第6話

 青い空、青い海、白い鳥。

 Sunday silence

 まだ早朝だった。

 私は海の見える公園のベンチに一人で座って……ぼんやりとカモメを眺めていた。

 地味なブラウスにスカートという普段着にパンプスを突っ掛けていた。ろくな化粧もしないで、バッグ一つ持っていなかった。こんな格好で外出できる中年女というのは、端から見ていたらきっと惨めな人生の敗残者そのものだったろう。

 私はまた――またという言葉が惨めなのだが――夫と些細なことで言い合いになっていた。プチ家出という奴だ。



 人を怒らせるのに最も効果的な方法は何だろう? それは相手の大事にしているものを傷つけることである。

 多くの人にとって最も大事なのは自分の命であるから、暴力でも振るってその命を傷つければ相手が怒り出すのは必至だ。

 命の次ぐらいに大事なのはお金なので、誰かのお金を盗めばその誰かが怒り出すのも当然だ。

 命やお金以外にも、人それぞれ大事にしているものはあるだろう。本当に人それぞれであるが、例えば私などは優越感というものをとても大事にしてしまっているようだ。

 そう優越感。

 もしかしたらとても下らないもの。

 そのために私はしばしば身近な人と衝突する。そういう衝突に私は少しばかりくたびれて、こうして早朝の公園のベンチの上で苦笑いを浮かべているわけだ。

 日曜の朝食に私は簡単な料理を作った。それが失敗作に思えたので、私は一口だけ食べた所で残りを捨ててしまった。それが夫には我慢ならなかったらしい。彼はやや貧しい階層の出だったので、そのように食物が粗末に扱われるのが耐えられなかったようだ。

「君の得意技は溜息と舌打ちだね」

 と夫は私を罵った。私は私の優越感を守るためにその十倍の言葉を返した。そうして家を飛び出して来た。よくある下らない喧嘩の一つだった。

 お互いに後で謝れば済むのもいつものことなので、私は大した荒涼感を抱えることもなく町中を歩いて歩いて、この公園のベンチの上に漂着していた。そうして嘆息していた。

 

 ……恋愛って何だろう?

 

 それは単なる通過点に過ぎないものなのだろうか。

 お互いがお互いを賛美する現象を恋愛と定義付けるならば、私と夫は明らかにそんな時期は通り過ぎて、今やお互いがお互いの評論家になってしまっているではないか。

 そんなことが褒められた現象ではないと理解しつつも、私と夫との優越本能と優越本能のぶつかり合いは一朝一夕で解決するような種類の問題ではないこともまた理解している。

 あきらめ、という言葉を使ってはいけないこともまた理解している。

 私は健康な生き物としてこのような状態を変化させるために何らかの努力をせねばならないのだ。分かってはいるのだが、また一つ溜息も漏れてしまうのが情けない。受動性という沼に浸りきって、ひたすら被害者ぶっている女というのは私の一番嫌いな女だったはずだが。

 誰かを求め、誰かを受け入れるのが恋愛とするならば、その対極にあるのが周りの全てを拒絶して一人で生きることである。

 それは厳しい。

 それは寂しい。

 だが私はそうなりつつあるではないか……

 


 晴れているのに雨がぱらつき始めた。いわゆる狐の嫁入りである。すぐに止みそうだったので、私は気にもせずベンチに座り続けた。空を飛ぶ白い鳥を見て、あれはウミネコだなとぼんやりと思っていた。ユリカモメならば頭が黒くなっているはずだ。私の髪は段々白くなって行くばかりだが……と三十過ぎの女が一人苦笑して寒々とした気持ちになっていた。

「よう、あんたガイドの人? 中々いいね」

 いつの間にか男が一人ベンチの私の隣に座っていた。お天気雨のぱらつくキラキラした空の下、見知らぬ男からそんな奇矯な挨拶をされて私は呆けた。

 私がガイド?

