其の九

 こうなることも想像できたのに。

 こうなることを想像していなかった。



 ぐったりした彼女を抱きかかえ、エアコンの効いた部屋に戻る。

 布団は敷いていなかったので、一旦フローリングに下ろし、布団を敷いてから彼女を寝かせた。

 呼吸は乱れていないし下半身からの出血もなさそうだが、熱が出ていて袈裟がけの創傷もあるので安心はできない。

 蛍光灯の下で上衣をはだけると、暗い中よりも生々しく2本の傷が確認できた。

 うん、大丈夫。全然大丈夫じゃないけれど。

 豊かで張りのある乳房にも、綺麗なくびれにも、今はそそられない。

 化け物にでも引っかかれたような2本の傷は、意外にも浅そうなのが救いだ。

 しかし、何に傷つけられたのかわからず、毒がないとも限らない。

 消毒液を持っていないので、災害時用に買っておいたミネラルウォーターを開けて傷口にぶっかけた。

 固まりかけていた血液と泥がふやけて流れると、清潔なタオルで傷口を軽く叩く。

 血が止まったように見えたが、白い肌に赤い線が再び現れる。

 誰かにもらったけれど使ったことがない亜鉛華軟膏を持っていたことを思い出し、もう一度血液を拭いてから患部に少量の亜鉛華軟膏をつけてみた。

 ぴくん、と彼女の肢体が震え、紅い唇から色っぽい声が漏れた。

 駄目だ。俺が感じそうになってしまう。

 俺は汗ばむ手をズボンで拭いて、天井を仰いだ。



 俺のせいだ。

 俺が「無事に帰ってきて」なんて言ったから、かえってプレッシャーを与えてしまったのだ。

 本当は彼女と一緒にいてはいけないんだ。

 一緒にいたいと思うこと自体間違っていたんだ。

 食われてもいいなんて、中途半端な気持ちで言ったんじゃないのに。

 ならばせめて、失言の後始末をしなくては。



 彼女にタオルを噛んでもらい、ありったけの亜鉛華軟膏を患部に塗布した。

 もう彼女を動かせないと思い、半裸を隠すようにタオルケットをかける。

 噛ませたタオルを外すと、彼女はゆっくりと目を開けた。

 琥珀みたいな綺麗な色の瞳が茫然と天井を見ている。いつもの黒目ではなかった。

 顔周りの汗を拭いてあげると、髪の中の硬いものに当たった。

 少し髪を梳いてみると、硬いものの正体はすぐに知れた。

 角だ。こめかみの少々上、彼女が恥ずかしがるときに手で押さえる部分に、硬くとがった角が生えている。

 彼女は鬼なのだと、改めて気づかされた。

 でも、怖くない。角がちっちゃくて可愛い。



「……ユウキくん?」

 彼女が口を開いた。ちらりと八重歯がのぞく。

「ただいま、帰りました」

 彼女がぱちぱちとまばたきをすると、瞳は琥珀色から黒色へ戻っていた。

 起き上がろうとする彼女を止めながら、俺は心の中でほろほろと崩れるものを感じた。



 とりあえず落ち着いて、安心した。

 ぐったりとした様子の彼女を見たときは、死んでしまうかもしれないと思ってしまった。

 でも、嫌ではなかった。

 危なっかしい彼女をもっともっと心配して、傍にいたい。



「おかえりなさい……カエデちゃん」



 俺は初めて、彼女に“おかえり”と言った。



 翌日、急遽仕事を休ませてもらった。

 驚異的な回復力で怪我が治った彼女だが、熱が引かないのだ。

 課長は理由を聞かずに欠勤を許可してくれたが、「飯田に三つ目の熊が出たって噂になっているけど」と言われ「知りません」と電話を切った。

 本当に知らない。察しはつくけれど。

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