第11話


「もし木を切り倒すのに六時間の猶予が与えられたならば、私は最初の四時間を斧を研ぐのに費やすだろう……偉大なリンカーンの言葉です」

 仁科研究員は芝居がかった表情で重々しくうなずいた。裸体の男がリンカーンなど引用するとはいかにも場違いな感じである。どこまでも調子のいい男だった。

「何事も準備が大切だということですよね。準備さえしっかり整っていれば本番などサラサラ流れるように進行できるモンです。それこそ五分ぐらいで。はっはっは。それでですねチーフ。チーフにちょっと準備を手伝って頂けると助かるのですが」

 ほとんど爽やかなまでの仁科研究員のわざとらしい笑顔に対して、私の顔は強張っていたのではないかと思う。

「何を手伝うの?」

 嫌な予感はしていたが、私は席を立った。何はともあれ今は実験の最中であった。研究者にとって実験とは神聖なものである。

「これをお願いしますチーフ」

 仁科研究員はニンマリ笑いながら自分の股間を指差した。

「チーフはご存じかと思いますが、男の体というのはとても気分的でして。ムードというものにとても左右されてしまいます。今回は何しろこんな特別なケースですし……『彼女』は縛られておりますし……チーフのお手を拝借頂けると」

 仁科研究員は実験台の上の拘束された生き物をチラリと指差して、それからまた私を見てニンマリ。

 私は絶句した。仁科研究員の要求は理解出来た。私は三十過ぎの既婚者なので彼の言いたいことは分かった。だがその要求はいかにも不謹慎なものに思われた。この男は私にガイドみたいなことをしてくれと言っているのだ。

「あなたねえ……」

「いえチーフ、これは全くやましい所などないのです。大事な実験の一環でして。何でしたら今回の実験の詳細を丸ごと高木課長に報告しても構わないぐらいです。はい」

 高木課長というのは私の夫のことだ。彼とは部署が異なるので実験の詳細を報告する義務などはない。

「あなた私にガイドみたいな真似をしろって言うの?」

「まあムード的なものです。はい。こう気分を盛り上げる為の」

 仁科研究員の爽やか過ぎる笑顔が私を呆れさせた。この男はこんな調子で色々な女を口説きまくっているのだろうかと思った。

 その姿はあの昼休みに本屋で出会った若い男の正反対に見えた。

 あの内気そうな彼。

 私とただコーヒーだけ飲んだ人。

 あの時私はどうすれば良かったのだろう?

 どういう訳か、私はあの小事件についてひどく後悔していた。

「あなたねえ、私これでも一応結婚してるんです」

「はい。そこを何とか」

「不謹慎でしょう?」

「はい。その辺りを何とか曲げて頂いて」

 仁科研究員の調子の良さに私は危うく吹き出しそうになった。代わりに一つ長い溜息を吐いた。

 夫の顔を思い出す。

 彼は私が部下と実験中にガイド的なことをしたと知っても笑うだけだろう。そういう人だ。「仁科君の物は大きかったか?」とかそんな軽口も叩いたかも知れない。彼はそんな人なのだ。

「分かりました」

 言いながら私は自分の白衣の胸元のボタンを一つ外していた。

「三十分だけ仁科君の奥さんになればいいわけね?」

 どこかであの本屋の若い彼を思い出しながら、私は仁科研究員の顔を見上げた。意識して挑戦的な目つきを作った。彼はまだニンマリ笑っていた。

「実験の為ですから出来るだけ頑張ります。……何でしたらあなたの為にウェディングドレスでも着て来ましょうかしら?」



 その日私は流行のボブの髪にして、化粧は丁寧に行い、控え目な香水をつけて、黒のフレアのスカートを穿いて、足にはパンプスを履いていた。フェミニンという言葉があるが、その日の私は以前よりも「女らしく」見えていたかも知れない。

 あのヤクザ男との出来事があってからである。

 女らしさの正体なる物を私は知らない。ただ私は変わらなければならないと思っていた。私が変わることによって私自身が幸せになり、私の周りの人も幸せになる。正にそうならなければならないと思っていた。そうでなければ、あのヤクザ男との事は単なる醜い姦通行為に堕ちてしまう。私は前を向いて生きて行こうと思っていた。

 私は白衣だけを脱いで、その白衣を自分が腰掛けていた椅子に置いた。白いブラウスと黒いスカートだけの姿になって改めて仁科の前にしおらしく立った。

「何をしましょうか、旦那様?」

 そう私が言った時の仁科の表情は驚愕のものだった。まさか私がそこまで軟化してくれるとは思っても見なかったという感じだ。仁科とは二年ほどの付き合いになるのでお互いの性格は概ね分かっている。仁科が見たことのない私と、私が見たことのない仁科がそこにいた。彼はこれまで私が見たことのない程に頬を赤らめて、この上なく満足気な顔つきをして深々とうなずいた。

