第58話 熊本くんの小説38
みのりちゃんから電話があったとき、僕の部屋には本棚と、棚から溢れてしまっている本が残されていた。
電話を切ってから、すべてを理解した。むしろ電話をしているあいだは、混乱ばかりだった。みのりちゃんがまつり、という言葉を出したとき、息を呑んだ。そして、あの憎らしい顔を思い出した。
本を滋賀に送るべきか捨てるべきか迷っていて、最後まで残ってしまっていた。
電話を切ったあとで、思いついたのは、この本をみのりちゃんにプレゼントしてあげる、ということだった。もしここにある本が、彼女の気を少しだけでもまぎらわすことができたなら、と思った。
まつり。僕はお前のことを好きになれない。でも、少しだけ感謝もしている。もし、まつりが一番大切にしている女の子のために、きみがもうなにもできないと嘆いているのなら、僕がほんの少しだけ、みのりちゃんのことを力づけてあげることができたなら。
さっさと荷造りをし、集荷を頼んだ。ドライバーは表情の乏しい男だった。てきぱきと荷物を運んでいった。
部屋にはもう、僕だけしか、「もの」はない。短い一人暮らしだった。
部屋を出てから、気づいた。『斜陽』も油井さんの立原正秋も一緒に入れてしまっていた。
本との別れなんて、そんなものなのかもしれない。
必要な人の手に渡るために、本というかたちはある。もう、自分には必要ないんだろう。
坂道を歩きながら、小さな喫茶店を見つけた。喫茶店はまるで保護色にでもなっていたかのようだ。あったころに気づきもしなかった。何度もここを歩いてきたというのにだ。
僕は店に入る。カウンターだけの店で、おばあさんが店番をしていた。バーを改装したのかもしれない。奥の席まで、誰かが途中の椅子に座ったら辿り着くことができないだろう。僕はコーヒーを頼んだ。おばあさんに、この店はいつからあるのかと訊ねた。二十年以上やっているという。会話はそこで終わった。小さくジャズが流れているけれど、僕はこれがなんの曲かわからなかった。出されたコーヒーをゆっくりと飲む。おばあさんは気だるげに、窓を見ている。
またきます、と僕はいい、店を出た。
これから大学にいき、退学届を書く。アイフォンを見ると、非通知の着信が三件あった。
★
人生最後の夜、爆音のなかで俺はステージに立っている。
「ある頭のおかしい女に呪いをかけられたんですよ。二十歳の誕生日の前日に死ぬって」
そんなことをいったら一笑されることだろう。客のつくるうねりをステージから眺めながら、俺はアキくんに教わったとおりに体を動かす。さぞぎこちないことだろう。汗を掻いていて、照明に当たった自分の身体が、猥褻に映っているだろうか。フロアには男たちがびっしりと詰まっている。崎谷を探してみても、見つからなかった。
アキくんが近づいてきて、舌を出す。俺はその舌を口に咥えこむ。歓声が起こる。音は衝撃のように身体を震わす。
アキくんは俺の下着に手をかける。俺は大きくのけぞる。
客の視線を毛穴で感じているうちに、汗が首筋から胸へと垂れた。そして、出口のほうを、俺は見た。
俺は動きを止めた。
とても遠いというのに、目が合った。
「タクミくん?」
小声でアキくんが囁く。あわてて俺はアキくんの動きに追従する。
いた。
見つけた。
やっぱり。
単語ばかりが頭から湧き出る。腹のなかで、誰かが、叩く。
もう一度、あの場所を見た。イベントにいるっていうのに、似つかわしくない、白いワイシャツを着ている。だから目立ったということではない。
視線を、俺が、見つけたんだ。
こんな都合のいいことがあるのか。いや、きっと最悪なことだ。
腹の奥から、叩かれる。痛い。腹痛じゃない。なにかが、自分から出てこようとしている。
そんなこと、あるわけがない。
見ると、フロアから、あの人が出て行こうとしている。
待って。
待ってよ。
声が重なる。俺の声が、共鳴し、頭が揺さぶられる。倒れてしまいそうだ。
そのときだった。僕は、ステージから客席へと飛び降りて、駆け出そうとした。
身体中にとてつもない痛みが走り、叫んだ。こんな声を自分が出すなんて思えない。そんな叫びだった。
べりべりと、肉を裂かれたような痛み。でも、そんなことを気にしている暇は、ない。
客の作る壁と波をかき分けていく。なぜからくらくと走ることができる。痛みをこらえる余裕もなく、走って、
「先生」
俺はそのワイシャツの男の肩を掴む。
何年ぶりに会ったのか、水沢先生の顔はひどく疲れていて、怯えているようにも怒っているようにも見えた。
先生がなにかをいう前に、僕は水沢先生を羽交い締めにする。僕は汗だくで、きっと、臭い。
ステージのほうを見たとき、僕がまだそこにいて、アキくんと一緒に踊っている。
なんだこれは。
僕は、僕から剥がれてしまった。
「熊本」
先生がいった。そして、俺の頭を掴み、髪を掻き毟る。俺たちのことは誰も気にとめる者はいない。
いまは、何時だ?
