第30話 水蜜桃とジンジャーエール
「美味しかったね」
帰り道、タケシは機嫌が良かった。
「こういう味、タケシも好きだろうなって思いながら作ってたんだ」
「ジンジャーエールに凍った桃が入ってたやつ、あれ、美味しかった」
「この間のは苦いって言ってたからね。甘いものを入れようかって話になったんだよ」
「あの魔女の人、全然普通の人だったね」
「空飛ばないよ」
でも、魔法は使うけどね。主に美味しい魔法だよ。
そして、私の気持ちをどんどんほぐしてくれたんだよ。
「さすがにこの時間になると涼しいね」
「川べりの公園を歩いて、遠くのコンビニでウーロン茶を買って帰ろうか?」
父さんが母さんと話しているのが聞こえる。
「どうかな?」
「ポテチ買ってくれる?」
振り返った父さんに、タケシが言うと苦笑まじりで、まあ、いいだろう、って返ってきた。私たちは、4人、川べりの公園を、大通りに向かって歩いた。
「ユキノ」
父さんと前を歩いていた母さんがそばにやってきた。
「ごちそうさま。とても美味しかったわ。あなたがご飯を作れるようになってたなんてね」
「また作るよ」
私は笑う。
たった数日の旅行なのに、帰ってきたら母さんは雰囲気がとても柔らかくなっていた。何かが、母さんの中でほんの少し、変わった感じ。
何が変わったのかわからないけれど。
本当に変わったのかもわからないけれど。
でも、今までとても疲れていたのは確かだから、少し休めただけでも良かったのかも。やっぱり大浴場は万能なのかも。あと、父さんだね。
「あのね……」
母さんは言いづらそうに俯く。
タケシは何かを察したのか、たたっと走って父さんの横に行く。
——やだよ。おいてかないでよ。
それはちょっと困る。私は焦ってしまう。
私はまだ母さんが少し怖い。
だって、母さん腹を立てると口をきかなくなったり、無視したりするし。みんなで楽しく今日みたいに時間を過ごした後、いつもダメ出しをしてくるし。
みんな一緒だったら話せるけど、二人きりで話すのはちょっと嫌だ。今日みたいに、何もかもがうまく行った日に「あの時、キワコさんにああ言ったのは失礼だったわね」とか、言われたら、涙が出ちゃうよ。
でも、母さんは、しばらく何も言わないで私の隣を歩いていた。
「あのね、あなたが小さかったころ」
母さんがぽつっと言った。
「ここの公園によく来たの」
……私は何も言えずに前を見て歩く。
来たのかもしれない。
それは私の覚えていない、とても小さい頃の私。言われても戸惑うくらい、自分のこととは思えない。
「おばあちゃんがね」
母さんは半分独り言みたいに続ける。
「あなたを見てニコニコして……これからはこの子のために生きるのねって言ったの。良かったわねって。生きる意味ってこういうところにあるのよって」
母さんの視線はブランコを見ている。誰も乗っていない夜のブランコ。きっと小さい頃の私をそこで遊ばせてたんだろうな。そして、おばあちゃんが母さんと私を見ていた。
「……それ、やだよ……」
私の声は静かだけれど強かった。
「私には母さんの人生の意味は背負えないよ」
「そうなのね」
母さんは、頷いた。
「おばあちゃんはね、とても苦労した人で……おじいちゃんは優しかったけど、あまり合わない人と結婚しちゃったっていうことに変わりはなかったし……それでも明るい家庭を作ろうって頑張った人でね。……母さんやおじちゃんたちのために生きてくれたのね。特に母さんはね、女の子だから幸せにさせたいって……すごく頑張ってくれて……それがとても」
……重かったなぁ。
私はびっくりして、母さんの顔を見る。
母さんがおばあちゃんのことをこんな風に話すのを聞いたことはなかった。
母さんの話すおばあちゃんはいつも明るくておおらかで、家族の真ん中にいる人だったのに。
「とっても感謝してるのよ」
母さんが慌てたように付け加えた。
「でも、あんなに苦労して頑張ってくれてるおばあちゃんをがっかりさせちゃいけないって……母さん、ずっと思ってたのね」
「うん……」
私は頷く。
そうだね。
そう思っちゃうね。
「でもね、今度は自分が母親になったら、おばあちゃんが、やってくれたみたいに頑張らなくちゃって、そう思ったのよね」
だって生まれたての赤ちゃんなんて、もう、本当にどうしよう! って思うほど小さいのよ。全身全霊で守らないと壊れそうなの。
夜も眠れないくらいずっと泣くし、もちろん言葉も話せないし。それなのに、入ってくるのは怖いニュースばかりだし。
歩けるようになっても話せるようになっても、ずっとずっと弱くてまっさらな生き物で。それが私の責任で私の手の中にあるの。
全身全霊かけて守ってきたの。
「母さんね、本当にどうすればいいのかわからないのよ。おばあちゃんがしてきてくれたみたいに、できるだけのことをあなたにしてあげたいって思ってたんだけど……」
母さん! そこは頑張らなくて良いところ!
