第33話 事故

 本番当日、早朝から会場入りし、舞台セットを作ってからの場当たりのことだった。事件は起きた。一幕終わりの暗転の最中、舞台から悲鳴があがった。

「照明つけてください!」

 舞台監督に立候補してくれた井上が叫んだ。

 あかりがついた。舞台でのぞみさんが倒れている。皆が駆け寄った。

「大丈夫ですか」

 のぞみさんは体を丸め、腰に手を当てていた。

「踏み外しちゃった……。腰をうっちゃって、足もひねっちゃったみたい」

 ママ、大丈夫? ママ? と久義がのぞみに抱きついて泣き出した。

「大丈夫大丈夫。ちょっと転んだだけだから」

 のぞみは久義の頭を撫でた。久義の泣き声は止まらない。

「病院にいきましょう」

 井上が冷静に対処していく。

「ごめんなさい……」

 痛いだろうに、俺に何度も謝りながら、のぞみは病院に向かうためタクシーに乗った。

「久義くん」

 去っていくタクシーを久義はずっと見ている。なんて声をかけたらいいのかわからなかった。

 のぞみにやってもらうはずだった舞台転換を他に割り当て、場当たりが続く。

 平嶋さんから連絡が入り、捻挫で済んだが、舞台には出られなさそうだ、という。セリフはほとんどなかったが、小間使い抜きで上演すべきか、俺は決断をせまられた。答えが出ぬまま、舞台作りは進んでいく。

「先生、ちょっと」

 美保子が俺を呼んだ。

「久義くんが、トイレで泣いているんです」

 男子トイレに行くと、閉められた個室の前に、拓也がなすすべもなく立っていた。

「久義くん、怖いって。お母さんに会いたいって」

 母子家庭で素直でおとなしくしていた久義だったが、肝っ玉母さんののぞみが怪我をしたことに動揺しているらしい。

「久義くん、久義くん」

 俺は個室のなかに声をかけた。耳をすますと、すすり泣く声が聞こえてきた。久義はいつも笑顔で、大人たちの傍におとなしくいた。年上の拓也を久義が引っ張っていた。大人よりも大人だった。いままで、この小さい子がいかに気丈に振る舞っていたのかを考えると、胸が痛んだ。

「出てきてくれないかな」

 返事がない。

「久義くん、あけて」

 拓也がいった。

「久義くんのことは、僕が守るから」

 拓也は便所の扉の前で、宣言した。まわりにいた大人たちはその態度に驚いた。

「拓也」

 美保子が驚いていった。稽古以外はずっとゲームをしていて、美保子と久義以外とは口もきかない。うん、としかほとんどいわない少年だった。久義と一緒にセリフをいうのも、いつでも拓也はおどおどして、年下の久義に誘導してもらっていたのだ。

「一緒に、頑張ろう」

 トイレのなかはしばらく無言のままだった。その静寂がとても長くに感じた。時間がない、舞台のほうに戻らなくては、と俺が焦れていると、ドアが、ゆっくり開いた。

 拓也が久義に手を差し出した。

「行こ」

 泣き顔の久義も頷いて、二人はトイレから出て行った。呆然としている俺と美保子がトイレに残った。

「あの子が、そんなこというなんて」

 涙目になりながら、美保子がいった。

「先生、ありがとうございます」

 俺はなにもしていない。拓也を変えたのは、久義との友情パワーだ。


 平嶋さんが戻ってきた。

「滝村先生が病院まで来てくださいました。ご一緒にこちらにおいでになるそうです」

「そうですか」

 小間使いはなしにしよう、と決めたとき、

「わたしが出ちゃだめですか」

 平嶋さんはいった。

「動きも、わかります。わたし、出たいです」

 真剣そのものだった。俺は決めた。

「お願いします」

 俺は頭を下げた。

「絶対に、先生のつけた演出を守りますから」

「信じます」

 ああ、俺は信じるの大安売りをしているな。でも、そんなもんかもしれない。信じることしか、人はできない。全員が、是認を信じる。俺が頭をあげると、平嶋さんが頭を下げた。

 数時間後には、本番だ。

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