僕は、先生の手を取って、裏へまわった。誰も使っていない、埃臭い使われない道具置き場のなかに僕たちは入った。ちょうどひと一人寝転べるくらいしか、床は空いていなかった。
僕たちは暗闇のなかでしばらく見つめあった。でもなにも見えないから、僕たちはお互いの顔を手で触れた。懐かしい記憶を弄ぶように、慎重に。
先生は、さっきよりは驚きが抜けたようだった。
会場からの音が遠くから地鳴りのように響いている。
まだタクミはステージで踊っているのだろうか。
先生はなにかいおうと口を開こうとしたのを感じ、僕はその口を口で塞いだ。
言葉のない世界で、このことは始まって、終わらすべきだと思った。
行為をするために必要なものがなにもない部屋で、僕たちは始めた。
暗い部屋で、僕たちはただ貪った。
顔も身体もよく見えないからなのか、重さや温度を、強烈に感じた。
無理にして、傷ついてしまっても気にならない。痛みは、すべてが終わってしまってから引き受ければよかった。そう思っていたというのに、終わらなければいいとも思った。
一度果てても、すぐに僕たちは再び繫がった。
それは、どれだけ自分がなにかを隠していたかをまじまじと見せつけた。これまでタカハシタクミが担ってきたこと。代わりになってくれたこと。自分の抱えているものを、自分で引き受けることだった。
この埃臭い部屋が、この世のすべてだった。僕と、先生以外は、「使われることのないがらくた」しかなかった。
夜が明けた。
窓から射す光で、部屋は薄明るくなっていた。僕たちは、床に寝転んでいた。床は冷えていたけれど、気にならなかった。拭き取るものものもないまま、身体にかかった精液は乾く。
傍で眠っている先生の寝顔をつくづく眺めた。ちかく死ぬ人のような顔をしていた。疲れ果てた顔だった。そしてそれは、この世にまたとないくらいに、とても、とても好きな顔だった。想いがあらたによみがえってきたかのように、胸がときめいた。先生の髪を撫でた。
先生は目をつむったまま僕を抱いた。
「ひがんでいたんだ。お前や油井のことを」
もうこのまま離れることはできまい、と錯覚した。これが最初で最後になるだろうということはわかっていた。
「くしゃみがでるくらいに幸福ってやつだ」
鼻をすすって、僕はいった。なんだよそれ、と先生は笑う。
「小説にあった言葉」
先生は、ふふ、と笑い、
「お前たちは読書家だもんな。でも、遅いよな、俺たち、もうきっと、黄昏だ」
といった。先生は、僕を見つめながら、油井さんを見ていた。悲しくもなかった。きっとそれは当たり前のことなんだと理解していた。悲しみと痛みは別だったけれど、そんなことはどうでもよかった。
「朝だよ」
きっとタカハシタクミは死んでしまった。
さようなら、僕のことを一番理解してくれていた、けだもの。
そして僕は、生きのびた。
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