 まさか売春婦に間違えられるとは。だいたい制服とか着ていないではないか。どこがガイドに見えるというのか。その時の私は地味な格好をした三十二歳のくたびれたおばさんに過ぎないはずだ。ろくに化粧もしていない。はっきり言って人前に出る格好ではない。これのどこがガイドに見えるのか。私は腹が立った。けれどもその怒りは夫に対する怒りと少し別種のもので、質の違う怒りと怒りは私の内で混ざり合って化学反応を起こして笑いに昇華されてしまった。私がガイドに間違えられるなど何と滑稽なことだろう。

「あはは、あなた私がガイドに見えますか。それで私はいくらぐらいに見えますか?」

 男は三十代だか四十代だか五十代だか分からない、いかにも下卑た感じの風采だった。けばけばしいシャツとピカピカの靴が何とも言えずに下品だった。もしかしたらヤクザかも知れない。そういう崩れた雰囲気があった。お堅い研究所の職員がこんな所でヤクザにナンパされるなんて笑う他はない。

「よう、何だいガイドだったら二万で相場が決まってるだろ? ああ分かった。いい女だと思ってふっかけてやがるんだな。そりゃいけねえよ姉ちゃん。自分を高く売ろうなんてね。そりゃ良くない。只のプライドだ。プライドなんてものは実につまらないものだよ。そんなものは捨てた方がいい。あんたはもっと優しくなった方がいい。ぐっと柔らかくなった方がいい。どうだ、高く売ろうなんてやめにしろ。優しくなれ。な? な?」

 何が「な?」だと私はまた笑ってしまい、分からないまま笑ってしまい、ゲームでもしているみたいに笑ってしまい、酒に酔っぱらった時みたいに笑ってしまい、そうして舞踊でもしているみたいに男に手を引かれるままベンチを立った。すぐに止むと思われた雨は本降りになって来てしまっていた。その公園のすぐ近くがホテル街だった。後で知ったことだが、そこはガイドたちのよく使うホテル街だったらしい。つまり「立ちんぼ」に間違えられる地理だったのだ。

「雨宿りだよ、雨宿り」

 空々しい言い訳を作る男には呆れるのみだったが、日曜の朝っぱらで、ろくに人気のなかったことが私を大胆にさせた。男に手を引かれるままに、私はその安っぽいホテルの一軒に入ってしまったのである。

 私は後ろめたさを感じていた。これは確かである。私にも人並みの倫理観はあるし、自分の生活を守ろうとする本能も働いている。この九年間、私は夫に対して清らかな妻だった。正しい理性と正しい本能が私を守っていた。けれどもその時のあの滑稽なる笑いの力は私の折り目正しい自己防衛本能を崩してしまうほどのベクトルを有していたのだ。適切な比喩ではないかも知れないが、回っていないコマは只の円錐形の物体に過ぎないが、回転をしているコマというのはそれ自体で自立し、なおかつ周囲の色々な物を弾き飛ばしてしまうほどの力を秘めている。その時の私は回転しているコマだったのだ。コマ回しがあのヤクザ男であり、私というコマによって弾き飛ばされてしまった物がすなわち夫に対する貞操義務だった。

「とんだ狐の嫁入り」

 そんな軽口を叩いてはいたが、実際の所私は男に服を脱がされながら緊張のあまりガタガタと震えていた。私の様子があまりにも不馴れな感じだったので、男はすぐに私がプロのガイドではなく普通の主婦であることに気づいたようだ。左手の薬指の指輪など隠しようもない。私が素人であると知ると、逆に男は大いに喜んだようだった。

「何度目の浮気だい、ええ奥さん?」

 背中の方から手を回して、私の胸を揉み上げながら男は言った。初めてだと答えるのは屈辱的に思えたので私は三度目だと答えた。それが私のささやかなプライドだった。



 こういう行為のことを浮気とか不貞と呼ぶのは知っている。けれどもその時の私の心情に照らし合わせるに、そのような名称は似つかわしくないように思われた。その時の私の行為は浮気などと呼べるほど心の部分が伴っていなかったのである。どうしても正確に表現しようとすると「なりゆき」という言葉を使う他はないように思われた。男とは全くの行きずりであるし、夫と別れる気など微塵もない。それにもかかわらず、私はその行きずりの男の求める主婦としての純潔をわずかなためらいだけで捧げてしまったのだ。

