第8話家族になりましょう

 女が目を覚まして最初に見た物は見知らぬ天井であった。

「見知っている天井も思い出せないけど」

 なんとなく眼を開けることすら久しぶりな気がするので、思い出せるだけ思い出していく。一番古い記憶では細長かったり四角だったりする、なんだかすごくデカい音を発てて目の前を通り過ぎていく物体たち。同じ道を同じ方向へ走っていく中に人が跨って乗っているものもあったからあれらは乗り物だろう。

「その次」

 何が何だかわからないものばかりでフラフラしていたら人の騒ぎが聞こえた。祭りや歓声による騒ぎではなく、悲鳴による騒ぎだ。

「当然その方へ行くわよね」

 行った。

 そして見たのは化け物が人間たちを襲っている光景。

 化け物は二種類いた。

 一種は見た目からザコそうな奴等。線は細いし、なんだか大量にいた。

 もう一種は見た目からそこそこ強そうなやつ。雑魚の奥でふてぶてしく眺めているようにも感じた。

 名前はそれぞれ、

「SecondとHazard」と呼ばれていたか。

 前者が《Second》で後者が《Hazard》。

 それを教えてくれたのが、

「ショーキチ……だったっけ?」

「そーそー、私の弟がどうかした?」

 外の風と一緒に洗濯物を抱えた女がベランダから入ってきた。

「いやー、よく寝てたね。鐘吉があなたを連れて帰ってきてから丸一日ぐらい?は寝てたからねー」

 そう言って女は抱えた洗濯物を床に置き、胡坐をかいて畳み始める。

 無言だ。

 鐘吉のことを弟と呼んでいたので、彼女は恐らく鐘吉の姉だろう。姉とするには纏められた髪は栗色で、記憶にある鐘吉とは似ても似つかない色だ。

「……」

 目を凝らしてみれば目元は似ているだろうか。なにせ、その鐘吉の顔すらしっかり見たことがあるわけではない。面と向かったことはたった一度、自分の力をスマートフォンという物体を触媒にして彼に預けたときだけ。

「そういえば、あなた名前は?」

「え?」

「いや、だから名前。鐘吉ったらあなた連れてきたはいいけど名前も知らないんだから困っちゃうわー。おかげであなたのこと愛人と呼ぶしかできないし」

「愛人……」

「気にしない気にしない。深い意味は無いから」

 拾われて運んでもらって身でもその呼び名はどうかと思う。言葉にはしないが。

「それで、あなたの名前は?」

「私は、」

 思い出す。己はかつてから何と呼ばれていたか。

 だが、やはりと言うべきか記憶から己の名前が出てこない。

 どんなに探ってみても鐘吉と初めて出会った前後からの記憶しかなく、己の名を呼ぶ姿や声は一切脳内で再生される兆しが無い。

「ごめんなさい、思い出せないです……」

「あー……」

 と、鐘吉の姉は困ったような声を上げた。

「とりあえず愛人って呼ぶわ。呼び名が無いと困るしね」

 よくない響きの言葉が己の呼び名として固定された。

 不本意だが、仕方が無い。

「あの、あなたは?」

 名前を知らないと不便だ。同じ不便をかけていたのだから愛人は申し訳なさを感じつつ、訊いた。

「綾野・小町。小町でも、お姉さんでも好きな風に呼んでね」

☆     ☆  ☆

 一食も何も食べないのはマズいでしょ、と愛人は小町に連れられ、部屋を出た。

 どうやら自分が寝ていたのは小町の部屋のようで同じ二階に鐘吉の部屋もあるとのことだった。

 もっとも、彼は今アルバイトで留守にしていていないのだが。

 廊下の端に登りと降りの階段が一つずつあり、先を行く小町が降りを進んだので愛人もそれに付いていく。

 それほど長くない階段を降り終え、すぐの扉を開けるとそこが綾野家のリビングとなっている。

 言われるがままにダイニングテーブルの椅子に座らされ、小町が淹れてくれたお茶に口をつける。

「それでも飲んで待ってて」

愛人の前に出されたのはティーポットから注がれた緑茶だった。

 彼女にとってその液体は自動車やスマートフォンなどと同じく始めて見たものという感想を抱かせたが、緑茶特有の深みある瑞々しい香りが不思議と落ち着きをもたらしてくれた。

