見知らぬ人、優しい人

椎名透

見知らぬ人、優しい人

 たとえば、ここに一輪の花があったとしよう。とても美しいけれど、すぐにも枯れてしまいそうな花だ。まわりは雑草ばかりで、地面は荒れている。それでもしゃきっと立って、美しい花弁を空へと向けていて。


 それをキミは、どうするだろう。


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 頭がおかしくなりそうなほど暑い日だった。重たい体を引きずって外へ出たはいいものの、さっそくリタイアの声をあげたくなる。こんなことになるなら、車の免許くらいさっさと取っておけばよかった。そう思わずにはいられないほどの蒸し暑さが、容赦なく俺の体を襲っていた。


 時計を確認する。現在時刻、午前八時。朝からこんな暑さだと気が滅入る。昼間の――つまりは帰りのことを考えて、俺は隠すこともなく大きなため息を吐いた。体感で現在三十度くらい。ニュースでは三十六度ほどまで上がると言っていたから……いや、これ以上は考えるのをよそう。自分で自分を追いやるような思考回路に対して、自嘲のような苦笑が漏れた。


 カバンから取り出した扇子をパタパタと仰ぐ。生ぬるい風しか生まれないが、それでもないよりはマシだった。まったく、どうして日本の夏はこんなにも湿度が高いのか。そういう地域に住んでいるのだから仕方がないとも思うが、それでもこの不快な空気に文句をつけたくなってしまう。たった数分歩いただけなのに汗でビショビショになったシャツも、うるさい蝉の声も、生ぬるい風も、全てが『不機嫌』という名のパラメータを上昇させていった。


 いや、そういった環境自体はまだいいのかもしれない。どれもこれも、家に引きこもっていれば無縁となるものだ。蝉の声だけはどうしようもないが、それでも外出時ほど気にはならない。学生であるが故に通学というひと手間はあれど、それも必要なことだと我慢できるだろう。


 では、俺は何に対してこの怒りをぶつけるべきなのか。答えは考える必要もなく思い至る。

 現在入っているアパートから徒歩十五分。表通りの国道から少し脇道に逸れて、人気のない道を進んだ先。


 目の前にある、真っ白なこの家の持ち主が、俺の怒りをぶつけるべき対象だった。


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「やあ。待ってたよ、少年」


 チャイムを鳴らせば、十秒もしないうちに家の扉が開けられた。中から出てきたのは『黙っていれば』美しい女性。自称絵描きの、俺の雇い主である。


「さあ、上がって。わかっているとは思うけれど、服は着替えてよね。ああそれから、もし汗だくなら軽くシャワーも使うと良い。バスタオルとかの場所はわかるだろう? いつもの棚に入ってるから。準備ができたら、アトリエにきて」

「……りょーかいっす」


 伝えたいことだけをほぼ一方的に伝えて、彼女は「じゃあ」と家の中に戻っていった。俺も遠慮なく玄関にあがり、すぐに脱衣所へと向かう。いけ好かない。汗だくなら、とかいいつつ、着替えは脱衣所に用意されていた。最初から、俺にシャワーを浴びさせる気だったらしい。


 シャツとズボンを脱いで、洗濯機へと放り込む。初めて使うわけではないので、もうためらいも何もない。洗剤も備え付けてあったものを使わせてもらって、すぐに電源を入れた。それからすぐにシャワーを浴びて、軽く汗を流す。


 これだけ聞くと、俺と彼女の関係が不健全なものに思われるかもしれない。というか、シャワーを借りるとか、慣れているとか、どう考えても不健全そのものだ。ただ、残念ながら、俺と彼女の関係は、自分でも驚くほどに健全なものである。


 出されていた着替えは、真っ白なシャツと真っ黒なズボンだった。どちらもシワひとつない。几帳面な彼女の性格ゆえか、それともただ単に妥協できないのか。サイズぴったりのそれに腕を通して、さくっと着替えを終えてしまう。洗濯機はまだ回っていたが、気にせずそのまま脱衣所を後にした。


 廊下を歩いて彼女のアトリエに向かえば、すでに準備は終わっていた。大きなキャンバスと木製の椅子。そして、彼女がそこにはいた。


「おそいよ、少年」


 おそい、と言うわりには楽しげで、不機嫌そうな様子は見られない。


「すみません」


 形だけの謝罪をして、俺は用意されていた椅子に座った。膝の上で軽く手を組んで、肩の力は抜く。なるべく自然体で。そんな風に注意されたのは、もう二か月以上前のことだ。あのころはまだこんなに暑くなくて、ここまで来るのも別になんとも思わなかった。


