鼻炎と風雅センパイ
「お互いこの時期はほんと辛いよね」
“鼻VIP” の箱を差し出しながら彼が言う。
碧の瞳が僅かに細められたのは、きっとマスクの下の口元に微笑みを浮かべたからなんだろう。
背が高い割に顔が小さいのか、白いマスクは顔の半分以上の面積を覆っていた。
その顔貌は明らかでなくても、鋭角に盛り上がったワイヤーの形からは細く高い鼻梁であることが推し量られ、マスクの下方で僅かにのぞく顎はシャープな輪郭を窺わせる。
少し掠れた低い声が出るとごつっとした喉仏が動き、幼さの残る同級生男子では決して感じられない大人っぽさに胸が高鳴る。
見蕩れ続けていた私は目の前に差し出された箱ティッシュで我に返り、「す、すみません……」とさらに一枚を抜き取らせていただいた。
彼のアンニュイで美しい佇まいに気を取られて忘れていたけれど、鼻水を垂らした醜態をばっちり見られていたんだった。
もう少し見蕩れていたい気持ちがありつつも小っ恥ずかしさの方が先に立ち、私は慌てて彼に背中を向けた。
「ありがとうございましたっ! じゃ、私はこれで……」
「あ、待って。ティッシュ持ってないんでしょ?」
「ええ。さっき使い切ってしまったんですけど、ティッシュならそこのコンビニで買えますし」
「そこのコンビニだと俺のお薦めする “鼻VIP” は売ってないんだよなあ。……そうだ、ちょっとついてきてくれる?」
先輩の一言に思わず顔を上げた。
「つ、ついていく……って、どこへですか?」
「うちの部の部室。そこに “鼻VIP” の買い置きがあるんだ。ついてきてくれたら、それを箱ごとあげられるんだけど」
いくら素敵な先輩とは言え見ず知らずの人にのこのこついていくのは躊躇われるし、マスクに覆われたご尊顔から表情は読み取れないけれど、その口ぶりは鼻炎初心者の私を心配してくれているようだ。
何より天使に撫でられるかのようなあの感触を知ってしまった今、コンビニのポケティより “鼻VIP” の方が断然いいに決まっている。
「……じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
マスクの先輩と “鼻VIP” の魅力にすっかり心を囚われた私は羞恥心も警戒心も忘れ、箱ティッシュを小脇に抱える彼の後ろに続いて歩き出した。
途中 “鼻VIP” を二、三枚拝借しつつ、校舎の横を通り過ぎ、運動部が活動しているグラウンドを突っ切っていく。
部室についてきてほしいって先輩は言ったけれど、校庭のはずれで一体どんな部活をやっているんだろうか。
不安を募らせつつプールの角を曲がると、そこに佇んでいたのは
「え……っ? ここって……」
「吹奏楽部の部室だよ。
振り向いた先輩が私にそう告げた。
確かに、文化財に指定されそうな建物からは沢山の楽器の音が漏れ出している。
先輩はギイイと重たく軋む木の扉を開けると、戸惑う私に「入って」と促した。
楽器の音が大音量で飛び出してくる中、おそるおそる足を踏み入れる。
「靴を脱いで上がってくれる? 俺の荷物は二階にあるから」
先輩はそう言って、学校名の印字が掠れたスリッパを私の足元に置いた。
戸惑いながらも靴を脱ぎ、出されたスリッパを履くと、廊下の奥からパタパタと誰かが近づいてくる足音がした。
顔を上げると、銀色のフルートを抱えた黒髪の美人が百合のような艶やかな笑顔をこちらへ向けている。
「こんにちは! 見学希望?」
「あ、いえ、私は……」
そうか! 今日から新入生の部活動見学期間が始まったんだった。
焦る私がしどろもどろになっている横で、マスクの先輩が口を挟む。
「
「あらそうなの、残念。まあでもせっかくだし、よかったらうんりょーを見学していってね」
咲綾部長と呼ばれた美人の先輩は艶やかな笑顔を再び私に向けると、黒髪を翻して廊下の奥へと戻っていった。
「さ、行こうか」
彼の後ろに続き、ミシミシとしなる木製の階段を上っていく。
二階は開放的なホールのようになっていて、そこではチューバやユーフォニアム、トランペットといった金管楽器の人たちが熱心に練習をしていた。
マスクの先輩は奥にあるロッカーから三箱ほど積まれた “鼻VIP” の箱を一つ取り出し、その横に置かれた小さな箱から白いマスクを一枚取り出すと、私の方へと差し出した。
「これどうぞ」
「ありがとうございます。本当に助かります。ティッシュは同じものを買って今度お返しするので……」
「気にしないでいいよ。今日は花粉が多いみたいだし、困った時はお互い様だよ」
そう話しながら、先輩は “鼻VIP” のストックの隣にある楽器ケースらしき箱を取り出した。
練習を始めるみたいだから、これ以上ここにいるのは邪魔になってしまう。
でもちょっと待って。
楽器の練習をするということは、マスクを外すってことだよね。
このアンニュイで美しい先輩のマスクの下のご尊顔をぜひ拝んでみたい────!
「……どうしたの? 吹奏楽に興味なければ気にせず帰っていいんだよ」
「いえっ! (先輩の顔に)興味ありますっ! このまま見学させてください!」
鼻息荒く申し出た私が余程やる気があるように見えたのか、物憂げな碧の瞳は私を捉えると緩く弧を描いて細められた。
「それならばどうぞ見学して行って。そう言えばまだ自己紹介してなかったよね。俺はホルンを担当している二年B組の山崎
「私は一年A組の南
自己紹介がすむと、楽器ケースの蓋を開けた風雅センパイがいよいよマスクに手を掛けた。
ごくり。
そんな音が本当に聞こえてきそうなくらいに唾を飲み込んで、私は先輩の顔を見つめ続けた。
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