 根が品性下劣らしい男は、私に出来るだけ卑猥な、なおかつ屈辱的な交接を強要しようとした。男は私の着ていた物を全て取り去ると、改めて私にパンプスだけを両足の先に履かせた。その上で私をベッドに寝かせて、私自身の手で私の下肢をM字に開かせた。

 私は激しい恥辱に下の方から男の顔を睨み上げつつも、そのポーズを維持した。なにしろその時の私には心などと呼べるものはなく、ただ「モノ」として扱われることに潔い感覚を覚えていたのだ。ほとんど何もしていないのに私が濡れていることを男は笑った。それから指を使い始めた。最初は浅く、それから深く。私は歯を食いしばって自分の膝を抱え続けた。時々夫の顔が私の脳裏をかすめた。私が自分の二本のヒールの間に体液を漏らすと男はまた笑った。それから指を抜いて、指以外の物を私のからだに挿入した。



 ようやく人並みに悔恨の情に捕らわれたのは全てが終わった後だった。

 青臭い匂いが私の肌に染みていた。

 なじみのあるような、ないような匂い。

 新鮮な筍を切った時のような匂い――精液の匂い――がその部屋に満ちていた。

 汗まみれになって男と二人ベッドの上に横たわりながら、このような形で夫を裏切ってしまったことに罪の意識が湧き上がって来た。今さら悔いた所で、子宮の中で混ざり合った私の愛液と男の精液が元に帰るものでもないのだが。

 これは仕方のないことだったのだと私は割り切ろうとした。ちょっとした事故のようなものだと。あの狐の嫁入りという妙な天気のせいだと。湿ったベッドの上に脱力して横たわり、自分を美化・弁護・正当化してくれる理屈をあれこれと考えつつ、私は全裸の男が立ち上がるのを見た。何かごそごそしていると思ったら、男は財布を取り出していた。

「二万でいいだろ奥さん? まあ相場だ」

 そう男は言って金を差し出した。私は愕然とした。

 私は自分が何をしたのだろうと思った。ここで金を貰えば私のしたことは売春になり、私は私が最も軽蔑しているガイドと同じ者になる。金を受け取らなければそれは只の浮気である。不貞とか不義とか不倫とか何でも呼び名はあるが、そういうことをしたことになる。けれどもこの男とは精神的なものは全く何もなかったので、そのような呼び名の行為と認めるのは大きな違和感があった。ほんのわずかな愛情の欠片のようなものでもあれば良かったのだが、今の私の胸の中にあるのはこの醜い中年男に対する嫌悪と軽蔑のみだった。どちらかを選ばなければならなかったので、私は仕方なく金を受け取った。

「またな、あの公園で会おうや。来週の日曜がいい」

 男はすっかり私を気に入ったらしく、二度目の行為に入る前にそんなことを言った。随分と自惚れている。私は心の中で男をあざ笑い、来週の日曜には決して公園に行かないと決めていた。

 後ろの方から私の乳房を揉みしだき、まるで恋人にでもするように耳朶を噛みながら男は言った。

「そういえばまだ名前を聞いてなかった。名前教えてくれよ奥さん。偽名でいいからよ」

「偽名でいいの?」

「おう」

「じゃあM137」

「はあ?」

 素っ頓狂な声を上げた男に苦笑しつつ、私は男の股間の器官を握って、指でしごいた。安ホテルの薄汚い部屋の湿ったベッドの上で、その器官は再び体積と硬度の大きな変化を表し始め、何かの期待に私の体温も再び上昇をし始める。まったくとんだ狐の嫁入りであるな……と私は自分自身も軽蔑し笑っていた。

 なぜか、

 その時、

 その肉を握りながら、

 私は目の前の男でも、また夫でもなく、あの「K626」のヌラリとした舌を思い出していたのだ。つい昨日の諏訪研究員のあの反応が衝撃的だったせいもあるだろうが……こればかりは理由がさっぱり分からない。

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