第60話 熊本くんの小説40

「なにしにきたの」

 あの女はいった。

「父はどこですか」

 僕は、いった。

「ねえ、もうあなたはわたしたちとまったく関係ないのよ。あなたはもうわたしの世界と関係のない人間なの」

「父と話をさせてください」

 女は門前で僕を待っていた。なんでもお見通しなのだろう。

「わたしたちが関わることはない。あなただってそれがお望みでしょう。この世界に足を踏み入れるためにはね、犠牲が必要になる。資格もないのに侵入しようとしても、無駄よ」

 女はいまいましくあたりを飛ぶ羽虫でも払っているように、僕を見た。

「僕はもうこことは関係がない。だけれど、父とは結局、血で繋がってしまっている。最後に、挨拶をしたい」

「挨拶」

 女は言葉を繰り返した。

「感傷で行動するなんて、この世で一番愚かよ。でもいいでしょう。わたしも忙しいんでね、あなたを相手している時間も惜しいくらいにね。うちのお墓にいきなさい。せっかくきたんだから。いちおうまつりさんの骨もあることだし。ま、あの子の霊魂は、わたしの脳髄のなかに閉じ込めて、少しこらしめてやっているところだけれど。でも形式は大事ですからね。いまは墓守をさせているわ、へまばかりやらかして、家に置いておいても邪魔なんでね。あなたのかわいそうなお父さん」

 女は僕に山の名前を告げる。

「もうあなたはわたしを見ることもないでしょう。お元気でね」


 山道を歩き続けながら考えた。

 ほんとうに自分は父親に会いたかったのかと。新幹線のなかでの思いつきは、つまらない感傷だったのかもしれない。

 でも、最後にもう一度、父と対面すべきだと感じていた。その直感が、自分をどういう場所へ連れていくことになったとしても構わなかった。

 ほかの墓より一回りでかい、目立った墓があった。権力を誇示することのグロテスクさと見栄がこんなものを作り上げたと考えると、滑稽だった。そんなに見せつけたいのなら、ピラミッドでもつくればいい。スフィンクスも横に従えさせればいい。オイディプスがその権力を木っ端微塵にしてしまえばいい。

 墓所を掃き掃除している、腰の曲がった男がいた。あの頃よりも、一回り小さくなったように感じた。あの頃? いつの頃だったのか、僕が小さかった頃。

「ここに、何年か前に亡くなった娘さんは眠っていますか」

 僕はその男に訊いた。言葉を選び、そして緊張を悟られないように、声をかける前に大きく息を吐いていた。

「ああ、まつりさんでしたら、ご案内いたします」

 そういって男は歩き出す。僕はその背中を追う。

 こちらです、といった場所は、墓所の隅で、さっきの墓と比べたらなんともみずぼらしいものだった。質素な花束がささっていた。

 ああ、そうだ、花を買ってくればよかった。僕は気が急いていて、そんなことも思いつかなかった。

「ありがとうございます」

 僕は男に礼をいった。

「いえ」

 その男はもとの場所へ戻ろうとした。

「あの」

 僕は男を止めた。

「なんですか」

 男は怪訝そうな顔をした。白髪混じりで不潔そうな髪、顔には深く皺が刻まれている。よれた作務衣を着て便所サンダルばきだった。

「僕のことを覚えていますか」

「……どちらさまですか」

 男は目を細め、僕をまじまじと見た。

「すみませんが、わかりません」

「熊本祥介といいます」

「そうですか」

 で、どちらでお会いしましたっけ、と男はいった。

「ほんとうに、覚えていないんですか?」

「ですから、どちらでお会いしましたっけ」

「知らないふりをしているだけなんだろ、お父さん」

 僕は父の肩を揺さぶる。

「なにをいってるんですか? 父? なんのことですか」

 わたしはあんたみたいな人なんて知りませんし、子供なんておりませんよ。誰かと間違えていませんか、やめてくださいよ気持ち悪い。父はやめてくれ! と叫び僕を突き飛ばす。僕はまつりの墓に頭をぶつけた。痛みと生温かいものが流れ落ちる感触。後頭部を触れた手を見てみると、血がべったりとついていた。

