第8話
書店を出る。
その時、私たちには二つの道があったはずである。
書店の正面の賑やかな方に向かう道と、書店の裏手の昼でも暗く侘しい路地の方に向かう道と。
すなわち人目のある方とない方と。
「……お茶でも飲みましょうか」
と男が言ったので私たちは喫茶店に行った。賑やかな方である。そこで私たちはコーヒーを飲んだ。何というか子供のように。あるいは老人のように。
「次はいつ会えますか?」
と男は別れ際に言った。
私はたぶん終始にこやかにしていたはずだが、その時、その内面ではやや黒いものが渦巻いていた。その黒いものはもしかしたら私自身の「いつもの」性質で、もし人生に対して前向きに変わろうと思っているのならば、はっきりと直さねばならないものだったのかも知れないが。
「次」とは何なのだろう?
この男にそれなりの行動力があれば、たとえ三十分の間でも――いやもしかしたらたった三分の間でも――私をどこか人目のない所に連れ込んで好きなように出来たはずである。そういうヴァイタリティの問題なのである。
あの大きな書店の裏手には街の喧騒の死角になっている場所が確かにあった。私は彼のために三分間だけの恋人になる覚悟も出来ていた。が、彼はもっと微温的だったようだ。その日、私はフレアのスカートを穿いていたので、只一枚の下着を外すだけで彼は私の全てを――全てというのは人妻としての貞潔という観念も含めて――私という女の心も体も笑い物にすることが出来たはずなのだが。
色の白い内気そうな男だった。おそらくこの男は一生こんな人生態度なのだろう。せっかくのチャンスに女一人ものにすることも出来ない。喫茶店の前、賑やかな品川の路上で、私は何も言わずに笑って「彼」と別れた。
つまりいつもの嫌な女である私がそこにいた。
昼休みを終えて研究所に帰る私の足取りは戦いの敗者のような苦みを帯びていた。
私はあの若い男の評論家になってしまっていたのだ。十歳も年長で、色々な意味で彼に対して寛容に出来たはずなのに。彼の欠点ばかり並べ立てて、自分の方はカマトト面をして被害者ぶる……というのはダメ女の典型ではないか。これでは咲くべき花も咲かず、成るべき実も成るはずもない。私は流行のボブの髪を振って、この品川の雑踏の中に苦い笑みを漏らすだけだ。
(また、これか)という意味合いの自嘲を、である。
あの若い彼は今頃私以外の女……どこかのガイドにでも声をかけているかも知れない。そう思うと私の中の罪悪感めいたものも多少和らぐ感じなのが不思議な感覚だった。罪悪感という言葉は私の年齢を考慮に入れた場合、決して大袈裟な表現ではないのだ。
「いえチーフ。人工受精なんてものは無駄手間で、ただ遠回りになるだけです。無意味で余計なことです」
午後の陽光の注ぐ研究所の一室で仁科研究員の口調はいつものように軽薄な明るさがあった。それに対して私の顔はもしかしたら苦虫を噛み潰したような表情をしていたかも知れない。仁科研究員の言うことは一応筋が通っていたので尚更だった。
「……そうは言っても、あなた、衛生上の問題とか」
「ああチーフ、ウイルス説ですね? それですよ。この実験はそのウイルス説も大きく後退させることも出来るでしょう。この俺がこういうことをしてもウイルスなんぞには感染しない、例の変身現象が起きないとしたらね」
仁科研究員は自信満々に胸を張って、嫌らしいまでにニンマリと笑った。
実験提案書を彼は私の所に持って来ていた。それはいいのだが、しかしその内容に問題がある。私に拒否されることを予想でもしていたかのように仁科研究員はもう一枚の書類を私に差し出した。
「チーフが渋い顔をなさるのは想定していたのでこれを用意しておきました」
その書類は献体同意書と書かれてあった。
「もしの場合ですが、もしこの実験によってこの俺が新生物化してしまったら、その時はどうぞ実験動物として御自由に扱って下さいという意味のものです。まあ俺はウイルス説なんて鼻から信じていないので、その同意書も紙屑になると確信しておりますが」
またまた若い研究員はニンマリと笑う。私は一度長めに息を吐いた。
「そんな人体実験みたいなのはねえ……」
「はっはっは、何をおっしゃいますチーフ。人類の科学の歴史が人体実験の歴史であるというのは周知のことです。この実験の結果、万が一のことで俺が新生物化したら、どうぞその時はお好きなように切り刻んで下さい。この俺も科学者の端くれ。例えそんな風でも科学の発展のために役立てるならば至って本望というものです」
困ったことに若い研究員の言うことは一応筋が通っていたし、熱意のようなものも強く感じられた。不請不請ではあるものの私は彼の提案書に承諾のサインをせざるを得なかった。
仁科研究員が持って来たのは「M136」の受胎実験の提案書だった。人と獣との間にどの程度の稔性があるか調べることは我々擬態説の者にとっては確かに有意義なことではあるのだが……。
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