第7話

 絶食テストが始まって十二日目。

「K626」はまだ生きていた。

 部屋を出て、鉄のドアに付いた小窓のその鉄格子の隙間からもう一度獣の姿を見やる。私の胸には研究者としてあってはならない憎しみみたいなものが渦を巻いていた。

 諏訪研究員の姿と私自身の体の奥の痺れを思い、私は首を振る。一度溜息を吐いて、うつむいて、そうしてドアの前を離れた。私は白衣のポケットの中で空の注射器を握りしめていた。

 収容室の中から獣の唸り声が聞こえたような気がして私は数秒だけ凍り付いた。それから逃げるように歩き去った。私のパンプスのヒールの音が白い廊下の中で追いかけて来るみたいに響いた。

 


 昼食はいつも夫と二人で取るようにしている。おしどり夫婦を演じるために。だがその日は夫の実験が長引いているとのことで、私は一人で町に出た。いつものように白衣姿のままで。

 品川の町は毎日が祝日であるかのようだ。活気があって結構なことである。ヒャッヒャッヒャッと声高に笑いながら歩く若い男の四人組。ブツブツと独り言をしながら歩く老人。自分の子供を大声でヒステリックに叱る若い母親。大袈裟に足を引きずって歩く老婆。道端で半時間も立ち話を続ける中年女たち。彼らの一人一人が品川の平和と繁栄の象徴だった。何とも大人しそうな青年相手に警察官が二人がかりで職質をしていた。平和だ。私はそんな人々を横目に一人でカフェレストランで昼食を取り、その後書店に立ち寄った。

 御殿山にある大きな書店。品川で最大、つまり東京で最大の書店である。このような時代となって書物はとても貴重な物となり、多くの知識を愛好する者たちでこの薄暗くかび臭い店内は満たされていた。私もそんな中の一人であり、本屋はただそこにいるだけで楽しい空間だった。

 堅苦しい学術書などを手にすることはあまりない。私は歴史小説とかあるいは動物図鑑のようなものが好きだった。薄気味悪いヘビとかトカゲとかの写真を眺めるのは、ちょっと背徳的な感覚にも似ている。おぞましいとは思いつつも目を背けることは難しい。自分と全く違う存在と関わり合いになることは滅多にないのだが、時にそんな異質の存在から快楽を与えられることもある。人生というのは不思議だ。いや私は何の話をしているのだろう。

 ダーウィンの『種の起原』が置いてあった。この本についてはうっかり愛読書などとは言えない重みがある。どのページにも深い洞察に満ちた言葉が溢れて、私たち生物学者にとっては聖書のような本である。ダーウィンという人は有名なビーグル号の航海から帰って来た後は一度もイギリス国内を出ることはなく、また就職することもなく、ただ研究生活に明け暮れた人である。『種の起原』を読めば分かるが、これは毎日六時間ずつの考察・観察・読書をしていなければ書けないような本であり、とても働いている時間などなかったはずだ。

『種の起原』は進化論の本だと思われている。だがその進化という言葉は多くの誤解を生んでいる。生物の身の上に起きることは進化などではなくただの変化である。その変化が生存に有利に働いた場合だけ自動的にその変化は子孫に保存される。ダーウィンはこの本の中でそういうことを言っている。

 生物は進化などしないのだ。それゆえに一部の人の唱える「新生物は進化した人類である」などという説を私は全く支持しない。有り得るとすれば「新生物は変化した人類である」だ。

「新しい変種や新種の形成が進む過程では、一般に一番近縁な種類が最大の影響を被る」

 とダーウィンは書いている。今我々がこの廃墟の森の中の要塞町に閉じ込められているのも「近縁種」の影響によるものであるかはまだ分からないことだ。

 ふと……人の視線を感じた。

 気のせいだろうか。そこの男が私を見ているような気がする。白衣姿の女が珍しいのだろうか。私が自意識過剰なのか。また男の視線を感じた。いや私の自意識過剰だ……。

 その日私は流行のボブの髪型にしていた。随分若く見えると夫にも好評だった。自分で切ったわけではなく美容院に行ったのである。

 あの日曜日、私はあのヤクザ男と身を交えた後、その足で美容院に行った。すぐに家には帰りたくなかったし、それに自分が変わった証を何か外面的にも残しておきたかったのかも知れない。

 そうだ、私はあんな形で夫に対して妻としての純潔を散らした。彼にとっての可愛らしい奥さんではなくなってしまった。もちろんそんなことは夫に告白していないが、だからと言って私のしたことが美化されるわけでもない。

 あんな形であれ私は変わった。その変化を私は少しだけでも前向きにとらえる努力をしていた。髪型を変えただけでなく、化粧も以前より丁寧に行っていた。あくまでけばけばしくならない程度に、清楚でなおかつ華やかに見えるような、言ってみればあのガイドたちを参考にしてメイクをしていたのである。妻としての純潔を散らしたことによって人生に対して前向きになるなど随分虫のいい話だなと私自身も呆れてしまうが。

 また、男の視線を感じた。薄暗い書店の中、私はダーウィンに夢中になっている振りをする。その一方で足元のパンプスは地味過ぎないだろうかと気にしている。その男が近づいて来た。私の心臓が止まりそうになった。

「どこかの先生ですか」

 とその男は控え目な声音で言った。私はその男を見た。知らない男だった。まだ二十代前半と思われるメガネをかけた色の白い若い男だった。

「いえ」

 と私は低い声で答えた。白衣なんかを着ているから医者か何かに間違えられるのだろう。ただの研究所の職員ですと答えた。

「さすがに難しそうな本を読んでらっしゃいますね」

 若い男は私の手にしているダーウィンに目をやった。本当に若い男でまだ二十歳そこそこかも知れない。彼のその若さが私の心拍数を更に高めていた。

「あら、これはそういう堅苦しい本ではなくて一般の読者向けに書かれた本なんですよ。知ってるでしょう『種の起原』。とても平易な言葉で書かれていて、読みやすいんですよ」

 内心の動揺を悟られないために、私は努めて落ち着いた声を作った。もしかしたら十歳以上も若いかも知れない男は微笑して頷いた。美男というわけではないが、肌の若々しさが眩しかった。系統としては夫や仁科ではなく吉沢に似ていると思った。そんなメガネの奥のあどけなさの残る目がじっと私の目を見た。

「とてもおきれいだ」

「あら」

 ズドンと矢を射られたようだった。こんな展開を私は期待していたのかいなかったのか。こんな大きな年齢差のある若い男から、こんな……。

 あのヤクザ男とは全くタイプの違う男である。この子も私にベッドの上でパンプスを履くことを求めるのだろうか?

 かと言ってこんな昼休みに何が出来るというのだろう。

 私は一度溜息をついて、わざとらしく左右を見て困惑の表情を作った。「彼」は如才ない微笑を続けていた。

「困ったわ。私忙しいのに」

 そうぼやいて私は左手首の腕時計を覗き込むポーズを作った。さりげなく男に結婚指輪を見せたつもりだった。彼は変わりなく微笑していた。私は諦めて、彼の顔を見上げて、仕方ないなという口調でこう言った。

「三十分しかないけど、どうしますか?」

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