第9話困ったときの爆発
鐘吉の休日は買い物に潰れていた。
土曜日。
学校もなく、バイトのハンバーガーショップもシフトが埋まっていて、出勤の予定もない。
さらに、いくつかやっているソーシャルゲームのどれもがイベントが開催されておらず、彼にとって久しぶりに暇な休日になるはず……であった。
「久しぶりだ」
家族と買い物に出かけるのは半年以内の記憶にはなかった。
一年前まで範囲を広げてみても、両親が他界してから姉と出かけたことが数度あったぐらいだ。それも葬儀や墓参りなど、両親の死が関係することがほとんどで、決して喜ばしい記憶ではない。
このように両親の死に関した記憶がいくつも湧き出てくることが、両親は記憶を消し去る化け
覚えているだけ鐘吉は幸せかもしれない。少なくとも、世間はそれを含めた同情を彼と彼の姉に送った。
なにはともあれ久しぶりである。
鐘吉は今、自宅から車で三十分の距離にある大型ショッピングモールに来ている。ここなら大体の物が揃うから、と姉……小町が推挙した場所だ。
反対する理由もないが、反対したとしてもハンドルを握るのは小町であるから、鐘吉は黙って従うしかない。
他人の買い物に付き合うことを面白いと思えるほど、鐘吉は他人の服装に興味があるわけでは無かった。
☆ ☆ ☆
「なんで俺が」
つい呟きたくなった。
口から洩れるのは二回目である。
一度目は車の中。
たまの暇を家の中で素材集めにでも費やそうかとしていた際の、突然の連れ出し。
出発した車内でぼやいた言葉に姉が、
「荷物持ち」
と理由を付けたが車では要らないだろう。
駐車場まで運ぶとしてもいったいどれほど買いこむ気であろうか。
だが、今日の買い物が誰のための買い物か考えたところで、自分の必用理由が多少は分かった。単純に量が多いのだ。それも、やはり、駐車場まで運ぶのが大変な量になるだろう。
なにしろ、彼女に着替えの有無を訊けば、
「これしかないわ」
それがそのまま綾野家にやってきた女の荷物の答えだった。
持っていたのは杖とダイヤル付きの分厚いハードカバーの本だ。
記憶が無いと自称する彼女について、その本を見れば何かわかるかもしれないが、当たり前のようにダイヤルの番号も覚えておらず、結局そのまま。
とにかくこれから生活していくうえで着替えは必用と買い物に出かけた次第である。
☆ ☆ ☆
「愛はどんなのが好み?」
「そうですね……」
呼ばれた名が自分のものだとは、もう慣れた。
元から名前を覚えていないのだ。
何と呼ばれようが抵抗を感じないことも頷ける。
そんなことを小町に話せば、
「じゃあ、愛人のままにする?」
「愛のままでお願いします」
「つまりはそういうこと。気に入ってくれたようでなにより」
そういうことらしい。
確かに、愛と呼ばれることは抵抗以上に落ち着きもある。
いつか本当の名がわかったとき、自分は〝愛〟という名を捨てられるだろうか。そう遠くないうちにその決断が迫られるような気もするが、これは期待だろうか。だがしかし、胸をつつくような不安もある。
名前を呼ばれるためには名を知る人物が近くにいる必要があるし、そのためにまずは着替えが必要と言うことにもなる。
二人の予定が空いていた今日までは小町のものを借りていたが、これからのことを考えればいつまでもそうしているわけにはいかない。
小町の所有している数には限度があるし、何といっても下着を他人のもので補い続けることは、貸す者と借りる者双方にとってあまり得になる関係ではない。
少なくとも、愛にとって今回の買い物で自分の下着が揃うことは気楽になれる材料であった。その費用を持つのは己ではなく、小町たち綾野家であることを忘れることができれば、の話ではあるが。
落ち着いたら自分でお金を稼ごう。〝円〟という通貨に聞き覚えは無いが、それでも下着を上下三セット買っただけで万を軽く超えたのは驚いた。
小町は平然としているが、これが常識なのだろうか。
否、綾野家に来てから一度ならず外出し、買い物に付き添いもした。その時、鐘吉や小町が財布から取りだした金額はこれらより桁が一つ少なかったはずだ。
……一度だけ、コンビニと言う店に買い物に出かけたとき、鐘吉が血走った眼で分厚い紙のようなものを一万円で買っていたが、あれは例外な気がする……。
その例外は置いておくとしても、やはりこの買い物は高い。
「さぁ、次は服を見に行こう」
「あの、」