 鐘吉と出会い、《Second》を撃破してから一日が経っていたが、その時間を眠っているうちに通り過ぎた彼女にとっては昨日のようなことでもあった。

 愛人には実質一日分の記憶しかないのだ。

 そんなことなど知る由もない小町は質問を投げかける。

 色々訊きたいことはあるのだけど、と前置きしつつ、

「どこから来たの?」

☆      ☆  ☆ 

 小町は既にキッチンと向かい合っており、愛人の表情を見られない。

「……わかりません」

 返答が返ってくるまでに水を敷いた土鍋に火をかけ、卵と既に炊けている白米を器に盛る程度の時間を要した。

 即答でないあたりが、嘘かどうか判別する材料になるだろうか。

 考えようとして、止めた。

 最初から疑いかかるのは主義に反する。

「じゃあ帰る場所も?」

「はい」

「ふーん」

 弟が連れて帰ってきた女性に帰る場所無し。

 いったいどこで拾ってきたのやら。

 小町は、どういった経緯で鐘吉が愛人を我が家まで連れてきたのか、まだ本人から訊けないでいた。

 仕事から帰ってきたらソファで寝ている彼女がいて、そのすぐ下の床で寝ている弟がいたのだ。

 それなりに驚いた小町は慌てて弟を起こし、事情を聞こうとしたが「わからない」「俺も眠たい」の一点張りで結局何も聞けずじまい。

 それなら女のほうに聞こうとしても、こっちはこっちでまったく目覚めないので困った。

 普段の生活圏に見知らぬ女性を置いておくわけにもいかず、かといって空き部屋に蒲団があるわけでもないので、仕方なく自分の部屋のベッドに寝かせた。

 けっこう軽くてびっくりしたわー。

 身長は自分より高いが、体重はおそらく自分より軽い。誤差の範囲内だが。きっと。

 そのおかげで運び入れるのは簡単だった。

 しかし、帰る家無し、か……。

「お金はあるの?」

「……無いです」

「ふーん」

 少し意外だった。

 と言うのも、愛人の恰好が小奇麗だからだ。

 長い黒髪は髪をすき入れれば遮るものなく下まで落ちていきそうだし、頬は張りがあって、滑らかだ。

 そのほか──今はもう脱がせているが──着ていたローブの端々に焦げがあったのを除けば、他全ての衣服は気品感じられるものだった。

 一般人の小町にとってそれは雰囲気から得る感想でしかない。

 フリルの多さや、白を基調にして所々に黒のアクセントが撒かれていることがその所以だろう。街を歩けば、一人や二人は似たような服装がいるかもしれない。

 ともすれば、小町が感じた気品は、着ている人間──愛人──と相まって生まれたものかもしれない。

 どこかのお嬢様、とそういうことかもしれない。

 そういった感想から幾ばくかのお金は持っていそうと踏んでいたのだが、それもないとなると果たしてどう言った理由で彼女はここにいるのか。

 記憶を失っているお嬢様(らしき人)。それが小町が愛人に抱いているイメージだ。

 さらに思慮という名の妄想を巡らせれば、彼女の身に突然何かが襲って、着の身着のまま、しかし身を隠す必要があるのでローブを纏い街に逃げ込んだ、というのが、小町が組み立てた愛人の状況へのいきさつに対するストーリーだ。

 あのボロボロなローブは人目から逃れるための。

 あんなの着ていたら逆に目立ちそうなものだけど、と小町は思う。

 それこそ、まだローブなしでその下のフリル付きを晒していたほうが、注目は浴びるだろうが、人々の記憶にそこまで残らないはずだ。

 顔を隠せる利点だけがローブに劣るが、結局どっちを取るかだろう。

 ここまで来て一般人の小町は考えるのを止めた。

 これ以上はややこしくなるだけだ。

 ややこしいのは御免だ。

 できるだけ簡潔でありたい。

 例えばそれはおかゆを差し出した女の処遇に付いても同じだ。

「しばらくうちに居なさいよ」

 警察に届け出るのはもちろんだが、それをしたところで愛人の帰る場所がすぐに見つかるとは限らない。

 その間、例えば離れてどこかの施設へ彼女を送ったところで、やはりその後が気になってくるであろう。

 日々の中に、そんな時間を作るぐらいならいっそのこと手元に置いておいたほうが心配ない。

「……いいんですか?」

「もちろん。ちょうど部屋も一つ余ってるしねー。

 そうなってくると愛人と呼ぶのはさすがに忍びないね」

「そうですね」

 ここまでの会話で初めて小町と愛人の意見が合致した。といっても話し合いをしていたわけでは無いので、険悪な空気が二人にあったわけでもない。

 ただ、この合致が二人の距離を一気に近いものにした。

 彼女たちはそれぞれ口元に笑みを作り、それをお互いに認め、さらに笑みを濃くする。

「そうねー。いつか本当の名前がわかるだろうし、深く考えて愛着沸いても困るから、愛人から人を取って、愛、とありきたりだけどそう呼ぶことにしよー」

「はい、その名前、いただきます」

「どうぞ。それと、そろそろそのおかゆも食べてくれると嬉しいかな。冷めちゃうし」

 小町が促すと、愛は慌ててレンゲでおかゆを掬い口に入れた。

 その様子が体格よりも幼く見え、小町は自身より年下なのかもと感想を得る。

 二口、三口目で愛の動きがストップした。指一つ動かない。レンゲを持った手が浮いたまま微動だにしないまま三秒。

「あー……」

 愛は悲痛と苦悶と驚愕をミックスさせた表情を顔に広げ、すっかり冷めた緑茶を流し込んで口を空にすると、そのまま涙を流し始めた。

「梅干し苦手だった?」

 それも泣くほどに。

 これは感想が正しかったかも、と小町は涙目で梅干しを避けて食べる愛に向かい思うのだった。

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