上演したりするのは、少数の選ばれた人たちのすることだということを、つい忘れてしまったもんで。僕はひとの畠を荒したんだ! 僕が……いや、僕なんか……』」

 誰に向けていった言葉でもない言葉をいって、息子は駆け出していった。目の前を、風が吹いた。愉快にはなれなかった。つまらない観念芝居よりもくだらなかった。

「『どうしたんだろう、あの子は?』」

 そんなものに女はびくともしない。この女の強さに、ひとは惹きつけられる。

「『なあ、おっ母さん、こりゃいけないよ。若い者の自尊心は、大事にしてやらなけりゃ。』」

 女の老いた兄は、優しい声に、少々の咎めを交えていった。

「『わたし、あの子に何を言ったかしら?』」

 そんなことをいわれて不本意だ。アルカージナが感情を抑えきれずに返した。

「『だって。恥をかかしたじゃないか。』」

 ソーリンの言葉に、アルカージナは顔をしかめた。

「『あの子は、これはほんの茶番劇でと、自分で前触れしていましたよ。だからこっちも、茶番のつもりでいたんだけれど。』」

 ひどい言い草だった。

「『まあさ、それにしたって……』」

「『ところが、いざ蓋をあけてみたら、大層な力作だったわけなのね! やれやれ! あの子が、今夜の芝居を仕組んで、硫黄の臭いをぷんぷんさせたのも、茶番どころか、一大デモンストレーションだった。……あの子はわたしたちに、戯曲の作り方や演り方を、教えてくれる気だったんだわ。早い話が、ま、うんざりしますよ。何かといえば、一々わたしに突っかかったり、当てこすったり、そりゃまああの子の勝手だけれど、これじゃ誰にしたってオクビが出るでしょうよ! わがままな、自惚れの強い子だこと。』」

 なんていう母親だろう。いや、この女は母親ではない。女優だった。

「『あの子は、お前のつれづれを慰めようと思ったんだよ。』」

 この人のいいだけが取り柄な女優の兄貴もつまらないことをいうものだ。

「『おや、そう? そんなら何か当り前の芝居を出せばいいのに、なぜ選りにも選って、あんなデカダンのタワ言を聴かせようとしたんだろう。茶番のつもりなら、タワ言でもなんでも聴いてやりましょうけれど、あれじゃ野心満々、ーー芸術に新形式をもたらそうとか、一新紀元を画そうとか、大した意気ごみじゃありませんか。わたしに言わせれば、あんなもの、新形式でもなんでもありゃしない。ただ根性まがりなだけですよ。』」

「『人間誰しも、書きたいことを、書けるように書く。』」

 この女の口を封じたかったので、いった。

「『そんなら勝手に、書きたいことを、書けるように書くがいいわ。ただ、わたしには、さわらずにおいてもらいたいのよ。』」

 女は吐き捨てる。

「『ジュピターよ、なんじは怒れり、か……』」

 田舎医者にしては洒落者の男がいった。ラテンのことわざとは、いうことも洒落ている。

「『わたしはジュピターじゃない、女ですよ。』」

 そういって女はタバコを吸いだした。怒ってなんかいません。ただね、若い者があんな退屈な暇つぶしをしているのが、歯がゆいだけですよ。ぶつぶつと女は言葉を吐き出し続ける。知らない男が俺に語りかける。われわれ教員仲間がどんな暮らしをしているかーーそれをひとつ戯曲に書いて、舞台で演じてみたら。辛いです。じつに辛い生活です! 

「『ごもっともね。でももう、戯曲や原子のはなしは、やめにしましょうよ。こんな好い晩なんですもの! 聞こえて、ほら、歌ってるのが?』

 女の言葉に一同が耳を澄ます。かすかに遠くで聞こえてくる。

「『いいわ、とても!』」

 女は立ち上がる。

「『向こう岸ですわ』」

 黒づくめの陰気な女がいった。

 アルカージナが俺を呼ぶ。

「『ここへお掛けなさいな。十年か十五年まえ、この湖じゃ、音楽や合唱がほとんど毎晩、ひっきりなしに聞こえたものですわ。この岸ぞいに、地主屋敷が六つもあってね。忘れももしない、にぎやかな笑い声、ざわめき、猟銃のひびき、それにしょっちゅう、ロマンスまたロマンスでね。』」

 つまり、この人は現在を生きていないのだ。美しい過去、かつての若かりし自分を思っている。過去から目を離してはいけない。現実が、過去になり、発酵するまで、いまを眺めることができないからだ。いまは、過去になりやっと、愛することができるから。では、俺はこの女にとっていつかの思い出のための小道具なのか。それも、悪くはない。

 過去に浸っているうちに、女がそわそわしだす。なぜならば、彼女は母親でもあるから。現実に、いま、ここにいる息子のことが心配になってくる。過去と現在をひっきりないしに往来するなんて、酔いはしないのだろうか。

「『コースチャ! せがれや! コースチャ!』」

「『わたし行って、捜してきましょう。』」

 黒衣の女が女優の息子の名を呼びながら、去っていった。

「『もう続きはないらしいから、あたし出ていってのいいのね。今晩は!』」

 みずぼらしい舞台の奥から、今夜の主演女優があらわれた。舞台にいるときとはずいぶん印象が違う。愛らしい、ただの小娘だった。

 人々が、ブラボー! と娘を囃す。アルカージナもさきほどの酷評とはうってかわって少女を賞賛しだす。アルカージナはバラの花束を娘に渡した。少女は女優になりたいらしい。アルカージナが自分のことを紹介すると、少女をたどたどしく、いつもお作は……とお辞儀をした。

「『ね、いかが、妙な芝居でしょう?』」

 少女がいった。感想を求められている。

「『さっぱりわからななかったです。しかし、面白く拝見しました。あなたの演技は、じつに真剣でしたね。それに装置も、なかなか結構で。』」

 少女が嬉しそうな表情を浮かべた。今日の役目はこれで終わりだ。

「『この湖には、魚がどっさりいるでしょうな。』」

 話をかえた。

「『ええ。』」

「『僕は釣りが好きでしてね。夕方、岸に坐りこんで、じっと浮子を見てるほど楽しいことは、ほかにありませんね。』」

「『でも、いったん創作の楽しみを味わった方には、ほかの楽しみなんか無くなるんじゃないかしら。』」

 少女がいった。返事に困る。

「『そんなこと言わないほうがいいわ。このかた、ひとから持ち上げられると、尻もちをつく癖がおありなの。』」

 女が横から口を挟む。

「さっきも……」

 といって俺の尻を叩いた。少女は不思議そうな顔をした。

「『忘れもしませんが、いつぞやモスクワのオペラ座でね、有名なあのシルヴァが、うんと低いドの音を出したんです。ところがその時、』」

 さっきからうるさい講釈たれが、再び話し出した。なんと間抜けなあつまりだろうか。

「『わたし、行かなくちゃ。さようなら。』」

 少女がいう。皆が止めるのを振り払い、去っていった。去り際の後ろ姿が、美しかった。なにに例えるべきなんだろうか、と考えをめぐらした。なにか、ひどい喪失を感じた。この場所には、もう純粋さや、目を潤すものが、なにもない。

 娘はいま、金もなく、はだか同然の身の上らしい。可憐で夢見る少女には、不幸がよく似合う。

 会はお開きとなった。つまらない雑談を聞き流しながら、私たちはこの場を離れた。

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