「いやあ、チーフが俺なんかの為にウェディングドレスを着てくれるとか……そんなシーンを想像しただけで幸せで死んでしまいそうですよ」

「あら、お上手ねえ。あなた何人もの女の人に同じ様なこと言ってるんでしょ」

 仁科は如才ない顔つきをして自分の両腕を軽く広げた。私の方から飛び込んで来いと無言で言っている。年上の女に対する挑発である。私は口を引き結び、結婚でもするみたいな決意で足を二歩進めた。そんな風にして男の裸の胸に抱かれた。

 


 それから新婚夫婦がするような行為が始まった。

 あくまで実験行為の一環として私は割り切って、仁科の男性器に愛撫を加えた。彼の前にひざまずき、よくあるように手で彼の高まりを促す作業をした。そういう行為は誰にでもお馴染みのものだが、もしかしたら私が夫に対しての純潔を失っていなければ出来なかったかも知れない。あのヤクザ男は私を確かに少しばかり変えさせたのだ。

「お上手ですチーフ」

 上の方から私を見下ろしながら仁科が言った。

「いつもチーフにこんな事をしてもらってるなんて高木課長が本当に羨ましい。俺は前々からチーフのことを素敵な女性だと思っていたんですよ」

「こんな時に何を言っているの、調子いい」

 私は仁科研究員の顔は見ないで、目の前にある作業を続けた。包皮を剥いて戻し、また剥いて戻しの単純作業である。だがそんな単調なリズムにも若い男の体はちゃんと反応していた。

「チーフ浮気とかなさったことはありますか?」

「知りません」

 充血した来た仁科の海綿体は夫の物より、そしてあのヤクザ男の物より大きかった。色も形も微妙に異なる。男の体というのも個体差が大きいらしいのが科学者として興味深かった。

「本当はこんな新生物娘とかではなくてチーフみたいな女性と出来たら最高なんですけどねえ。チーフのことをこんな風にベッドにすっかり縛って拘束して。どうですかチーフ、今度ヒマな時に?」

「何言ってんの、もう」

「こう実験台の上にチーフをしっかり拘束して……もちろん服は着たままです。その着衣をハサミで一枚一枚切り開いて行って……くう、たまらないな」

「勝手に想像してなさい」

「チーフが意外にナイスバディなのは知ってますよ俺。白衣の上からでもチーフの女性らしい肉付きの良さは隠しようもありません。色も白いですし、さぞや生々しい感じなのでしょうね、チーフのお肌は」

「仁科君がそこまで嫌らしいとは思ってませんでした」

「チーフは御主人と週に何回ぐらいこういうことをなさるんですか? こういうことというのはメイクラブのことですが」

「知りません」

「チーフはベッドインの時ネグリジェですか、それともパジャマ? もちろんネグリジェですよね?」

 私は仁科の質問責めに吹き出しそうになっていた。こういう調子の良さでこの男は世間をスイスイと渡って行くのだろう。

「私のネグリジェ姿が見たかったら今から着て来ましょうか?」

「素晴らしいです。チーフは最高に素敵な女性です。そのネグリジェ、色はピンクですよね?」

「はい」

「今日の下着は何色ですかチーフ?」

 私はとうとう笑ってしまい、もう呆れたのだか諦めたのだか、自分の両手でスカートの裾を摘まんで捲って見せた。自分の下着と二本の太い脚を。

 ほんの二秒間だけ。

 床の上に膝立ちした姿で。

 どうやら私はまたあの「回転しているコマ」になってしまったらしい。

 男は大喜びして「もう一度」と言ったので次は十秒間だけキープした。女の上司が部下の男にこんなことをしているのはどこからどう考えても馬鹿げている。馬鹿げているのだが、どうした訳か人間というのは時折馬鹿なことをしてしまう。

 女の下着というのは男の下着とは別物で、装飾的であり、明らかに鑑賞者の目を意識している。普段は隠されていて、決して人目には晒さない物であるはずなのに。

 それは芸術作品と同じで鑑賞者がいて初めて意味がある物になるのだ。

 その日私が穿いていた下着はおばさん臭い物ではなく、それなりに装飾的で「女らしい」品物だった。色は桔梗色であり、趣味も悪くなかったと思う。その私の「女らしさ」を象徴する品物は、男という鑑賞者の目に晒されて初めてその存在意義を発揮し、その満足に打ち震える。男の大喜びした顔が女を興奮させる。自分のスカートを捲っていた私の指は、その十秒間カタカタと微かに震えていた。興奮によって。

 そうだ、女のスカートというのはこんなに簡単に捲ることが出来るのに、どうしてあの本屋の若い彼は捲ろうとしなかったのだろう。私に何もしようとしなかったのだろう。コーヒーなど飲んでる場合だったろうか?