私は全力でそう叫びたかったけど――
口をつぐんだ。
今言わなきゃいけないのはそんなことじゃなかった。
「母さん。私ね、ちゃんと、言いたいことが言えるようにしようと思ってるの。まだ、あまり上手じゃないんだけど……だから、私は母さんにおばあちゃんみたいに頑張ってほしくはないの。私は母さんに目の前にいる私を見て、私の言うことを聞いてほしいの。それだけなの」
母さんは、あやふやな表情のまま頷いた。
うん。
多分、母さんの頭の中では、母さんはいつもちゃんとユキノの話を聞いていたことになっているんだよね。
怒るのでも、悲しむのでもなく、私はそう思った。
私の精一杯の声がとても小さいように、私が自分の気持ちを説明するのが下手なように、母さんは私の声を聞くのが下手。とても下手。
悪気はどこにもなくて、きっと母さんはおばあちゃんが母さんに手渡した愛情をそのままなぞってる。
そして、たぶん母さんは変わらない。今でもきっと、母さんは母さんなりの精一杯をしてくれてるんだと思う。
だから、きっと母さんはこの後もずっと私と母さんの間に線なんかないみたいに、私と母さんが一つの生き物であるみたいに、行動するだろう。それは覚悟しておかないと。だって、それが苦しいのは私だけなんだもの。
母さんには線がひけない。母さんとおばあちゃんの間には線がなかった。好きな人と結婚できなかったおばあちゃんの一番はいつも、いつも母さんだった。おじいちゃんじゃなかったのね。
だから線をひくのは私の役目。
私だって簡単には変わらない。
今すぐタケシみたいに、母さんの言うことを笑って受け流したりできるようにはならない。今すぐに母さんに色々はっきり言えるようにはならない。線を引くのだって難しい。
だけど。
——ニワトコさん。どうして私、こんなにさみしいの。
こんなに大切にされていて、愛されてるのに、どうして、こんなに苦しいの。
——巣立ちの時期が近づいているからじゃない?
ニワトコさんは、黒猫のジュードを膝の上で撫でながら、本当にそれは普通のことなんだよ、って、そんな口調で言った。
——家の中だけじゃなくて、外から栄養を貰わなくちゃいけない時期が来たんだよ。たぶん。だから、僕はここに来たし、ユキノちゃんはここにご飯を食べに来たんじゃない?
