100 さびしさが鳴る中でオムレツを食べる。

 三桁!

 三桁に突入しましたよ。


 やったー。

 ということで、今回が最終回です。

 よろしくお願い致します。

 

 さて、と仕切り直して始める話として適しているか分かりませんが、一月の終わりに祖母が亡くなりました。

 葬儀の為に二月の頭は実家へ帰っていました。

 そこで僕は親戚の子ども(いとこ)たちと仲良くなりました。


 いとこは四人いて、一番上が二月の頭の時点で中学三年生の女の子。

 一番下が小学三年生の女の子でした。その間に挟まるように男の子が二人いました。

 その四人のいとこたちと僕(二十七歳)と弟(二十六歳)がトランプやUNOで遊びました。

 祖母が生きていた頃は、僕らを含んだ六人が集まることはありませんでした。


 葬儀が終わって、いとこたちと別れる時にお盆にも必ず帰ってきてよと言われました。

 僕と弟は、もちろんだと答えました。


 そんな訳で先日、僕はお盆に休日を無理矢理とって帰省してきました。

 祖母の家まで車で送ってくれたのは母でした。


 母がいとこの中で一番上の女の子の話をしました。

 名前を便宜上つけたいと思います。最近、行った職場の飲み会で主婦の方がお子様を連れて来られていて名前が可愛かったので、そこから拝借して、さーやちゃんにしたいと思います。


「さーやちゃん、お父さんと二人でこっちに前乗りしていてね。昨日、会ったの」

「へぇ」

「なんか、こっちで行きたいところがあったらしくてね」


 ふむふむと聞いたところ、さーやちゃんは立派なオタクになっているようでした。

 どうもアニメ関係のお店に行きたくて前乗りし、ネットで知り合った人と会う約束もしていたのだとか。


「あんたさ、ちょっと話相手になってあげてよ」

 ん? 

 んー、現在二十八歳の成人男性と女子高生の女の子が、どんな会話をするのでしょうか?


 そんな心配をしていましたが、祖母の家に行きさーやちゃんの顔を見た瞬間、母の言わんとすることが分かりました。

 彼女は決して大人ではありません。

 しかし、無邪気にトランプやUNOだけを楽しめる程、子どもでもなくなっていました。


 簡単に言えば、さーやちゃんは祖母の家で居場所を失っていました。

 親戚の集まりの中で、持ってきた宿題を黙々とする彼女の姿には、どこにも落ち着けない自分を無理矢理にいつもの宿題の中に押し込んで呼吸をしようとする痛々しさがありました。

 その姿は綿矢りさの芥川受賞作「蹴りたい背中」の冒頭のようでした。


 ――さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締め付けるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。


 解説の斉藤美奈子は、この冒頭を「聞こえない音まで聴いてしま」っていると書きます。

 まさにさーやちゃんは聞こえない音を聴いていました。そして、その音と共に沈み込むように宿題に勤しんでいました。


 いとこたちに呼ばれれば、もちろんゲームに参加しますし、声を掛ければ答えてもくれます。

 それでも彼女は彼女にしか聴こえない音の中にいました。


 僕は子供たち遊びつつ、叔父さんたちと酒を飲むというのを繰り返していたのですが、途中から僕だけがテーブルで一人ビールの注がれたグラスに口をつけるようになりました。

 ふと隣を見るとさーやちゃんが宿題をしていました。


「ねぇ、『かぐや様は告らせたい』って面白いよね」

 その瞬間の彼女の目の輝きに僕は圧倒されました。


「面白いですよね!」

 と同意した後から、さーやちゃんと僕はアニメの話をしました。

 僕が知っているアニメ作品は『かぐや様は告らせたい』以外まったく同意してもらえませんでした。

 高校一年生とアニメ談義をするには僕は勉強不足でした。勉強の意味もこめてさーやちゃんの好きなアニメを教えてもらいました。


 お正月に会う時には、もっと軽快なアニメトークをすることが現在の僕の目標です。


 というのは死ぬほど、うざいオッサンなので、どうしたものか……。

 なんて考えていますが、次に会ったらアニメとかどうでも良くなって僕の弟と一緒に恋愛談義をしている、というオチの可能性もあります。

 弟の恋愛話は面白いんですよ。

 面白過ぎて僕は彼の恋愛を小説にして、学校の作品集に載せたことがあります。


 いや、まぁそんな過去は置いておいて。

 少なくとも好きなアニメの話をする時、さーやちゃんの耳にさびしさは鳴っていませんでした。


 僕は思います。

 やっぱり物語は凄い、と。


 物語は空腹の足しにはなりませんし、時計技師のような生活に根差した必然性もありません。

 しかし、物語は耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音、さびしさの音を止めることができます。


 人が抱く感情の傍に物語はあります。

 どうしようもない孤独の傍にも、

 突き放したような残酷な現実の傍にも、

 理不尽な悔しみに堪える傍にも、

 大切なものを失った日の傍にも、

 物語はあります。


 それは傍にあるだけで、具体的に何かをしてくれる訳ではありません。

 けれど、傍にいてくれます。


 一人ですが一人ではない。

 そんな矛盾を物語はもたらしてくれます。

 物語を傍に置いていると、時々誰かと繋がれたり、僅かでも心地のいい時間を過ごせたりします。


 僕はそんな物語の役割に幾度となく救われてきました。

 この先の人生でも物語はあらゆる局面で救ってくれることでしょう。


 物語は救いです。

 結論としては非常に在り来たりです。

 オムレツを作るためにはまず卵を割らなくてはならない、と同じくらい当たり前な話です。


 そんな当たり前なところから、このエッセイは始まりました。

 終わりも、またそんな当たり前で終わりたいと思います。

 長い間のお付き合いありがとうございました。


 次は「オムレツの中はやわらかい方がおいしいのか?」でお会いしましょう、みたいな感じで……。


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オムレツを作るためにはまず卵を割らなくてはならない。 郷倉四季 @satokura05

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