 ゆっくりコーヒーなど飲んでる間に女はお婆ちゃんになってしまうことを、あの坊やは知らなかったのだろうか……。

 仁科は私を立ち上がらせると背中の方から手を回して私の胸をブラウスの上から掴み、私の耳元に口をつけた。確かめるように私の胸を揉み上げてその量感を褒め、ブラジャーのカップを問う。私はそのままのサイズを答えた。夫との性生活についてまた訊かれたが私は澄まして知らんぷりをする。耳元で仁科がまた私のことを素敵だと言った。

 私の髪形や香水を褒めて、私の体が豊かであるとまた褒める。私の主人が羨ましいとまた褒める。言いながら彼の手が動く。柔らかく柔らかく私の乳房が揉み上げられて、私の口から勝手に吐息が漏れた。

 また仁科が私の耳元で小声で問う。

「キスしたい?」

「したくありません」

 体を正面に向けられ、まるで恋人同士のようなキスをされる。こんな三十過ぎのおばさんが若い男に口を吸われて、その恥ずかしさで私はフッと気が遠くなる。体から力が抜けて、一部分が濡れて来るのがはっきり分かった。

 その後、耳元で囁かれた若い男の要求に、私は催眠術にでもかかったかのようにうなずいていた。男の股間にしゃがみ込んで、彼の腰から下着を外した。足首から抜き取って傍らに置いた。一呼吸、二呼吸ためらってから、その彼の求める口を使う行為をした。

 何というか最もガイド的な行為である。

 ボブにした私の黒髪が前後に揺れて、頬の内壁が密着しながら往復運動する。

 私は唇と口腔と見上げる目で、たおやかに行為をした。女の上司が部下の男の射精をこんな風に促すとは。

 本当に馬鹿げている。

 他に人も見ている。

 けれどもその頃にはもう吉沢研究員や諏訪研究員の目はほとんど気にならなくなっていたのだ。これはあくまで神聖な実験の補助行為である。そういう正当な理由が私にはあった。もしかしたら後ろめたい所のある人間ほど、自分を美化・弁護・正当化してくれる理屈にしがみつくものなのかも知れないが。

 私はほんの数日前にもヤクザ男に同じことをしていた。あの獣みたいな男。夫以外の初めての男だった。あの男は私に色々な悪いことを教えた。

 夫を裏切ることと、そのやましさや背徳感を細かな震えによって忘れてしまうこと。

 パンプスを履いたままベッドで体を開くこと。

 肉の棒の新しい吸い方。

 新しい体位。

 短い間に怒ったり泣いたりすること。

 屈辱感が時として快感に変わってしまうこともあること。

 夫以外の男の精を子宮で受ける時の特別な感覚。

 何はともあれ、今となってはあんな形で結ばれたことを私は後悔していない。自分が汚れたのではなく、変わっただけなのだ。

 私は夫を愛している。

 それは間違いない。

 あのヤクザ男に抱かれた時もそんな確信が湧いて、私は不思議な気分だった。今もそうだ。明らかに矛盾しているのに、なぜか正しいことをしている感覚。その矛盾の正体はもしかしたら安っぽい自己美化・自己弁護・自己正当化に過ぎないのかも知れないが……。

 どのくらい飲み込んでいたのだろう。仁科は私を立ち上がらせた。

「濡れてる?」

 とまた耳元で訊くので私は小さくうなずいた。

「じゃあ、ちょっとしましょう」

 仁科は傍らにある実験台の前に私を立たせ、そうして私の上体をその上に突っ伏させた。私は「M136」の大きく開かれた下肢の間に上半身を伏せる形になった。ぼんやりと投げ出した私の視線の先には牝の獣の女の部分があった。仁科が後ろから私のスカートを捲り上げた時も、私は牝の獣のその部分を見ていた。そうしてこんなことを思っていた。

 この流れは仕方ない。

 当たり前の展開だ。

 もう大分前から仁科とのセックスは始まっていたような気がしたのだ。いつからと言えば……私が笑ってしまった時から。

 その時の私は回転をしているコマだったのだ。

 


 目の前には牝の動物が股を広げた状態で拘束されていた。

 新生物。

 おぞましい牝の怪物が。

 私の目の前にある「M136」の毛に包まれた部分は濡れていた。この女はさっき仁科にほんの少しばかり可愛がられただけで、こんなに濡らしていたのだ。その事実に私は苦笑する。

 私と全く同じではないか。

 その部分は貝のようにも、あるいは刀を収める鞘のようにも見えた。男性器という刀を収める鞘。まさにこれからそういう役割をする訳だ。

 この牝が?