「お父さん。お父さんだってわかってるはずだ。見て見ぬ振りをしているだけだ」

 僕は父を見た。父はへたりこみ、怯えている。

 ああ、逆転した。そうか、年月はこんなふうに誰かと誰かの立場を変えてしまうのか。被虐されていた者から、虐待する者へ。こうやってまわっていく。

 僕は後ずさりしている父を押さえつけ、馬乗りとなる。

「僕は父さんの人生を戻す気なんてない。勝手に別の人生になっちまえばいい。止めやしない。もう会うのも最後だ。だから、ほんとうのことをいってよ」

 ほんとうのこと。僕は、自分がどんな「ほんとう」をいってほしいのかわからないままいった。ほんとうは僕のことを覚えている。ほんとうは自分は別の人間だった。ほんとうは後悔している。ほんとうは、

「死ね」

 ぴ、と裂く音がした。肉を思いきり切るとき、こんな音がするのか。僕の視界は真っ赤になった。そしてブラックアウト。これまで感じたことのない痛みが目のまわりから発生する。

 僕はのたうちまわり、腹のそこから呻き声をあげた。声はとめどなく口から溢れてくる。次第に嗚咽となる。腹が捻れるくらいに力がこもる。痛みで呼吸がうまくできない。

「お前なんて死んでしまえばいい。お前なんか……」

 何度も僕は蹴られた。しかし目の痛みに比べたらそんなことはたいしたことない。

 父の声が聞こえる。はんかくせえ。お前みたいなやつ生まれなければよかったんだ、死ね、クソが、お前はできそこないクズだ、お前らと関わったせいで、お前らが生まれたせいでこんなことになっちまったんだ、お前らなんか……

 ああ、妹のノートに似たようなことが書かれていた。たしかにあんたと妹は似てる。でも、妹は、あんたの数千倍、ましだ。俺たちはあんたの種から生まれた。でも、あんたの数億倍、ましだ。

「殺してやる」

 刃物で一突きされるのか。時間はゆるやかになったのではないか。思考が炸裂した。痛みで身体をこわばらせることもできない。そんなことをしたところで、死を遠ざけることなんてできないことはわかっているけれど。

 僕が覚悟をした瞬間、離せ、離せ、という声がする。そして、物騒な、揉み合う音がする。僕は、意識を失いかけながら、父の絶叫を聞いた。

 おい、おい、大丈夫か、という声がする。ほんとうなのか、まぼろしなのか、誰なのかわからず、僕は、せんせい、となんとか口にする。僕を助けてくれた人の声が、やむ。


 夢。

 そこはかつて自分が住んでいた家だ。畳と木造で、床の軋む音がわりに響く。いまは昼なんだろうけれど、家のなかは薄暗い。昼にあかりをつけるのを祖母が好まないからだ。窓から光が射している。

 季節は夏。僕は近所の公園にあるプールから帰ってきたところだ。プールに入ったあとの自分の匂いが好きだ。すーすーする。冷蔵庫に麦茶もチューペットもあるのだけれど、疲れていて、居間に寝転がる。まどろみ。眠気がつま先まで染み渡ってくる。

 物音が聞こえる。庭で乾かしていた洗濯物を母がとりこんできたのだろう。寝転がっている僕を、母はまたいでいく。

 祖母がやってきて、そんなところで寝てないの、と声をかける。僕は寝たふりをしている。

 じゃま、といって腰のあたりを蹴られた。妹だろう。妹は居間にあるテレビをつけたらしい。音が聞こえる。僕はちょうどテレビを背にしているから、観ることはできない。タレントの笑い声がかすかに聞こえる。

 完璧な夏の一日。

 もう戻ってこない。

 夜になれば父親が帰ってくるだろう。今日は機嫌がいいだろうか。テレビを占領されるので、僕たちは夜のテレビをあまり観ることはない。

 夕ご飯はなんだろう。魚がいい。

 ご飯を食べたら勉強部屋にひっこんで、図書館で借りた『飛ぶ教室』を読もう。早くクリスマスになればいいなと思って、クリスマスの話を読むことにしたんだった。でもやっぱり、夏休みのままがいい。明日になったら読書感想文のリストにあった、『十五少年漂流記』を借りにいこう。やることはわりとある。すぐに、時間は過ぎ去っていく。一秒、一時間、一日、一ヶ月。すぐに一年たって、年をとる。あと一年を何回過ごすのだろう。いくらだって時間はある。

