其の三

 俺が生まれ育ったのは、長野市ではなく安曇野あづみのである。

 実家は兼業農家で、規格外の野菜を腐らせる前に腐るほど食べてきた。

 夏になると、ナスとトマトのソテーが食卓に頻繁に出現し、祖父母も何の偏見も持たずに食べていた。

 そんな“野菜チャレンジャー”な家で育った俺もまた、色々な野菜を試したがる傾向がある。

 今のところ成功しているのは、夏野菜カレーだ。

 人参、玉ねぎ、肉と一緒に、ナス、ズッキーニ、トマトを投入する。

 じゃがいもは入れない。痛むのが早くなるから。



 俺がカレーを煮ている間に、彼女もキッチンに立って米を研いでくれる。

 炊飯器のスイッチを押して、ふうふうとかまどの火を起こす真似をする彼女は、あどけない子どものようだった。

 彼女は俺に見られていることに気づくと、こめかみの少々上を両手で押さえる仕草をする。

 恥ずかしいときの彼女の癖だ。

「おうちにはかまどがあるの?」

 俺が訊ねると、彼女は「はい」と頷いた。

「ですが、ガス釜も炊飯器も使えます。以前、食堂で働いていたことがありまして……」

 話しは続かなかった。

 目鼻立ちの整った美しい顔に、曇りの色が生じる。

 俺はIHの出力を一番弱くして、冷蔵庫から缶ビールを出した。

「食前だけど、少し飲む?」

 彼女は手を伸ばして缶ビールを受け取る……かと思いきや、俺の手に白く細い指を重ねた。

「お願いです、ユウキくん」

 大きな黒い瞳に見つめられると、心臓を掴まれたような錯覚を起こしてしまう。

「わたくしを汚して下さいませ」

 彼女は唇を噛んで、目を伏せた。

 長いまつげから大粒の涙がこぼれ落ちる。



 紅をささずとも血色の良い唇から紡がれる話は、女性には酷な内容だった。

「店長の目が、いやらしく感じてしまうのです」

 彼女は、篠ノ井のコンビニでアルバイトをしている。

 先月着任した店長は、俺と年齢の近い男らしい。

 その店長が、何かにつけて彼女に近づこうとするのだそうだ。

 勤務日と時間を彼女に合わせようとしたり、話しかける距離がやたら近かったり、恋愛経験を聞き出そうとしたり、彼女の胸元に目線を落としていることも多いのだそうだ。

 証拠が明らかなセクハラではないが、女性が嫌な思いをしてもおかしくない。ちょっと俺も引くわな。

 周りの従業員も店長の言動を不審に思って指摘してくれるらしいが、店長は「気をつけています」の一点張りで、店長を介さずに本社やエリアマネージャーに訴えることはできないそうだ。

「あなた様に触れられるのなら、本望です。事が起こってしまう前に、わたくしを汚して下さいませ。どうか、後生ですから」

 彼女は意識していないようだが、彼女の喋り方は語尾に色っぽい余韻を残してしまう。俺も未だにどきっとしてしまうのだ。

 それに、彼女は着物より洋服が似合うようなスタイルである。

 着物を着ていてもわかるほどの細腰と豊かなバストだから、洋服だと一層ボディラインが明らかになってしまうだろう。

 でも、彼女は悪くない。

 彼氏である俺でも、こんなに傷ついている子に手を出したら、もっと傷つけてしまう。

 今日は、おでこに軽くキスするにとどめた。



 トマトの酸味が効いたカレーを食べて、ビールを飲むと、彼女はすぐに酔っぱらってしまって座布団を枕にして眠ってしまった。

 俺はつい出来心で、彼女の頬を撫でてしまう。



 俺より早く彼女の素性を察した課長の、言葉を思い出した。



 ――あの彼女、……かもしれないよ。



 所作は洗練されていて、言葉遣いは古風で、しっかりした思考の持ち主で、どこか天然な、彼女。

 彼女と俺は、本当は住む世界が違う存在だ。

 でも、彼女のことが好きだ。

 手の届く範囲に彼女がいる間だけでも、守りたくなる。

 俺なんかが彼女に釣り合うはずがないのは、頭ではわかっているのに。

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