其の六

「オイカワくん、大至急おつかい頼まれてちょ」

 篠ノ井支所に書類持って行ってくれる?

 課長に頼まれ、午後一番で長野市役所の篠ノ井支所に向かった。

 長野市は、平成の大合併で近隣の町村を編入している。

 平成17年に、上水内郡豊野町、戸隠村、鬼無里きなさ村、更級郡大岡村を。平成22年に、上水内郡信州新町、中条村を編入した。

 俺が小さい頃は町とか村だったから、今は長野市の一部だと言われても実感が湧かないことがある。



 書類を篠ノ井支所の担当の人に渡し、おつかい終了。

 しかし、篠ノ井には懸念事案がある。

 知り合いに会わないことを祈りながら、篠ノ井のコンビニに寄った。

 いらっしゃいませ、と耳に馴染みのある声が迎えてくれた。

 コンビニの制服に身を包んだ女性が俺を見て、こめかみの少々上を両手で押さえる仕草をした。

 見間違えるはずがない。彼女だ。

 遠目でもわかる整った目鼻立ち、色っぽい声、恥ずかしいときのあの仕草。今日は長い髪をひとつに結っているけれど、洋服にはそのくらいが丁度良い。

 俺は筆記用具を探すふりをして、レジを盗み見る。

 タブレットを持った男性店員が彼女に近づいて何か訊ねていた。

 俺と年齢が近そうな男だ。多分、あの人が店長だろう。

 銀行やお固い会社にいそうな地味な顔だ。会話の内容はわからないが、喋り方がはきはきしている感じがする。意外にも体育会系なのかもしれない。

 でも、彼女は明らかに引いている。困った顔が可愛いけれど、そんな顔を従業員にさせるなよ、店長。もしかして、嫌がられていることに気づいていないのか。

 用事は済んだようなのに、店長は話を伸ばそうとする。

 端から見ている俺でも、良い気分ではない。

 店長が俺に気づいたように首を動かした。

 俺はすぐに棚の陰に隠れ、雑誌コーナーに避難する。

 購入予定のなかった、県内のガイドブックを選んでレジに持って行くと、店長が出しゃばってレジを打ってくれた。

 その隙に、彼女はレジを離れる。

 店長は「ありがとうございました!」と昭和の高校球児のような爽やかな挨拶をしてくれたが、印象が好転することはないだろう。



 コンビニを出ると、目のくらむような日光と湿気をたっぷり含んだ微風が待ち構えていた。

 そんな最悪の環境で、彼女が駐車場の草むしりをしている。

 オリーブ色のスキニーパンツに収まる丸いお尻を、無意識に注視してしまった。いけない、いけない。

 こっそり近づいて、買ったばかりのガイドブックで光を遮ってあげると、彼女は顔を上げた。涙でうるんだ瞳が俺を見つめてくれる。

 俺は彼女の隣にしゃがみ込んだ。

「おつかれさま」

「おつかれさまです」

 白くてきめの細かい頬が紅潮している。暑そうだ。暑いよね。俺も溶けそうだ。

「昨夜は申し訳ありませんでした。夜遅くまで上がり込んで、眠ってしまって」

「泊まってよかったのに」

「そういうわけには参りませぬ」

 彼女はビールに酔って眠った後、日付が変わらないうちに目を覚まして帰っていった。

 夜は「鬼女紅葉」としての家に帰って、朝になって市街地に下りてきたのだろう。

 彼女の家のことを、俺は何も知らない。人間がやすやすと立ち入れる場所ではないそうだ。

「お仕事を辞めることにしました。店長には、朝のうちにお話し致しました。しばらくはニート生活です」

 俺は言葉が見つからず、「そうか」とだけ相づちを打って視線を落とした。

 彼女の白い指が、泥で汚れている。素手で草をむしっていた。

 辞めることはないのに、なんて気安く言えない。

 彼女の相談に乗ってあげられなかった。

 アルバイトは辞めても、悩みは簡単に解消されないものだ。

 せめて少しだけでも、楽しいことに意識を向けてほしいのだけど。

「時間ができたら、どこかに遊びに行こう」

 コンビニで買ったばかりの『長野県おでかけガイド 完全版』を見せると、彼女は「ぜひ」と口元をほころばせた。

 日光がじりじりと肌にしみる。

 でも彼女は全く汗臭くなくて、ほのかにシトラス系の爽やかな香りがする。

 彼女はシトラスの香りをまとったまま膝を詰めて、少々ためらってから唇を重ねてきた。

 俺がびっくりしてしまったけど、彼女も一瞬だけ体が震えていた。怖々と舌が唇の内側に触れる。俺も彼女に応じて舌をのばした。

 彼女を抱き寄せ、服の中に手を滑り込ませる。

 じっとりと汗で湿った肌着には金具のような感触がなかった。

 あっ、と彼女が身じろいだ。顔の角度を変えて口を吸い直し、さりげなく胸部に触れると、そこだけ布に厚みがあった。肌着はカップつきインナーだったのだ。

「ずるうございます」

 彼女が熱っぽい目と紅い頬で訴える。

「食ってやりますから」

 彼女は「うにゃ」とふざけた声を発し、白い歯で俺の指を甘噛みした。

 真夏の一番暑い時間帯、俺達はお互いに勤務時間中なのに、コンビニの駐車場でべたべたとじゃれ合っていたのである。

 幸いお客さんは誰も来なくて、市役所の車の陰にいたものだから、歩道からも見えなかった。

 店長は目撃していたのかな。まあ、店長はどうでもいいや。



「おつかれさま」

 市役所に戻ると、課長がぽてぽてとやってきて、こそっと耳打ちされた。

「鬼に食われたのかと思って、心配したんだよ。怪我してない?」

 してないです、と答えると、課長はつまらなそうにデスクに戻った。

 課長はもしかして、わざと俺を篠ノ井支所に行かせたのではないだろうか。

 俺が寄り道をして彼女に会いに行くことを予測済みで。



 彼女が甘噛みしたのは、左手の薬指だった。

 歯型が目立つところにできてしまい、仕方なく絆創膏ばんそうこうで隠す。

 就業時間までの数時間で、何人の職員に「結婚したの?」とからかわれたのか、覚えていられなかった。



 ……結婚、か。

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