「ねえ、まだ寝てるの?」

 声が聞こえる。

「ごめんね」

 謝る気のない、懐かしい声がする。きっと生まれつき声の出し方が傲慢なんだろう。

「わたしができる、最善がこれだった。もっとひどいことになる可能性だってあった。ごめん」

 別になにも怒っていないし、自分はいまとても楽しいよ。懐かしくて、すごく気分がいい。

「多分これが最後。あんたには、感謝してる」

 お前らしくない。

「らしさなんて、そんなものただの嘘っぱちよ。わたしたちがいかに無個性で、ただ息をして、食べて、クソをして眠って、それだけか。なにもかも意味がなくて、どれだけ虚しいか。わたしはよくわかったよ。次に生まれ変われるのなら、石になりたい。でも、石ってどうやって生まれるのかな」

 石は石だよ。生まれも死にもしない。

「いきもの以外になれないだなんて、なんて窮屈なんだろう。魂っていうのは。なんべんも死んで、生きて、死んで。繰り返すなんて、誰が決めたんだよそんなシステム。いやんなる」

 それは、

「神さまにいってよ」


 真っ暗だ。目を開けようとするとまぶたが引きつる。目になにかがあてられている感触がある。そして、少し硬い枕とシーツ、ベッドに僕は寝ている。

 真っ暗だ。

「祥介?」

 その声が、母だと気づくまで、少し時間がかかった。なにも見えないし、目を覚ましたばかりで、ぼんやりしているから、どのくらいの時間がかかったのかわからない。起き上がる力が、ない。体の神経が切れてしまったみたいだ。しばらく僕は口をぱくぱくさせる。声の出し方を忘れてしまった。

「おかあさん」

 僕はおそるおそるいった。まるで初めてその言葉を発した赤ん坊にでもなったみたいだ。う、う、という嗚咽が聞こえる。こんな単純で美しい言葉で、人は泣くのか。これじゃまるで、僕が暴力を振るったようではないか。

 自分が気づいていないだけなのかもしれない。

 生きているだけで、凶器にだって人はなりえる。知らないうちに憎まれることだってある。誰かというものは、誰かにとって、息をしているだけで、圧倒的に影響を及ぼす。

 それが、世界か。

 だからといって、嘆いて、この世の外へと自ら進むなんてことは、僕はしない。

 誰かに無駄に憎まれることを恐れてばかりしても、誰かを生きているだけで傷つけていたとしても、多分しない。勝手に死んでしまうまで、しない。

 左手を、誰かに握られていることに、気づく。

 多分母じゃない。母の泣き声は遠いから。

 手に少し力をこめる。

 誰かの手と僕の手は、汗を掻いている。つまり、生きているってことだ。

 握り返してくれる。誰かの力を感じる。

 この人はいったい誰だろう。僕の頭に、いろいろな人たちの顔がよぎる。でも、どれもぼんやりしている。

 ああ、みんなの顔をもっとよく見ておけばよかった。細部にわたって、出会ってきた人たちのディテールを記憶しておけばよかった。

 僕の目はたぶん、もうなにも見ることはできないだろう。目周りのひきつるような痛み。いくら努力しても開くことのできない瞼。

 もう、本も読むことはできないな。とても残念だ。みのりちゃんに送っておいてよかった。きみは、まだいくらでも読むことができる。

 小さく、僕を呼ぶ声がした。

 誰が手を握ってくれているのか、わかった。あのとき、いい間違えて、ごめん。

 僕は、できるだけ強く、その人の手を握り返そうとした。汗ですべり、手が離れた。

 まるで地の底に落ちてしまったような気分だ。

 這い上がれるだろうか?

 また手を握ってほしくて、僕は、その人の名前を呼ぶ。

 僕の言葉で、悲しませてしまわないように、慎重に、ありったけの気持ちをこめて、もう一度、いった。

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