「ん?」
「これ以上は、その、申し訳ないと言うか……」
「ん~、遠慮してる?」
「それは、そうですけど……」
「まあ、確かに今から一人分の生活に不自由しない衣服を揃えようと思うとそれなりの額にはなるしねえ……」
「やっぱり」
「ならこうしよう。今から私が選んでくるので最後。足りない分は私のお下がりで我慢してもらう。それでいい?」
「え、それでも、」
愛としては一着でも申し訳ない段階まで来ている。遠慮を告げようとしたが、
「それじゃあ、二人でお茶でも飲んでて。行ってくるから!」
聞く耳も持たず行ってしまった。
「あ~、姉ちゃんやる気になってるから止めても無駄だと思う」
「……」
「とりあえず喫茶店でも探すか。あ、遠慮とかするなよ?俺だけ頼むのも恥ずかしいから」
☆ ☆ ☆
店はすぐに見つかった。
複合施設なので大体のエリアに分けられているし、さらに喫茶店ともなれば足を休める場所として、そのエリアを無視して点在している。
鐘吉と愛が入ったのは点在して置かれた店だ。つまり、足を休めるための場所。
カウンターでコーヒーを二つ注文し、受け取って席につく。
「コーヒーはわかるんだな」
「まあ」
「ふーん」
コーヒーの経験など小学生でもない限り誰でもあるだろう。珍しいことではない。だが、鐘吉の目の前にいる女にとっては少し重要な部分ではある。
何があって、何が無いか。
愛はスマートフォンの存在を知らなかった。
機能を、特に遠くにいる誰かと連絡を取れることを説明し、何か似たような物を知らないか問えば、思い当たる節はあるらしかった。
「いったいどこから来たんだよ」
「さあ?」
コーヒーやその他のいくつかの知っていることが自分たちと変わらないことから、よくわからない国──小町に言わせればアマゾンの奥地──からやって来たわけではないだろうということだった。
「大体なあ、俺に対してそっけなさすぎないか?」
「そお?」
「そうだよ!姉ちゃんには丁寧だけど、なんで俺にはさあ、とかそお、とか二文字ばっかなんだよ!」
「鐘吉」
「ん?」
「う、る、さ、い」
四文字。
二倍だ。
「納得できるか」
声が大きくなっていたことは自覚していたので小声でつっこむ。
「大体なあ、ここ出してるの俺だぞ」
「それは、ごめんなさい……」
鐘吉は正直、次は何文字で反抗が来るか、数える気でいた。
それを忘れるほどに、愛の声はしおらしかった。
予想外の反応と言えば、予想外ではあった。小町に対してならあり得るし、現に今さっき見た光景であるが、それが自分にも向けられるとは。彼女と暮らしを共にするようになって短いが、短いがゆえに自分が彼女にしてきたことは少なく、謝罪の言葉を引き出させる筋は無いと思っていた。
沈黙が生まれた。
謝罪された直後に気にすることないと言えればよかった。後悔しているこの時にでも言えばいいのだが、タイミングを逃すとそうもいかない。
鐘吉のカップのコーヒーはほとんど空になっているが、愛の側のは半分ほどで止まっている。口を付けるのを止めたのだ。
ああ、面倒くさい。と思うのは半分自業自得だろう。愛の謝罪は、鐘吉が引き出した言葉だ。例え、本来の狙いは言葉の応酬の続きだったとしても。
沈黙の中、鐘吉はスマホに視線を落とせばそれでいい。だが、それを持っていない愛は窓の外を眺めたり、紙袋の中を軽く除くことぐらいしかすることがない。
目の前の相手に退屈させていることに、今度は鐘吉が申し訳なさを感じる番であった。誰かといるときスマホを弄ることにそれほど抵抗は無い神経を持っていたが、今回ばかりはその神経がストライキを起こしている。自分だけ逃げるなと、そう訴えているようだ。
何か話題があれば。
買い物に出掛けてここまで来たのだ。
しかし、買った物について話をしようとしても、今彼女の手元にある紙袋は下着が入った一種のみだ。
店の中に鐘吉は入っておらず、外からではどんなものを購入したかはわからない。
わからないが、さすがに訊くのもどうかと思われるので、この話題は断念。
記憶の無い彼女だ。訊いてみても、また二文字の応答が返ってくることは予想がつく。
何かドカンとイベントでも起きないだろうか。
そう、ドカンと。大きい何かが。
鐘吉が心でそう願ったとき、爆発音が机のカップを揺らした。
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