鼻炎と私と風雅センパイ


「まずはウォーミングアップするね」


 そう言葉を紡ぐ口元がいよいよ露わになり、私のドキドキが最高潮に達しようとしていた。


 み……見えたああああっっ!!


 マスクの形状で推察された鼻は予想どおりの形の良さ。

 口は想像よりも少し大きくて、けれども薄く形の良い唇はくっきりと整った目鼻立ちと絶妙なバランスを形成していて、アンニュイなその表情にはハイティーン特有の淡い色香が漂っていた。


 少女漫画に出てくる憧れの先輩がまるでそのままリアルの世界に出てきたような麗しさに、私は目眩を起こして倒れそうになった。


「ふらついてるけど大丈夫? 気分悪いようなら無理しない方が……」

「だっ、大丈夫ですっ!」


 体じゅうの血が沸騰するかのように熱くなり、鼻水の次は鼻血が出てくるんじゃないかと、思わず “鼻VIP” を鼻にあてた。


 マウスピースをその色香漂う唇にあて、音を出し始める風雅センパイ。

 鼻梁の美しさが引き立つ横顔もまた素敵すぎて、先輩が楽器に集中しているのをいいことに視線を外すことなくたっぷりと堪能させていただいた。


 このご尊顔を毎日拝みたい。

 マスクを外した風雅センパイを堪能するには、楽器を吹いている時を狙うしかない!

 その結論に至った私は、その日のうちに入部の意思を咲綾部長に伝えたのだった。


 ***


 そんな不純な動機で吹部に入部した私は、初心者ながらも希望パートを当然ホルンとし、風雅センパイのマスクを外したご尊顔を拝むという眼福を毎日享受していた。


 耳鼻科を受診しめでたくアレルギー性鼻炎の診断を受けた私は薬と “鼻VIP” と風雅センパイのおかげで花粉の時期を乗り越え、ここ数日はマスクなしでも過ごせるようになっている。


 けれども、風雅センパイは楽器を吹く時以外は相変わらずマスク姿のままだ。


「風雅センパイはまだ鼻炎が続いてるんですか?」


 うんりょーの二階に来て、今日もマスクを着けたまま楽器ケースを取り出す先輩に尋ねると、先輩は碧の瞳に物憂げな色を重ねた。


「うん。ヒノキの次はイネ科がきててね。イネ科が終わるとブタクサがくる。半年前からはハウスダストや猫毛アレルギーも出てきて、年中マスクを外せなくなったんだ」


 マスクの下の表情は見えなくても、俯いてマウスピースを弄ぶその姿はとても切なげで。


「そんな感じで年中鼻炎だと楽器を吹くのも辛いんだ。だから俺、実は部活を辞めようと思って」

「ええっ!?」


 突然目の前に闇の緞帳が落とされ、心臓を掴まれたように息苦しくなる。


 確かに、鼻水が出ても演奏中はすぐに鼻をかめないし、息継ぎブレスだって鼻から吸い込めない分苦しくて、楽器を吹くのが苦しいのはこの半月経験しただけでもよくわかる。


 けど……

 けど…………っ!


「先輩……辞めないでくださいっ」

「もちろん、今すぐってことじゃないよ。南さんも入部してくれたことだし、責任もって基礎を教えてから辞めるつもりだから安心して」

「私、好きなんです!!」

「え……っ?」


 風雅センパイが───


 と言いたい気持ちを押し込めて、白いマスクで顔を覆ったままの先輩をぐっと見据える。


「風雅センパイの吹くホルンの音色が……。吹奏楽のことまだよくわからないけど、風を含んだような柔らかい音色が大好きなんです!」

「あ、ありがとう……」

「先輩、名前に “風” がつくじゃないですか。だからホルンは先輩が吹くのにぴったりな素敵な楽器だと思います」

「俺もホルンは大好きだけど、名前で吹くものじゃないでしょ。それなら南さんだって名前に “風” がつくんだし、これからも練習頑張って綺麗な音色を聞かせてよ」

「もちろん、私も “風” を含んだ美しい音色を出したいと思ってます。でもっ……でも、それには目標になる音が常に傍にないと駄目で、風雅センパイがいてくれないと私は駄目で……」


