其の八

 「雪女」とか「天の羽衣」といった、異類婚姻譚が嫌いだった。

 嫌いというより、苛々する。

 登場人物の男達は、なぜ妖怪や天女と結婚したいと思ったのだろうか。

 一目惚れしただけで無理矢理結婚しようとする思考が理解できない。

 生まれてくる子が可哀想だとは考えなかったのか。

 いつかは別れることになると想像しなかったのか。



 最初に向かったのは、「軽井沢タリアセン」。

 塩沢湖畔にある施設で、美術館や文学館もある。

 彼女は、湖の鯉が「餌ちょうだい」と口をぱくぱくさせる様子を「可愛い」と大はしゃぎ。鯉は彼女から逃げなかった。

 ペイネ美術館の“Raymond Paynet”をふたりで「レイモンドペイネット」と読み間違え、俺は彼女より早く仕草をしてみせた。

 彼女は「むう」と頬を膨らませた。

 レイモン・ペイネのイラストは、恋人が描かれているものが多く、鑑賞している俺が恥ずかしくなってしまった。

 ちらっと彼女を見たら、彼女はにたっと笑った。

 照れたところをみてやりましたぞ、って勝ち誇ったように。



 タリアセンの近くの「絵本の森美術館」と「エルツ絵本の森美術館」も見学して、遅い昼食にする。

 軽井沢といえばフレンチのイメージがあるけれど、本格フレンチは敷居が高くて、カジュアルフレンチのレストランにしてしまった。しかし、イワナのムニエルに舌鼓を打つ彼女を見ていたら、とても安心した。

 コンビニのアルバイトを辞めてから、彼女は表情が曇ることが少なくなった。俺が鈍感なだけかもしれないが、時折ふわっとした空気に包まれていることがある。

 今日だって、そうだ。はしゃいだり、照れたり、にたっと笑ったり、その辺の女の子と同じように観光を満喫している。

 彼女が鬼女紅葉であることを忘れてしまいそうだ。

「この後はどこへ行きましょう」

 彼女に訊かれ「軽井沢高原教会」と答えると、彼女は「ええっ!?」と激しく動揺した。

「教会なんて、早過ぎます! じゃなくて、わたくしなぞが教会になんて」

 動揺する彼女は可愛いけれど、教会を見学するチョイスはまずかったかな。

「宗教の違う施設には入れないの? 空気がぴりぴりするとか、無言の圧力がかかるとか」

「それは平気です。教会の近くとか普通に歩けますし、お寺にも神社にも入れますし」

 神社、と言って彼女は眉をしかめた。

「すみません。昔、戸隠神社で会った変な人間のことを思い出してしまいまして」

「変な人?」

「はい、出っ歯の男です」

 俺は昭和のコメディアンのようにずっこけそうになった。

「画家なのですが、出っ歯で、ネズミみたいで、昼間からお酒を飲んでいました。中社の天井絵を描くとかで江戸から呼ばれたそうなのです。わたくしは迂闊に近づいてしまい、要らぬ予言をされてしまいました」

 彼女は小さく息を吸って、口真似をする。

 ――あんた、きっと美人になるぜ。着物が似合わねくらい、乳のでかい美人にな。

「乳のでかい、というのは呪いのように的中してしまいました。本当に嫌な奴です」

 店長以外の人を悪く言わない彼女が口をとがらせて、ぷいっと窓の方を向いてしまう。

 その画家は、少し予言を外している。

 彼女は胸が大きいけれど、着物も似合う美人だ。

 白無垢も、ウェディングドレスも、絶対に似合うはずだ。



 レストランを出ると、彼女は驚いたように周囲を見回した。

「どうしたの?」

 訊いても答えず、車に乗ろうともしない。遠くを見つめて、何かに狙いを定めたように、瞳に光が宿る。

 一瞬で空気が張り詰めた。

 昨年、善光寺で感じた空気に似ている。

「もしかして、鬼女紅葉のお仕事?」

 彼女はあごを深く引いて頷いた。先程まではしゃいでいた女の子とは思えない、凛とした佇まいだ。

「行ってらっしゃい」

 これはもう、送り出すしかない。

「絶対に、無事に帰ってきて」

 彼女はもう一度、無言で頷いた。

 大量のもみじに包まれ、彼女は鬼女紅葉として行ってしまった。



 俺は独りさびしく職場へ差し入れるお菓子を買い、彼女へのプレゼントも購入して帰路についた。

 夜遅くなってから、彼女へのプレゼントを車内に置き忘れていたことに気づき、懐中電灯を持って駐車場へ足を運んだ。

 車の周りに大量のもみじが散っている。

 俺は目を疑ってしまった。

 彼女が車に背を預け、足を崩して座り込んでいた。

 ブラウスは肌着ごと大きく裂け、あらわになった白い肌には袈裟がけに2本の創傷がある。

 名を呼ぶと、彼女は首をもたげ、体勢を崩してしまう。

 受け止めた彼女の体は、異様に熱かった。



 ぬるい風が吹いた。

 まだらに赤茶けたもみじが、闇夜に舞い上がった。

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