第14話
母から逃げ出して、すっかりほっとしていた私の前で、とてもほっとなど出来ない事態が起きた。
うずくまった少女。それを心配する二人の友達。何事かと集まる数人の観光客。明るい海岸通りの白昼の出来事だった。
短い悲鳴が上がった。
友達を心配していたピエタの少女の一人が跳ねるように後退りした。
数人の人の輪の中で白いスモックのピエタの少女がうずくまったままガタガタと震えていた。赤いスカートは膝までの長さの物なので少女のふくらはぎが痙攣しているのが私の目にはっきり見えた。
乙女の可憐な脚は純白であるはずだったのに、その脚の皮膚はナメクジみたいな色に変色していた。また誰かの短い悲鳴が聞こえた。
変身現象。
数人の観光客が飛び退いた。
また悲鳴が上がる。
うずくまっていた乙女が変わり果てた姿となってユラリと起き上がった。もうすっかり理性を失った目でかつての二人の友達を見据えた。ピエタの少女たちは腰が抜けたのか、二人で抱き合ったままその場にへたり込んだ。獣が半歩ジワリと乙女らににじり寄った。
「よしなさい化け物。醜い新生物」
どこかの中年女が驚くほど低く落ち着いた声で獣に話しかけた。それは私だった。
「大丈夫よ、そいつは人間の女は食わないから」
私はピエタの少女たちに言った。
「精々悪くても血を吸われるぐらい。それもこいつは牝だから人間の男の血の方が好きなのよ。ふん、嫌らしい牝」
自分でもどうしてそんなに落ち着いていられたのか分からない。私は周囲の人々と同じように逃げ出したがっていた筈だったが。
私の目の隅に緑色の制服の数名の警備隊の姿が入った。さすがに行動が早い。彼らの手には弓が握られていた。
「下がって下さい、そこの奥さん!」
警備隊が私に向かって叫んだ。隊員の一人が引き絞っているその矢の先端部分は鏑矢のような膨らみがあった。
爆弾頭の矢!
こんな街中で?
誰か人に……私に中ったらどうするつもりなのか。私は目の前の獣と警備隊を交互に見やって、内心では恐怖に震えつつ、出来るだけ落ち着いた体で一歩後退りした。目の隅で警備隊を見て、もう一度前に視線を戻した時、獣の姿が私の目の前から消えていた。
カキン
と金属的な鋭い弦音が聞こえた。
牝の獣は白いスモックを翻して高々と跳躍していた。この私に向かって。
それはこの品川の海を舞う白い鳥かと見まごう程の飛翔だった。圧倒的なまでの身体能力。だがその鉤爪のように曲げられた指先が私の喉に食い込むより先に警備隊の放った矢が獣の首に命中していた。
ドン
と獣の小さな体が吹き飛んだ。けれども「爆発」は起きなかった。それは爆弾頭の矢ではなく麻酔弾頭の矢だったのである。ごく最近から使われるようになったという新兵器だ。私もこれが実際に使われたのを見たのは初めてだった。この麻酔を開発したのは他でもない私の研究所なのであるが。
「いや奥さん度胸がある。けれどもああいう時は真っ先に逃げないといけません」
抜群の弓の名手らしい警備隊の男が獣に拘束具を幾つも掛けながら私に言った。中年だがまるで俳優のような美男子だった。私はいい男に救われたお姫様みたいな気分で少し浮かれていたが、上辺だけは落ち着いた風でいた。
「私は新生物研究所の職員でこういうのは幾らか扱い慣れているんです。……ウイルス説と擬態説とありますけど、あなたはどっちだと思いますか?」
この変身現象についての話だ。美男の弓の名手は笑って首を振った。
「いや、どっちでも。ただ私の仕事はこいつらをやっつけるだけです」
実に手慣れた仕草で怪物を拘束すると、警備隊は三人がかりで足早にその獣を運び去った。集まっていた野次馬ももう何事もなかったかのように四散した。ピエタの少女たちも先生らしき人に連れられて風のように帰って行った。品川の青い海にはいつものように白い鳥が穏やかに舞っていた。
そう、こんな事件はこの品川では全く珍しくないのだ。珍しくないことを悲しむのは詩人の仕事である。私は科学者なので別のことを考えなければならない。
この新生物の起源について。
ウイルス説か?
擬態説か?
である。
どちらも決定的と言える程の証拠に欠けて、我々研究者の間でも意見の一致を見ていない。
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