其の七
夏は嫌いだった。
だって、暑いから。
夏はそこそこ好きになった。
避暑地に出かける口実になるから。
8月13日に夏季休暇を使って、安曇野の実家に帰省した。
祖父母と両親と一緒に盆迎えをして、酒は飲まずに夕飯だけ食べて、その日のうちにアパートに帰った。
両親から「お相手でも探してこようか?」と心配されたが、そこは笑ってごまかす。
29歳にもなって身を固めないひとり息子を、両親はどうにかさせたいのだ。
彼女に甘噛みされた左手の薬指に目をやることが多くなった。
歯型はすぐに消えて絆創膏も外してしまったが、歯の硬さだとか「結婚したの?」と周囲にからかわれたことは頻繁に思い出してしまう。
できるだけ彼女と一緒にいたい。
彼女に食われる結末になったとしても、最後の最後まで、許される限り。
それが無理なことだと頭では理解しているが。
盆迎えから1週間後。
また1日だけ夏季休暇を取って、久々に日帰り旅行の予定だ。
「誰と」なんて、わかりきったことは訊かないでほしい。誰からも訊かれていないけれど。
今日は朝早く起きて車を洗う。
朝とはいえ、外気温も湿度も高く、車と一緒になってホースの水を浴びたい気持ちだった。
洗車を終えると、さっさとエアコンの効いた部屋に入り、シャワーを浴びて汗を流した。
汗臭い状態で彼女に会うわけにいかないからな。
彼女がアパートの駐車場に来てくれることになっている。
人目につくところでは電車やバスで移動しているけど、長距離の移動は“裏技”を使っているんだって。もみじを大量発生させて瞬間移動。俺にしてみれば、“裏技”じゃなくて超能力なのだが。
約束の10分前、8時50分に、彼女はすでに駐車場にいた。
「おはようございます」
いつものように丁寧に頭を下げる彼女。髪に引っかかっていた青もみじが、地面に落ちた。
俺はすぐに挨拶を返すことができなかった。
今日の彼女は、洋装だった。
薄いピンク色のブラウスに、グレーのフレアースカート。
髪は下ろしていて、胸元にはネックレスの小さな宝石が光っている。
「……可愛過ぎる」
思わず感想をこぼしてしまった。
彼女は頬を紅くして、こめかみの少々上を両手で押さえる仕草をした。
普段は着物に隠れている腕と脚は、ファッションモデルばりに細く白い。パンプスなんか履いて、転んで怪我をしないか心配だ。
着物より布の量が少ないから、目のやり場に困る。
でも、究極に可愛い。
この前の
目的地は、軽井沢。時間はかかるが、一般道で行く。
「軽井沢に行くのは初めてです」
「そうなの?」
意外だった。悪霊を追いかけて各地をとび回っているイメージだったから。
「ですが、白糸の滝には行ったことがあります。正確には、着地に失敗して滝の中に落ちたのです。20年くらい前に」
急に何を言い出すんだ。ブレーキとアクセルを踏み間違えそうになったじゃないか。
「冬の明け方でしたので、とても寒うございました。びしょ濡れで
彼女は明るいトーンで笑い話のように喋るけど、全然笑えない。
天然ゆえか、けっこうな無茶をするようだ。
そもそも、犬猫も黙る鬼女も風邪をひくのか。
赤信号で停止し、ちらっと彼女に目をやる。
彼女は早くもうつらうつらと舟をこいでいた。
シートベルトが胸の谷間にくい込んで、だいぶバストが目立っている。
変な想像をするまいと、俺は目の前の信号に意識を集中させた。
彼女は生半可な気持ちで素性を明かしたわけではないだろう。
そんな彼女のために俺ができることは、何だろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます