もみじな彼女と平凡な俺と
紺藤 香純
其の一
「オイカワくん、もう上がっていいよ」
ぼてっとした声に呼ばれた。
いつの間にか、課長が
「カツカレーの彼女、来るんでしょ? もう時間だから、上がっていいよ」
課長は何でもお見通しだ。
俺が自分の胸ポケットに触れていたことに、俺より先に気づいている。
「すみません、お先に失礼します」
課長も、近くにいた職員も、にやにやにこにこ笑って俺を送りだしてくれる。
俺は胸ポケットのICカードを出し、タイムレコーダーに退勤の打刻をした。
庁舎を出ると、むわっとした熱気が全身にまとわりつく。
夏は嫌いだった。特に、
浅間山だとか八ヶ岳だとか、四方をぐるりと囲む山が熱を逃がさない感じが嫌いだった。
生まれ育った長野県が嫌いだった。
「雪女」とか「天の羽衣」とか、昔話が嫌いだった。
嫌いだ、嫌いだ、と言い続けて、今年で29歳。
“嫌いだ”は“嫌いだった”に変わっていた。
エアコンをがんがんに効かせて車を走らせる。
アパートの近くの交差点で赤信号になってしまい、停止していると、横断歩道の手前で青信号を待っている“彼女”の姿が目に入った。
どうしよう。エアコンが効いているのに、顔が熱い。
彼女は、アパートの駐車場で俺を待ってくれた。
最高気温35度なのにしっかり着物を着て、長い黒髪はゆるふわのお団子にして。それなのに、グラビアアイドル系の可愛い顔立ちが何とも憎めない。
「こんにちは、ユウキくん」
彼女は、見本のような丁寧なお辞儀をした。俺より若く見えるのに、所作は洗練されている。
「畑に行っておりました。ナスとトマトと、ズッキーニが
ほら、と手持ちの籠を見せてくれる彼女。
クラフトバンドで編まれた籠の中には、とれたてつやつやの野菜が顔をのぞかせている。黒と赤と緑の宝石箱みたいだ。
「今日はバイトだったんでしょ? それなのに、畑まで取りに行ってくれたの?」
「はい……あの」
形の整った眉がハの字になる。
ご迷惑でしょうか、なんて言葉が出る前に、俺は籠ごと野菜を受け取った。
「カレーでもつくるよ。カツはないけど」
彼女は「カツは忘れて下さいませ」と白い頬を紅く染め、こめかみの少々上を両手で押さえる。
ぬるい風が彼女の髪をもてあそぶ。
髪に引っかかっていた青いもみじが宙を舞った。
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