99 頭の良い男とあまり頭の良くない男の話。

 前回、随分長い話を書いてしまったなと反省しています。


 誤解なく自分の想いを伝えようとした結果の二分割でしたが、読む側からすれば不必要な情報のオンパレードの上に重い話に戸惑わせてしまったかも知れません。

 何であっても率直に伝えることが最良の方法ではないと改めて思った次第です。


 だからこそ人は物語を書くのでしょう。

 僕が伝えたいことは「南風に背中を押されて触れる。」という小説に詰め込んだつもりでしたが、カクヨムで連載しているうちにエッセイの言葉でも語っておきたい欲が出てしまいました。

 戸惑わせてしまった方、不快に思った方、申し訳ありませんでした。


 今回は前回のエッセイを書いている最中に、頭の中に浮かんでいた村上春樹の文章を取っ掛かりにして進めたいと思います。


 村上春樹がが子供の頃何かの本で読んだという「頭の良い男とあまり頭の良くない男が富士山を見物した」話なのですが、少々引用させてください。


 ――頭の良い方の男は富士山を麓のいくつかの角度から見ただけで、「ああ、富士山というのはこういうものなんだ。なるほど、こういうところが素晴しいんだ」と納得して帰っていきます。とても効率がいい。話が早い。

 ところがあまり頭の良くない方の男は、そんなに簡単には富士山を理解できませんから、一人であとに残って、実際に自分の足で頂上まで登ってみます。そうするには時間もかかるし、手間もかかります。体力を消耗して、へとへとになります。

 そして、その末にようやく「そうか、これが富士山というものか」と思います。理解するというか、いちおう腑に落ちます。

 小説家という種族は(少なくともその大半は)どちらかといえば後者の、つまり、こう言ってはなんですが、頭のあまり良くない男の側に属しています。


 僕は間違いなく頭の良い人間とは遠い場所にいる人間で、あまりと言うか、単純に頭の良くない人間です。

 ちなみに、村上春樹の文章は以下のように続きます。


 ――(小説家の大半は)実際に自分の足を使って頂上まで登ってみなければ、富士山がどんなものか理解できないタイプです。

 というか、それどころか、何度登ってみてもまだよくわからない、あるいは登れば登るほどますます分からなくなっていく、というのが小説家のネイチャーなのかも知れません。


 僕は一応、エッセイを99回まで続けて何作かの小説をカクヨムに掲載していますが、書けば書くほど僕はエッセイや小説が分からなくなっています。

 同時に前回の話ともやや通じますが、現実に自分の人生で起きたことについて繰り返し考えていると、本質(のようなもの)から離れていく感覚に囚われます。


 手を伸ばして、それを捕まえなおそうとすると以前に触れた感触とは異なることに気付きます。

 僕が変わったのか、もしくは他の何かが変わったのかは分かりません。ただ、何かは確実に変わったのです。

 おそらく、その時、僕はまたそれを小説にするのでしょう。


 小説家が同じモチーフやテーマを使って繰り返し作品を書くことがあります。

 それは小説家の中にあるモチーフやテーマを改めて考えた時、その手触りが変わったように感じたからこそ、もう一度向き合った結果なのではないか。


 そんなことを考えていると、別の方向もあると気付きました。

 作家のよしもとばななの作品は同じモチーフやテーマが繰り返し使われます。

 そのモチーフやテーマを言葉にするなら、

「如何に喪失や痛みから立ち直るか」

 です。


 それに関する発言とは少し遠いのですが、宮本輝との対談で以下のようなことをよしもとばななは言っていました。


 ――よしもと 何年も前、文藝春秋の元社長の平尾さんに「よしもとさんはご両親が年をとってからの子どもだから、時の流れに敏感なんだね」と言われて。

 それでハッと気づきたのは、私は幼い頃から親が死ぬのがいつもものすごく怖かったんです。同じ年の子の親がめちゃくちゃ若いのに、うちはそうじゃなかったから。


 初期のよしもとばなな作品を読み返すと、本当に常に両親の死や恋人の死が描かれます。

 それはよしもとばなな自身が親や恋人の死を恐れていたからなのでしょう。


 よしもとばななは大切な人が生きている内から、その人の死や喪失に備える為に小説を書いていたように僕は思います。

 人生の中で必ず起こる悲しみや喪失に対し、どのように対処するか。あるいは、まだ起っていない悲しみや喪失に対し、どのような準備をするべきか。


 そういった点で僕はよしもとばななの作品群に惹かれていたように感じます。

 小説を書く時、既に起ったことをモチーフに書く場合と、まだ起っていないことをモチーフに書く場合があります。

 そのどちらもにも意味や価値が付随しますが、個人的に気になるのは、まだ起っていない出来事だからこそ生々しくリアルに描かれる瞬間についてです。


 小川洋子の初期作品「冷めない紅茶」で以下のような一節があります。


 ――わたしは本物の水死体を見たことがなかった。だから、思い切りグロテスクな水死体を想像することができた。


 見たことがないからこそ、より生々しい想像ができてしまう。

 それこそが小説に必要な想像力のようにも感じます。

 体験したことだけを小説にするのであれば、それは私小説やノンフィクション小説という分類になってしまいます。


 もちろん、それも小説ですが、小説の最も魅力的でかつ厄介な部分は見たいことがなくとも書けてしまうことです。

 水死体のように。


 見たことがないものに対する想像力については、村田沙耶香が西加奈子との対談で語っていたのを見かけたことがあります。

 タイトルは「人間の外側へ」で、その対談の最後に

「人間の外側にまだまだ言語化されていない世界があるはずだと信じて、これからも走り続けていきたい」

 と締めくくります。


 人間の外側にはまだ言語化されていない世界があることは間違いありません。

 それを小説であれば表現できる。

 小説には多くの役割を持っていますが、その一つが「人間の外側にある言語化されていない世界」について書くことでしょう。


 話を戻します。

 僕は村上春樹が言うあまり頭の良くない男です。

 一つの出来事やモノに対して理解できずにグルグルと考え続け、へとへとになるまで体力と時間を使って、ようやく納得のようなものをします。

 そして、それを小説という形にします。

 一度、小説にしたものを時間が経った後に眺めると、本当にそうだったのかと疑問に思います。


 そうして、また小説を書きます。

 小説を書くことで何かを理解できる訳ではありませんが、想像の力は時に人間の外側にある言語化されていない世界に到達することはあります。

 僕が体験し考え言葉にしている世界の外側の景色。

 それが見える瞬間の為に僕は小説を書いている気がしています。


 さて、今回が99です。

 次の100で「オムレツを作るためにはまず卵を割らなくてはならない。」は終わりです。よろしくお願い致します。

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