第59話 熊本くんの小説39

 大学のテラスで本を読んでいると、知らない男がぼくのテーブルにやってきた。

「相席いいかなあ」

 やけに甘えた口ぶりだった。ネギみたいに細い男で、口元に品がなかった。

 どうぞ、と僕はいった。あたりを見回してみると、べつに混雑しているわけではない。

「本なんて読むんだ。なに読んでいるの?」

 僕の手にしている文庫本を指差して、いった。

「誰?」

 相手の質問に答えず、僕は質問をした。やけに馴れ馴れしく、不愉快だった。

「ああ、僕は社会学部のオゼキです」

 僕の口調が厳しかったからだろうか。オゼキは少しかしこまる。

「きみ、秋のイベントで踊ってたよね」

 意を決して、といったていでオゼキは切り出した。僕のほうに椅子を少し寄せ、下から見上げてくる格好になった。

「なんのこと?」

 僕は答えた。

「そんな警戒しなくって大丈夫だって。僕もそうだからさあ」

 僕もそう。そんなことをいわれて、ああ、そうなんだあ、とこっちがいうと思っているんだろうか。僕はオゼキの次を待った。

「学校にそっち系いないって思ってた? そんなことないって、十人に一人くらいのレベルでいるって。きみ、いまめちゃ話題だよ。ホットスポットっていうか。だってすごいじゃん、あんなの出てさあ。どうすんの、就職とか。バレたら完璧やばいじゃん」

 僕は読んでいた文庫を閉じた。

「なにがいいたいの」

「いや、まじですごいなーって思ってさあ。ビデオとか、僕あんなこと絶対できないよ。頭おかしいって。いやいい意味で」

 褒められているのか脅されているのかさっぱりわからなかった。どちらでもないのだろう。つまり、この男は、ほんとうにどうしようもないやつだということだけがわかった。

「きみ、今度のアゲハとか出たりすんの? 招待パスとかないの、同じ大学のよしみでさ」

「多分もうイベントには出ないよ」

「え、そんなもったいない、こんないい身体してんのに」

 そういって大げさに僕をジロジロとオゼキは眺めた。

「まあいいや、それはべつに置いといてー、ねえ、ライン交換しようよ。友達になろ?」

 僕は立ち上がって、荷物をまとめた。

「見ず知らずの人と交換なんてしない」

「はあ? 人前であんだけのことしといてなにお高くとまってんだよ。バカじゃねえの」

 さっきまでの態度とは一変して、オゼキが僕を睨みつける。

「お前まじでキチだろ。露出狂の変態じゃねえか。なに偉そうなツラしてんだよ。学校中にバラしてお前の人生終わりにさせっぞ」

 人生終わり。その言葉を聞いて、僕は笑いそうになった。

「どうぞ、勝手にすればいい」

 笑うのを堪えながら、僕はさっさとその場を立ち去った。

 後ろでなにか叫ばれるかな、と思ったけれど、それほどのバカでもなかったらしい。


「熊本祥介さん、ですよね」

 今度はなんだ。大学を一歩出た瞬間に、呼び止められた。

「なんですか」

 さっきのクソ野郎のことで、僕は自分が思った以上につっけんどんな態度をとった。

「ああ、すみませんいきなり。わたくしこういうものでして」

 坊主頭で薄いサングラスをかけたスーツの男が、名刺を差し出す。


 鯨井探偵事務所室長 鯨井主水


「ああ、胡散臭い名前ですみません。名前は、モンドって読みます」

 サングラスの奥に、やけに人懐こい目があった。

「なんですか」

「あのですね、じつはわたくし、水沢美穂子さんの依頼で、あなたのことも調査させていただいていたんですよ」

 まあ、こんな立ち話もなんですから、ねえ、喫茶店にでもはいりませんかね、わたくしの奢りですんで。鯨井主水は僕を近くのルノアールに連れていった。

「まあまあ、もうしわけございません。こんなねえ、お時間とらせまして」

 鯨井主水は平身低頭、というていで話し続けた。四十過ぎといったところか。世慣れた、と形容するにはあざとすぎる男だった。

 僕への態度と違って、ルノアールの店員にはかなりぞんざいな注文をした。つまりはそういう男だ。

「実は水沢美穂子さんの旦那さん、ご存知だと思いますけれど、水沢貴司さんですね、あなたの中学のときの担任の先生なんですけれど、浮気をしているのではないか、と先月調査を依頼されまして。うちはそういうの専門というか、多くの方にですね、ご依頼を受けているわけなんですけど、浮気と申しましても、どこからが浮気でどこまでがそうかなんてなかなかわからないもんじゃないですか。決定的瞬間ていいますかね。そういうのを週刊文春みたく写真に収めたところでねえ、そういうのお出ししても納得されない方もいらっしゃってねえ」

「あの」

 鯨井主水の口ぶりは、守秘義務もなにもなかった。大丈夫なのかと逆に心配になる。

「はい」

「どういったご用件ですか」

「すみませんすみません。でですね、水沢貴司さんは、浮気といっても特定の方と継続的関係になっているわけではございません、とわたくし依頼人である奥様にお伝えして、どんな相手となにがあったか、みたいなことはを。そうしましたら、奥様が旦那さんの行動リストから、あなたの名前を見つけられまして。あなたが怪しい、とおっしゃるわけですよ」

