記憶

 痛みより先に、熱い。

 叩かれたことは。言葉でなら。たくさん、あったけれど。

 実際に叩かれるなんて。


「いつまでもいつまでも戯言みたいなことをごちゃごちゃと」


 姉は、笑顔のままで。

 だけれども、声は低く這って、軽蔑を存分に響かせて。


 表情と声のミスマッチは、姉を、人間ではない何かのように感じさせた──昔、迷い込んだ木々の深い場所。お寺と呼ばれるその場所にあった、朽ちかけた、怖い、像と被った。


「とても私の妹とは思えない。劣等な人間、そのものみたい。信じられない。きもちわるい。あなたはやはりおかしいのよ杏奈」


 言葉がめぐる。頭のなかに。心のなかに。全身に。

 正しいんだ。正しいんだ。正しいんだ。

 私の家族は正しいんだ。だって、倫理監査局の人間なんだから。

 倫理の守り手なんだから、と。

 

 思い続けてきた。……思い込み続けてきた言葉が、全身に行き渡る血液のように、自分のなかに駆け巡って。


 それが、ただ。

 あっけなく。ひとつのピースで。


 ケーキショップの前。峰岸さんのいた隣。

 彼らが、いなかった人間をいないと言っている。

 ただそれだけで──壊れるなんて。


「……私はおかしくないよ」


 絞り出すように、杏奈は言った。


「どうして、いなかった人をいると言うの? 証言してた国立学府の学生さんって、誰? 私はそんな人見なかったよ。その人の写真を見せてよ。絶対に……いなかったよ」

「データが上がってきてるのよ。Necoだって正しいと言っている。証言者の情報はプライベーティだから話せない。ねえ杏奈、知ってる? たとえ学生さんであっても。国立学府の学生って、杏奈よりも、ずっとずっと優秀なの。彼らの方が権利があるの。それが倫理というもの」

「いなかったんだってば──」

「それがあんたの記憶違いじゃないって、どうして言い切れるの?」


 姉の、刃物のような勢いに。

 怯むけれど。……でも。


 譲れない。譲るわけにはいかない。これまでとは違う。……杏奈は、今回にかぎっては、家族のほうが間違っていることを知っている。


 不思議な感覚だ。

頬の痛みは、気にならないのに。心だけが──ずきずきと、痛み続ける。


「……お姉ちゃんもお兄ちゃんも、知ってるよね? 私は、一度見たことや聞いたことは、忘れない。忘れられないの」

「確かに記憶力だけは悪くなかった。でも、一度見たもの聞いたものは忘れないって、それだって怪しい話。もしそこまで完璧な記憶力を持っているんだったら。どうして、教科書を一度見ただけで、テストで満点が取れないの? 写真を撮るのと同じことでしょう。でも、それが点数に全く反映されてなかったわよね?」

「それは……教科書を見たって……だって……わからなかったから」


 教科書のページは、そのままかたちとして覚えられる。

 だけど、何が書いてあったか──結局、それが理解できない。

 だから、点数にはつながらない。単純に暗記すれば良いと言われた箇所も、出題文の意味がよくわからなくて。結局、得点できない。


「私は知ってるのよ? 杏奈は確かに記憶力は良いけれど、理解力が追い付いていないせいで、記憶力も満足に機能していなかった。……わかる? あんたの記憶力は、そういう意味では、不完全なの。……いくらカメラが完全なものだとしたってねえ。レンズがぼけてれば、意味ない」

「……勉強はできなかったけど。人がいたか、いなかったか。それくらいは、わかるよ」

「だから──それをどう客観的に証明できるのか、って聞いてるの」


 聞いてなかったよ。そんなこと。

 そう思ったけれど、言葉を、呑み込む。


 その隙を突くかのように。

 ひらりと、兄が手を挙げて、おどけたように口を開く。


「発言しても良いですか」

「どうぞ」

「杏奈……」


 優しい瞳を、兄は杏奈に向ける。


「おまえの記憶が正しいかどうかなんて、ぶっちゃけどうでもいいんだよ」

「……どうでも、いい?」

「犯罪者の息子だから、犯罪をする。シンプルだよ。もともとが、根絶やしにしても良いやつらなんだ。犯罪者の子どもなんて。それを生かしておいたことが間違いなんだから。──犯罪者の息子が犯罪をする可能性だけで、人間未満処分にしてもよかったくらいなんだよ」

「峰岸さんは……犯人じゃなかったとしても?」

「いずれはどうせ犯罪に走るだろ」


 兄は、優しい瞳のまま。

不釣り合いに、唇だけを心底軽蔑するかのように歪める。


「劣等者っていうのは、そういうものなんだよ。──ちっとも倫理が通じない」


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アゲイン 高校の同級生が、ペットショップで売られていました。 柳なつき @natsuki0710

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