 それとも私が?

 私は苦笑せざるを得ない。

 おまけにこの牝のその部分からは何か嫌な臭い――ヨーグルトと尿と海藻をまとめて発酵させた様な生臭い動物的な臭い――がきつく放たれていた。それは実験室中を満たす程の濃度であり、私は顔をしかめた。その臭いはあの「K626」の舌を思い出させるものでもあった。

 実験台の上に私を伏させ、仁科は私のスカートとその下のスリップをまとめて背中の方に大きくたくし上げた。私の尻を撫でて私の下着を褒めてから、その下着を尻から膝の辺りまで引き下ろした。

 これは仕方がない。

 そういう「なりゆき」なのだ、と私は思っていた。

 仁科は私の両脚を鳥居の様に開かせた。

 私はパンプスを履いたままの脚に力を入れて、床を踏ん張った。挿入の衝撃に備える為の体勢だった。

 その時ぼんやりと思い出していたのは夫の顔ではなく、あのヤクザ男の顔だった。

 あの狐の嫁入りの時と同じだな、と思っていた。

 こういう「なりゆき」なのだから仕方ないのだと。

 私という女はつくづく「なりゆき」に弱いのだなと。

 仁科が私の尻にまたがり、固い「刀」が私の「鞘」に宛がわれた時、私の頭は真っ白になった。

「いくよチーフ」

 という仁科の声に私は確かにうなずいた。背徳感のあまり背骨がぶるっと震えて、その震えがカタカタと止まらなかった。あのヤクザ男に抱かれた時もこんな風に震えていたっけ……と私は自分の気の弱さを笑う。神聖な実験中に部下の男とこんなことをしてしまう自分を笑う。笑って笑って私というコマは回る。

 これは仕方がない。

 そういう「なりゆき」なのだから。

 どこからか男の声が遠く響いたような気がしたが、よく聞こえなかった。私はただ入って来るのを待っていた。

 何か男が逡巡してるかのようで、また誰かの声が響いた。

「おいおい仁科。お前調子乗り過ぎだ」

 吉沢研究員の声だった。

 呆れたような怒ったような正しい声。

 現実世界に呼び戻す響き。

 そして仁科の苦笑した顔。

 男が私の尻から下りたのが分かった。

 若い殿方のお遊びの終了。

 私というコマの回転が止まり、コロリと倒れた。

 下半身をすっかり裸にして、私は乗り捨てられた馬のようだった。



 それからどうなったのだろう。

 何しろその時の私は夢でも見ているような感じだったので記憶もぼやけている。

 牝の声と臭いがあの実験室の中に充ちていた。

 仁科研究員が実験台の上であの牝の体の上に乗って、せわしなく腰を使っていた。そういう様子を私は椅子に腰掛けてぼんやりと眺めていた。私の右隣では諏訪研究員がすっかりうつむいてしまっていた。左隣の吉沢研究員はじっと動かなかった。

 あの時の部屋中に充ちていた空気は何だったのだろう。

 暑くて、臭くて、不快であるのに人を興奮させるようなもの。

 仁科が牝の動物に嫌らしい言葉をかける。交わりながら獣を笑う。私自身が笑われているようで、私はたまらずに顔を伏せてしまう。世の中にはこんな種類の失恋もあるのかと思う。

 行為は続く。また仁科が牝に嫌らしい言葉をかける。部屋の空気が粘つく。ふと見ると、いつの間にか、吉沢研究員が私の膝に手を置いていた。

 その手は私の膝の上で私の手を握った。真面目で朴訥な吉沢研究員がこんなことをするのに私は驚いた。けれどもその手は振り払わなかった。

 実験台の上では「M136」の四肢を固定した拘束具の金属音がリズミカルに鳴っていた。仁科研究員の盛り上がった尻がダイナミックに動いていた。

 部屋の温度がぐいぐいと上昇しているかのようだった。私の手にも汗が滲んだ。私の手を握る吉沢の手もじっとりと熱い脂汗が滲んでいた。勇気を振ってちらりと横を見ると、吉沢のズボンの股間の前の部分が膨らんでいた。

 私は一度唾液を飲み込んで、彼の手をそっと握り返した。私の膝の上で吉沢の指と私の指が絡み合う。二つの湿った手が静かに動いた。

 私と吉沢の指がしっかりと絡み合った時、実験台の上では仁科研究員が実験のフィニッシュを知らせる声を上げて……「M136」の子宮の中に射精していた。

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