私は、もう、母さんとは違う生き物だった。
「——ユキノ、本気で学校を変えるつもりなの?」
母さんが尋ねる。
私は頷く。
「この間、言ってた、あの学校にするかどうかはまだわからないけど、卒業生の人とお話して、良さそうだなって思って。父さんと母さんが旅行に行ってる間に問い合わせの電話、してみた」
「あなたが……?」
母さんの声はとてもびっくりしている。
「すごく緊張したよ。脚本書いて、キワコさんと半日練習した」
脚本先に書くのは、すごく効果が高い! 父さん召喚で私は自信をつけたよ。キワコさんはものすごく根気よく付き合ってくれた。ニワトコさんは、「俺、敬語がイマイチ……」とか言って、逃げちゃったけど。
「夏休みの前に、一度、見学させてもらうことになったの」
「それじゃあ、母さんも日程を調整しないと……」
「一人で行ってくるよ」
「え」
「大丈夫。一人で行ってくるよ」
「でも」
心配そうな母さんに私は真面目な顔で頷いてみせた。
「もしその学校に行くことになったとして——母さん毎日学校についてこれるわけじゃないでしょ。今度の学校にちゃんと通うには私が一人で行って大丈夫って思えなかったら、だめでしょ」
公園の端っこ、大通りの近くで、母さんは、ふうっとため息をついた。
「そうね。ユキノが正しいわ」
信号のそばで客待ちをしているタクシーの明かりが赤い。
「学校に行って、多分、その後で保護者の人に来てくださいって言われることはあると思うの。その時はちゃんと言うから、お願いしてもいい?」
「もちろんよ」
それから母さんは「あーあ」と大きな声を出した。
「あんなに必死で育てて、気がついたらいつの間にかこんなに大きくなっちゃってるんだもの」
「……」
吹っ切れたような明るい声だった。私はおずおずと、母さんの顔を見る。
「その上、知らないうちに父さんと裏で話をつけて、いきなり旅行に送り出したりするし。この忙しいのに、もう!」
母さんの表情はいたずらっぽく、明るく、そして、目の端に、ほんの少し涙が光っていた。だから私はことさら明るい声で返す。
「エステとお買い物と大浴場の旅行をセットしちゃうなんて、すごくひどい子供だね!」
「その間に勝手に学校を変える段取りまでつけちゃったりするし。信じられない」
「考えられないね! ぐれちゃったのかも」
「しかも、こんなに心配してるのに、学校見学についてこなくていいなんて、生意気なことを言うようになって」
「……それは、ひどい。よほど育て方が悪かったんだね! 親の顔がみたいな」
「ユキノ……!」
母さんが笑いだした。
「言うわね、あなた」
「なんだ、なんだ、楽しそうだな」
父さんが興味を持ったらしく追いついてきた。
「知ってる? 父さん。私、母さんより背が高いんだよ」
私は父さんを見上げる。
「え……嘘」
びっくりしたのは父さんじゃなくて母さんだった。
「母さん普段ハイヒール履いてるし、私猫背だから」
今日はぺったんこの靴だから、隣に立つとわかるよ。ほら。
「お。本当だ1センチか——2センチか……ユキノのほうが高いな」
「やだ、嘘……全然そんなこと気づかなかった……」
母さんは愕然とした顔をしている。実はかなり前から私のほうが高かったんだよ。ふふふ。ほんの、少しだけ、だけど!
「ユッキ、ポテチ選ぼうよ」
タケシが父さんから渡された千円札を持って声を上げる。
「ガリガリ君もほしいな。暑いし——いい?」
「いいぞいいぞ。先にいけ」
父さんが笑うと母さんが何か言いたげに口を開いて——それから口を閉じた。着色料とか添加物とか、何か言おうと思って、やめたんだ。
タケシと一緒にコンビニに向かって足を早めて、それからふと、振り向くと。
父さんと母さんは公園の端っこで、川の水面に映る月を見つめていた。父さんが母さんの肩を抱いて、母さんは、コテンと頭を父さんの肩に乗せていた。
私の胸が、きゅうってなる。
「タケシ、ガリガリ君、コーンポタージュ味ってまだあるかな」
「ユッキ、変なもの食べたがるよね」
私たちは、手を伸ばす。抱きしめるために。距離を取るために。しがみつくために。助けるために。
苦しめて、愛して、色々、試行錯誤しながら、一緒に歩く。
「待って……!」
走り始めたタケシの後を追いかけて、私も走る。
7月の夜の熱気をはらんだ風が、私の髪をなびかせていった。
ネコばあさんの家に魔女が来た 赤坂 パトリシア @patricia_giddens
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