第34話 入り込む隙間
満席にはならなかったものの、客席は八割埋まった。まもなく本番だ。
舞台裏で俺たちは円陣を組んだ。俺は全員を眺めた。衣装を纏い、化粧をしている皆を見て、俺は嬉しくなった。
「なににやにやしてるんですか」
麗奈がいった。不安げだ。大きな舞台で緊張しているのだ。そして、家族が観にきているらしい。「大学、演劇科のあるところに入りたいっていったら、家族がびっくりしちゃって。この舞台を観て、わたしが真剣なんだってわかったら、許してくれるかもしれない」といっていた。
「俺さ」
皆が俺に注目した。
「いま、最高に楽しい」
俺はいった。これから、俺が楽しいと思う芝居を、上演するのだ。
「わたしもです、先生」
三浦さんがいった。三浦さんはどんどん若返っている。なにせモテ男役だ。女どもを惚れさせてやってくれ。かっこいい。
「俺も、マジやばいくらいにテンションあがってます」
吉田がいった。初めて会った頃の暗い顔つきのかけらもない。イモ顔の文学少年、さまになっている。
「男どもは呑気ねえ」
晴美はいった。さすが大女優。こいつはぶれない。こいつがどんと構えているだけで、座組みは安定する。看板女優だ。
「わたしも、楽しいかも」
真剣な顔で裕子はいう。なにせこちらは座員昇格がかかっている。滝村先生以外にも、どうやら文伯座のメンツが観にきているらしい。自分を見せつけちまえ。
「まったく楽しそうに見えないよ?」
麗奈が心配そうにいうと、
「そう? 楽しいよ?」
と裕子は眉間にしわを寄せた。皆、笑った。
「一回こっきりの公演です。全部をぶつけましょう。稽古でしてきたことをしっかりと。みんなを信じてます。以上」
「かけ声いきまーす」
晴美がいった。
「セリフは大きくはっきりと、楽しみましょう!」
おお! と客席に届きそうな声が全員から溢れた。
楽屋のモニターを俺は見ていた。舞台の幕があがった。殺風景だ。素舞台に近い。
「『あなたは、いつ見ても黒い服ですね。どういうわけです?』」
声が聞こえてくる。
「『わが人生の喪服なの。あたし、不仕合せな女ですもの。』」
客席のほうから男と女が喋りながらやってくる。和田と裕子だ。
男楽屋のドアがノックされた。ドレスを着た晴美が顔をのぞかせた。
楽屋から裏口階段を上り、ロビーに向かう。スタンバイしている役者たちと目があった。
芳賀と吉田が劇場に入って行く。壁に寄りかかっていた麗奈が、晴美に抱きつく。晴美は麗奈の頭をなでた。
「『若旦那、わっしらちょいと一浴びしてきます』」
舞台奥から登場する子供たちの元気な声が聞こえてくる。ヤーコフだ。息があっている。
そのとき、ホールの入り口から、あのう、と声がした。
「遅刻してしまったんだけど、もう観れませんか?」
真っ赤なスーツのおばさんが所在なさげに立っていた。
「だめかしら」
劇場ドアからスタンバイしている俺たちに、申し訳なさそうにいった。
「大丈夫です」
俺が駆け寄る。
「横の出入り口からどうぞ」
俺はおばさんを誘導した。
「あなた、出演もされてるの!」
絵画のおばさんである。
「はい」
俺は頭を掻いた。演出もして、出演もしております、なんてこぱずかしい。
「お代は……」
そういっておばさんはハンドバッグから財布を取り出そうとした。
「御招待します」
いま代金を受け取っている余裕はない。
「本番、おめでとうございます」
そういって、おばさんは小さな花束を俺にくれた。スーツと保護色になっている真っ赤なバラで、持っていることに気づかなかった。
「ありがとうございます」
俺とおばさんは、握手をした。
花束を持って俺が戻ると、ちょうどニーナが出ていくところだった。
「『足音が聞える。……僕は、あの人なしじゃ生きられない。……あの足音までがすばらしい。……僕は、めちゃめちゃに幸福だ!』」
トレープレフの声を合図に、客席へ麗奈が飛び出した。しばらくして、
「『あたし、遅れなかったわね。……ね。遅れやしなかったでしょう。』」
麗奈の声が聞えた。
「あの子、女優ね」
晴美は笑った。
しばらくして、子供二人の元気な「『へえ。さようで』」という声がした。拓也と久義だ。思わず笑みがこぼれた。
「準備はいい? わたしのトリゴーリンちゃん。よその女から花束なんてもらっちゃって。見境がないんだから」
そういって晴美は花束に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
「紫のバラじゃないから、許す」
晴美が俺を抱きしめる。
「おお〜!」
「ついに目の前でいちゃつきだした!」
「どさくさにまぎれて!」
周りの皆が冷やかす。
「なんだよお前ら」
俺は慌てた。
「全員気づいてますよ」
裕子がいった。
「井上先生がいってました。あの二人には入りこむ隙がないくらいだ、って」
井上は舞台袖にいる。
「あのバカ……」
ポーリーナの美保子さんとドールンの三浦さんが堂々と客席へと入っていく。まもなくだ。
俺が晴美を見ると、すでにアルカージナになろうとしているところだ。ドアの前を睨みつけている。俺は晴美の手を握った。晴美の手が少し震え、それから俺の手を痛いくらいに握りしめてくる。
俺は深呼吸をした。
「よっしゃ!」
そして、ドアが開かれた。
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