ちがう

「……どうなってるの?」


 杏奈は半ば、呆然としながら言った。


「おかしいよ……こんなの」

「可哀想ね、杏奈」


 姉は、わざとらしく顔をしかめた。


「おかしいのは、杏奈の方なのに。そのことに気づけないなんて。可哀想。ああ可哀想、可哀想。でも大丈夫よ。これから、杏奈はプログラムを通して、倫理的になれるから」

「……プログラムも、おかしいし」


 絞り出すように言いながら、両手の拳を、ぎゅっと握る。


「……どうして、叩くの? どうして、ばかにするの? 劣っていることは……そんなに、悪いことなの?」


 姉と兄は困ったように顔を見合わせ、ふたりとも憐れむような、咎めるような表情で、杏奈を見る。


「もちろん、劣っていることはとても悪いことでしょうね。――劣っているほうは、それがわからないから、劣等なんでしょうけど」

「なんで? どうして? 叩かれたら、痛いし。ばかにされたら、悲しいし」


 ぼろりと。

 泣きたくもないのに、涙が出てくる。


「劣ってたって、優秀だって、それは、おんなじなのに」

「ねえ杏奈。旧時代において、当時はまだ人間とされていた劣等種がどれだけの人々の幸福を奪っていたか、知っている?」

「……しらない、しらないけど、そんなの」

「偉大な高柱猫の計算によれば、なんとGDP比で30%もの損失が続いていたんですって。そして、そんな劣等種たちが生きるために、何十兆円ものお金、今の貨幣価値に換算すれば百兆円以上にも相当するお金が、費やされていたの。しかも、当時は労働環境もひどくて、人々は週に5日、8時間も働いても暮らしに余裕がなかったし、残業なんて文化もまだ残っていて、普通に働いているだけでは暮らせないと、人々は泣いていたのよ。――ねえ、わかる? この歴史的事実が。何を意味するのか」


 兄も、話は聞こえているはずなのに。興味なさげに、あさっての方向を向いて、欠伸なんかしていた。――どうして。どうして、こんな異常な状況で、退屈そうなのか、……杏奈には、やっぱり、まったく、理解できない。


「わからないなら教えてあげる。劣等種は、人間様に迷惑をかけてたってこと。劣等な人間をひとり養うために、まともな人々の貴重な時間や能力が、いったいどれだけ費やされてきたのかしら。考えるだけで恐ろしいって……高柱猫も、そう言ってたのよ」

「高柱猫の動画も杏奈に見せなくちゃだな」

「そうね。プログラムでは必ず、猫の動画を見せることになっているから。猫の理念を改めてわかってもらわないとね。――ねえ杏奈、わかるわよね、……わかってね」


 姉は。

 やっぱり、キュートな笑顔で。


「人に迷惑をかけてはならない。社会の常識でしょう? 杏奈が、倫理的でなくなってしまえば、社会評価も下がる。超優秀な人ならいいのよ。そのぶん、他者の幸福を生み出してくれているのだから。でもね、杏奈のようにたいして価値も生み出せなくて、社会評価が低い人間は、社会のなかできちんと働けないし、ただただ他人に依存するだけの存在になる」


 姉は、目を細めた。


「……ねえ、わかる? 社会に価値を生み出せない人間は、倫理を身に着けるしかないのよ。それも、徹底的にね」

「……お姉ちゃんは? お姉ちゃんは……倫理的だよね。だって、倫理監査局に入ってるし……お兄ちゃんも……」

「私たちは倫理の守り手だから。私も悠臥も、能力は高いのよ? 杏奈がその高さを理解できるかはわからないけどね。だけど私たちは、能力が高くてなお、倫理に身を殉じる。――高柱猫の思想にはそれだけの価値があるって信じてるから。倫理に身を殉じて……自分たちが、倫理の、倫理を重んじる社会の代表者になる……」


 姉は、誇らしげに、両腕を持ち上げた。

 ひらり、と。ダンスをして。その黒い制服を――高級なドレスのように、見せつけるかのようにして。


「あんたとは全然ちがう生き方をしているの」


 あまりにも完璧な笑みに。

 記憶が、またしても、近くで一気に蘇る。鳴り響く。――嘲笑われた記憶。ばかにされた記憶。いじめのような、仕打ちを受け続けた記憶。

 それはきっと正しいんだって、……これまで、自分に言い聞かせ続けてきたけれど。


 だって、ちがう。杏奈には、言葉ではうまく説明できないけれど。ちがう。……ちがうのだ。

 峰岸さんは、ひとりで買い物に来ていたし。

 隣に、学生さんなんかいなかったし。


 杏奈には、すべて目とイメージでわかるのに――証明するすべもない、証明するにはどうしたらいいのかもわからない、……なにもかも、無知で、これまで自分が優秀ではないことにぼんやり絶望めいた気持ちを抱いたことはあっても、こんなにも、……こんなにも。


 自分の至らなさが、くやしいのは。

 そして。ふつふつと。絶対に正しかったはずの家族に、怒りを覚えるのは。

 はじめての、ことだった。


 だって、だって――うそだった。

 間違っている。なのに。……スタンガンで気絶させて、拘束して、閉じ込めて。


「……どうして……ずっと……ずっと……お姉ちゃんだって、お兄ちゃんだって……。お姉ちゃんとお兄ちゃんが、倫理と社会の代表者、だったら」


 ずっと、これまで、……家族は正しいと思い続けてきたけれど。

 自分より、上の存在だって、何も言ってはいけないって、自分に、ずっと、言い聞かせて、きたけれど。


 杏奈は、瞳を涙で濡らしながら。

 拘束されて、起き上がれない身体で。それでも。めいっぱいに、身体を起こして。

 泣き顔で――でも、視線だけでも、姉と兄をしっかり見据えて、言った。


「――おかしいよ。倫理と社会のほうが、おかしいんだ」


 姉は、表情だけは笑顔のまま。兄は、猛獣のように顔をしかめて――示し合わせてもいないのに、ふたりで一気に立ち上がった。

 倫理監査局の真っ黒な制服をはためかせて、不自然なほど、ひらりと、雅やかに。


 そして姉は、その笑顔のまま真っ直ぐ杏奈のもとに来て、まるで拳銃が発砲されるかのような軽やかで決定的な音とともに、杏奈の頬を、躊躇なくはたいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る