 言葉よりも先によくわからない感情がこみ上げてきて、胸が焼けつくように痛くなる。


 風雅センパイは碧の瞳でそんな私をじっと見つめながら、脇に置いた “鼻VIP” をそっとこちらに差し出した。


んか私鼻炎が再発たい……」


 拝借したティッシュで鼻をかみながら強がりを言う私を前に、風雅センパイがぽつりと一言呟いた。


「viento……」


「へ? 鼻炎と……?」

「いや、vientoってね、スペイン語で “風” って意味なんだって。うちの隣に住んでる昔馴染みのスペイン人夫婦が、俺のことをvientoって呼ぶんだ。名前に “風” がついてるからって」

「へええ……」


 うんりょーの開け放した窓からそよそよと吹き込む風が、風雅センパイのオリーブの髪を撫でていく。


「ホルンの重奏ってさ、空気を含んだ柔らかな音が重なり合ってすごく豊かな音が出るんだ。南さんの言葉を聞いて、俺もホルンの音が大好きだなって改めて思った。四季の風を重ねたような柔らかくて厚みのある重音を南さんにも聞かせてあげたいな」


「じゃあ、私と風雅センパイの “viento” コンビで重奏しましょうよ! 本物の風は花粉を運んでくる嫌な奴ですけど、二人のホルンの音色で心地よい風を生み出しましょうよ」


 風雅センパイの説得に必死のあまり風に対する私怨が微妙に混じったけれど、鼻をすすりながらの力説にとうとう先輩のマスクの下からくつくつと忍び笑いが漏れてきた。


「“vientoコンビ” って、“鼻炎コンビ” みたいだね。……でもまあ確かにそれも面白いかもしれないな」

「じゃ、じゃあ……っ」

「うん。退部のことは考え直すよ。俺としても大好きなホルンを諦めることに少なからず迷いはあったしね」

「よ……よかったああぁ」


 細められた碧の瞳を見たら一気に心と涙腺が緩み、またしても目と鼻がぐずぐずになる。

 そんな私に風雅センパイは右手で “鼻VIP” の箱を差し出すと、左手を私の頭にのせてぽんぽんと撫でた。


「変なこと言って不安にさせてごめんな。でも、君のおかげで吹っ切れたよ。鈴木先輩が引退してもホルンの重奏ができるように、これからも一緒に頑張ろう」

ふぁふぁひはい……っ」


 鼻をかみながら見上げると、ホルンのマウスピースを片手に持った風雅センパイが白いマスクをはらりと外した。


「“viento” コンビとして、これからもよろしくね、


 先輩が、口角をにいっと引き上げる。


 アンニュイな色香が一気に溶け去り、あどけなさを滲ませて綻ぶ笑顔。

 初めて下の名前で呼ばれた上にそんな表情を目の当たりにして、マスク姿とのギャップに萌え度が最高点に到達した。


「え……っ? ちょ、晴風ちゃん!? 鼻血、鼻血が出てるよっ!!」


 ***


 初対面で鼻水垂らした顔を見られたどころか、鼻血を垂らした上に “鼻VIP” を鼻の穴に詰めたアホ面まで風雅センパイに晒した私。


 そんな醜態を見せながらも、“viento” コンビは解散の危機を迎えることなく日々練習に励んでいる。


 風を纏うホルンの音色と私だけが見ることのできるマスクの下の風雅センパイの笑顔を励みに、今日も私は “鼻VIP” を小脇に抱えたマスク姿で見事私もイネ科アレルギーを発症しましたうんりょーへと急ぐのだった。





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Viento! 私と風雅センパイ 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari

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