Viento! 私と風雅センパイ

侘助ヒマリ

鼻炎と私

 それは高校に入学して三日目のことだった。


「ふぁ……っ、ふぁっ…………ふぁぁぁくしょんっっっ!!」


 朝起きたときからおかしいとは思ってたんだよね。


 鼻の奥がやけにムズムズするし、眼球取り出してジャブジャブ洗いたいくらい目はかゆいし、何よりくしゃみと鼻水が止まらない。


 どうやら私、南晴風はるか十五歳、高校デビューと同時に花粉症もデビューしてしまったらしい。


 マジ最悪…………。


 部屋にあったポケットティッシュを五個ほど通学バッグに詰め込んできたけれど、放課後になったと同時に五つめのティッシュが残り一枚となってしまった。


 今日から部活動の見学期間に入るというのに、鼻水垂らしたアホ面でのこのこ行けるわけがない。

 コンビニでティッシュを調達しながら大人しく家に帰ろう。

 花粉症って、受診するなら耳鼻科? 眼科?

 とにかくお母さんに電話して保険証用意しといてもらわなきゃ。


 スカートのポケットに残るラスいちのティッシュをできるだけ温存するために、鼻をすすりながら靴に履き替え昇降口を出た。


「うわ……っ」


 昨日までの閑かな中庭とは一転、様々なユニフォーム姿の運動部や看板を掲げた文化部など、多くの上級生達が新入生の下校を待ち受けている。

 一年生の昇降口から出てくる人間は直ちにロックオンされ、あっという間に数人に取り囲まれている。

 案の定、私の周りにもわらわらと先輩達が集まってきた。


「ねえねえ、中学では何をやってたの?」

「初心者大歓迎! バレー部に入らない?」

「漫画読み放題! 漫研へ見学にどうぞ!」


「いえっ、あのっ。今日は病院に行くんで見学は無理ですっ!」


 外に出た途端に目がかゆくなり、鼻がむずむずしてくる。

 だめだ! しゃべると余計に鼻水が流れ出そうになる。

 風邪っぴきのときと違って、さらさらとした鼻水は私の鼻の吸引力では如何とも処しがたく、つううっと鼻腔をつたって下りてくるのがわかる。

 私は何人もの勧誘を断りながら、たまらずラスいちのティッシュに手をつけてしまった。


 いよいよ背水の陣となった私。

 ここからはひたすら時間と鼻水との勝負だ。

 この一枚が使い物にならなくなる前に、学校向かいのコンビニに駆け込まなくてはっ!!


 命綱とも言えるぺらっぺらの一枚を小さくたたみ、鼻の下を押さえながら私はひたすら校門を目指して歩みを進めた。

 切羽詰まった私の状況などお構いなしに、上級生の勧誘の波が次から次へと押し寄せてくる。

 鼻を押さえる面を時々変えていてもラスいちのティッシュはどんどん湿り気を帯び、その吸水力を衰えさせていく。


 勧誘の最後の集団をやり過ごし、校門が目の前に迫ったまさにその時。



「ふぁ……っ、ふぁっ…………ふぁぁぁくしょんっっっ!!」



 鼻の奥の刺激に耐え切れず、私は思い切りくしゃみをしてしまった。


 その途端、すすることで排出量を抑えていた鼻水がたらりと流れ出た。


 くっ!

 コンビニはもう目の前だというのにもはやこれまで――――


 くしゃくしゃになったラスイチのティッシュをゴミ用のビニール袋に突っ込み、もう片方のポケットからハンカチを慌てて取り出す。

 中学から使ってる捨ててもいいようなハンカチだっていっぱいあったのに、今日に限ってなんでこれを選んじゃったんだろう。

 お気に入りの新品ハンカチだけは使いたくなかったが、背に腹は代えられない。

 鼻水を垂れ流したままコンビニに入るなんてことできないもの。


 それでも、さっきの集団の中で醜態を晒さずにすんだのは幸運と言うべきだろう。

 四隅に施された花の刺繍が可憐なピンクのハンカチを鼻の下にあてようとしたときだった。


「よかったら、これ、どうぞ」


 低く柔らかな声と共に、目の前に “鼻VIP” というロゴが印刷されたボックスティッシュが箱ごと差し出された。


 鼻水垂らした乙女の醜態を見られていた──!?


 ぎょっとして声の主を確認しようとしたけれど、鼻水を垂らしたままの顔を上げたら恥の上塗りとなってしまう。


 私は顔を俯けたままぺこりと軽くお辞儀をし、手を伸ばして “鼻VIP” をシュッと一枚抜き取った。


 しっとりとやわらかな感触が私の鼻を包み込み、鼻水をやさしく吸ってくれる。

 ああ、なんて素敵な触れ心地なんだろう。

 駅前でもらった無料タダのポケットティッシュでガサガサに荒れた鼻の頭が、まるで天使の祝福を受けているかのように感じられる。


 もったいないので折りたたんで一度鼻をかんだところで、ようやく人心地がついた。


「あっ、ありがとうございました。助かりました……」


 醜態を見られはしたけれど、この “鼻VIP” の恵みがなければもっとひどい事態になっていたに違いない。

 素直にお礼を述べつつボックスティッシュを差し出す腕を辿り視線を上げると、そこに立っていたのは背の高い制服姿の男の人だった。


 春の穏やかな日差しを受けた黒髪は熟れたオリーブのように仄かな緑味を帯びている。

 長めの前髪から覗く瞳はこれまた深く煌めくグリーン系。

 私を見下ろす角度で被さる睫毛の長さと切れ長の目の形がアンニュイな雰囲気を醸し出すけれど、風を纏って揺れるオリーブの黒髪の無造作な遊びが近寄り難さを和らげていて、魔力のある彼の瞳に心を吸い込まれたかのように呆然と見つめ続けた。


 そう。彼は私が一目で恋に落ちるのに十分すぎるほどキラキラと輝いていた。




 たとえその美しい碧の瞳の下が、白く大きなマスクで完全に覆われていても────



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