「僕と水沢先生がなにか」

「あなたがた、十一月二十五日の早朝に、二人で新宿二丁目の雑居ビルから出られていますよね。前日にあなたが出演されているイベントがあって、旦那さん、お客で。その日はね、旦那さん、初めて朝帰りっていうんですか、うれしはずかしっていうか、知りませんか? ドリカム、若い方はねえ、ドリカムとか、それはいいんですけどねえ、ま、ともかく朝帰りされて。それで奥様、ご立腹されていまして。でもわたくしが調べさせていただいたところあの後、水沢貴司さんと熊本祥介さんはとくにお会いしたりしていないじゃあないですか。だからまあ、それっきりってことですけれど。これからどうなるかわからないっていいますか。そうしたら、奥様が、熊本さんにですね、ご主人とお会いしないでいただきたい、それをきちんと文書として出してくださらないともうって、ことをおっしゃられて」

 鯨井主水はブリーフケースからクリアファイルを取り出し、僕に手渡した。

「すみませんけど、ここにサインしてもらってもいいですかねえ。いえ別に探偵事務所がすることじゃあないって話なんですけどね、まあうちもなんでも屋みたいなもんですので」

 クリアファイルのなかに入っていた紙切れに書かれている文章を僕は読んだ。一読して、ほんとうにくだらない、と思った。

 鯨井主水は僕の顔を伺っていた。

「これじゃ、まるで、僕は水沢先生をストーカーしているみたいじゃないですか。『生活圏内に立ち入るな』って」

「おっしゃるとおりです。熊本さんからしたらねえ、そらもう腹わた煮えくりかえる気持ちになられると思います。でもですね、別に公的なあれではございませんし、なんていうんですか、それで一人の女性が安心するならば、ね」

 鯨井主水はそういって頭を下げた。

「べつにいまサインしろという話じゃございません。これね、別にびりびりに破られてもかまいませんしね、ただわたくしはですね、依頼人の奥様から、頼まれただけですから」

 もしサインいただけるならば、わたくし熊本さんのところまで馳せ参じますし。郵送でももちろんかまいません。実をいいますと、奥様、かなり精神的に厳しい状況のようですのでね、熊本さんには、大変もうしわけないのですけれどね、人を一人救っていただれば、あれです、はい。

 鯨井主水の喋り方がどんどん過剰になっていく。それに反比例して、僕はどんどん胃のなかに石が溜まっていくように身体が重く感じられた。


 二十四時間営業のジムで、僕は崎谷と出くわした。崎谷とはしばらく顔を合わせていなかった。深夜三時、いるのは僕と崎谷だけだった。僕たちは挨拶をしたが、とくに話をするわけでもなく、それぞれのトレーニングをこなした。

「別のメーカーから出ないかってって依頼があったぞ」

 バーベルを片付けているときに、崎谷が近づいてきて、僕にいった。

「へえ。相手は誰」

「俺じゃあないな」

「やめとくよ」

 そう答えると、そうか、と崎谷はいった。

「どれだけいい男でも、見ず知らずの相手とはしない」

「伝えておこう」

「モデルもイベントも、もうしない」

 僕はいった。崎谷の顔は相変わらず読み取れなかった。

「そうか」

「大学も辞めるつもりなんだ」

「どうするつもりだ」

「しばらく実家にひっこんでニートでもしようかなってね」

「小説家になるんじゃなかったのか」

「大学に入って小説家になれるんならよかったんだけどな」

 話しているうちに、オゼキの醜い顔を思い出した。そういえば、あの男、出っ歯気味だったな。あいつの口にパンチのひとつもくれてやればよかった。少しは歯並びもよくなるだろうに。そんなことを考えたら、口元が緩んだ。自分は、性格が悪い。

「なんだよ、嬉しそうにして」

「なんでもない」

「お前は、よくわからないよ」

 崎谷はいった。

「いままで会ったなかで、一番よくわからない」

 崎谷は、なんだかとても遠くのものを見ているような目をしていた。そして、突然、いい年をした若作りのおっさんをかわいらしく思えた。

「長いあいだ、自分が誰かとセックスしているのを遠目でみていたような気がする。なんていうか、他人事みたくながめていた」

「それで」

「それだけだよ」

「タクミ」

「もうタクミはいないんだ。僕の本当の名前は」

 ジムに誰かが入ってきたので、話はそこで終わった。僕はパーカーを羽織って、ジムを出た。



 眠っているうちに、京都を通り過ぎていた。まもなく新神戸、というアナウンスがあった。僕の席に座る人はいなかったらしい。席を移動させてしまったのかもしれない。

 このまま駅を降りて、戻るしかないか。僕は背筋を伸ばした。さっき、アイフォンを解約する寸前に、小説のアドレスをみのりちゃんへ送った。

『さよなら、けだもの流星群』

 子供じみた題名だったな、と後悔していた。高校のときから書き始め、書いたり書かなかったりを繰り返してやっと完成したその作品を、僕は見返すことができなかった。

 滋賀に送った荷物のなかに、鯨井主水から渡された文書があった。実家に戻ったら、郵送するつもりだった。

 これからなにをするか、まったく考えていない。なんとかなるだろう、という楽観的な気持ちが、頭の隅にある。またあの本屋でバイトをするのもいいかもしれない。

 なにもかも白紙にして、はじめからやり直す。自分はまだ二十歳だ。なんでもできる。自分に言い聞かせているだけかもしれない。

 新神戸に到着したとき、僕は腰をあげることができなかった。突然、思い出した。

 まだ、やり残したことがある。

 新幹線が動きだす。

 その考えは危険なものだった。なにをいまさら。そんなもの、見て見ぬ振りをすればいいではないか。もうタカハシタクミはいない。だから、僕は、僕自身が、自問自答した。

 逃げ出してもかまわない。

 全力で、追いつかれないように。

 言葉にするたびに、喉が締まった。自分に嘘をついているからだろうか。僕は嘘をつき続けている。水沢先生にも、崎谷にも、みのりちゃんにも嘘をついてきた。

 そして、自分のついている嘘の根本を、思い出す。いちばんのおおもとに、僕は行かなくてはならない。

 岡山へいく。

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