「それじゃあ、はじめようか」


 彼女の言葉に、俺は瞳を閉じて答えた。


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「絵のモデルをやってみないか」


 友人の一言が、俺と彼女を引き合わせることになった。友人の親戚だという画家の女性が、モデルをしてくれる男性を探しているのだと俺は聞いた。


 単純にヒマをしていたので、詳しく話を聞いてみると、賄いとモデル代が出るらしい。一人暮らしをする大学生の例にもれず、少しでもお金がほしかった俺は、その画家と実際に話をしてみたい、もし可能ならぜひ引き受けたいと友人に言った。


 その二日後。俺がモデルをすることは決まった。なんてことはない。彼女の家に向かって、まず言われたのが「採用」の一言だったのだ。


 あっけにとられる俺を前に、彼女はサクサクとモデルの説明をして、「じゃあ私は用があるから、また明日。朝八時過ぎくらいにきて」と言った。気づけば俺は彼女の家から追い出されていて、そして手には契約書のようなものが握られていた。


 そうして俺は彼女の絵のモデルとなることになった。契約期間は最長三か月。すでに、その三分の二が終わっている。たった二か月、されど二か月。彼女という人物を知るには、十分な時間があった。


 ナルシストでエゴイスト、なんて謳い文句を聞いたことがあったが、まさに彼女はそれだった。そこに完璧主義まで付け加えられるのだから、もう救いようがない。――というのが、彼女自身の、自分の評価である。全力で同意した俺に対して、「キミ、見る目あるね」と笑うのだから、変人の称号も送っていいと思う。


 色々と知った俺だが、彼女の名前は知らない。同様に、彼女も俺の名前を知らなかった。彼女は俺を「少年」と呼び、俺は彼女を「先生」と呼ぶ。「絶対に名前を教えないこと」モデルをするにあたって様々な注意事項が言い渡されたが、最も強く言われたのは、この事だった。理由はまだ、聞けていない。


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「おまたせ。もう動いてもいいよ」


 懐かしい記憶に浸っていたら、かなりの時間が経過していたらしい。彼女の声で目を開けて腕時計を確認すれば、短針は十の文字を指していた。


「いったん、休憩にしよう。お昼は食べていくんでしょう? それなら、三十分後にまたはじめて、お昼に終わるから」

「わかりました」

「水分補給はしっかりね。脱水症状で倒れるとか、笑えないよ」

「わかってますよ」


 そう、と彼女は言って、俺にペットボトルを差し出した。ラベルにはスポーツドリンクの名前がある。


「これは?」

「ん、オマケかな。最後の餞別とも」

「え?」


 間抜けな顔をしていたのだろう。彼女は小さく笑って、少し前まで目の前にしていたキャンバスへと視線をやった。


「もうすぐ、完成しそうなんだよね。たぶん、今日で終わり」


 唐突な彼女の宣言に、俺は小さく「は」と言うことしかできなかった。彼女は一度も途中経過を見せてくれなかったので、まったく実感がわかない。


「そういうわけだから、明日はこなくても――ああ、いや、明日は来なくちゃだめだね。洗濯物が残ってるし。うん、明後日から来なくてもいいよ。モデル代は、いつも通り、今日の帰りに現金で渡すからよろしく」

「え、ちょ、待ってください。唐突じゃあ……」

「唐突じゃないよ」


 そこだけはやけにきっぱり、彼女は言い切った。


「初めに言ったよね。最長三か月、だけどたぶん二か月で終わるからって」

「確かに、そうですけど」

「うん、だからおわり。ありがとうね、少年。久々に楽しく絵が描けた」


 まだ今日の後半が残っているというのに、彼女は最後に告げる別れみたいに、そう言う。なんだよそれ、と言ってもよかった。いや、モデルを始める前の俺なら、そう言ってた。けど。


「――まだ、今日の後半が残ってるじゃないですか」


 今の俺は、そう言うだけしか、できなかった。


  ▼


 かり、かり、と。鉛筆を動かす音が聞こえる。その日は珍しく、モデルの最中に声がかかった。ねえ、と続けられた言葉は。


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「あの日の質問、答えてほしいな」


 モデルの仕事が終わっての食事中に、彼女はそう言った。答えはわかっているはずだ。だけど、それでも俺は、答えた。


「俺は、知らないふりをしますよ。見なかったことにします」


 その答えに、彼女は。


「――ありがとう」


 満足そうに、笑っていた。


  ▼


【見知らぬ人、優しい人】 作者:×××

解説:×××が生涯最後に描いた作品。モデルとなったのは当時大学生だった青年だということがわかっているが、個人名は不明。この時すでに×××は余命宣告を受けており、最優秀賞を受賞した■■■コンクールの発表式を待たずして亡くなっている。


  ▼


「知っていました。知らないわけがないじゃないですか。だって俺、医大生ですよ」

「アンタが通ってる病院、俺の大学の附属だったじゃないですか」

「――知らないわけが、ないじゃないですか」


(お題:【知らないふりが上手くなった】

 執筆時間:1時間14分)

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見知らぬ人、優しい人 椎名透 @4173-bn

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