四 花と獣 (6)
明けて翌年。即位礼の前日、西都の花は満開だった。
万葉山はふもとから頂にかけて皆薄紅色の霞に染まり、さながら春衣を被くようである。大路に沿って流れる衣川はさんざめく花びらを浮かべた花筏、里に植えられた花も、薄紅のもの、淡色のもの、濃いも薄いもさまざまに乱れ咲く。その中を娘がひとり走っていた。
宮中は、白浪殿の渡廊である。
たおやかというには少々いかつい肩に紅の衣を引っ掛け、いつもはほうぼうに跳ねている髪も椿油をつけてくしけずってある。衣をいくつも重ねているが、軽々と走ってみせるあたりがなるほどこの娘らしかった。
「しののめ! いるか、東雲」
「なんだ、騒々しい」
「助けろ! おまえのところのばばがわたしを飾り立ておるのだ」
几帳を倒す勢いで転がり込んできた華雨を見て、東雲は筆を止めた。危うく料紙から筆走りそうになる。恰好もさることながら、常はさっぱり化粧っ気というもののない華雨の口元に紅が挿されていたためだ。気づいた華雨が手で拭おうとしたので、「よいではないか」と東雲はわらった。
「そうしていると、女らしゅう見えるぞ。はな。もっとやってもらえ」
「嘘をつけ。さっき白雨の奴に会ったら、お前はいつから女装を始めたのかと真顔で聞かれたぞ」
「あいつは口下手なのさ。おまえがいつもと違うから、とっさになんとたとえたらいいのかわからなかったんだろう」
「そんなにかわいい男かね、あいつが」
股をかっぴろげて、どっか、と華雨は円座に座った。年頃を過ぎた娘であるのに、華雨のそれときたらがさつを通り越しておのこそのものである。
「とめが見たら、奇声を上げるぞ」
「今さらだろ」
「会うたび泣きつかれる俺の身にもなってみろ。……怪我の具合はもうよさそうだな」
「どこも変わらんよ。縫い跡を見てみるか東雲。うまくくっつけてもらったから」
面白がった華雨が衣から腕を抜こうとするので、「肝を冷やすのは一度で十分さ」と東雲は肩をすくめた。
東征で華雨は深手を負い、ひと月ほど屑ノ原の地で生死の境をさまよった。医者には、もうだめじゃ、と幾度となく匙を投げられかけたが、それでもこちらに戻ってきたは華雨の意地といってよかった。
西都に戻った華雨はしばらく、乳母屋敷で養生の日々を過ごした。
十六のとき、縁を切るつもりで飛び出した家である。それがかような形で戻ることになり、華雨としてはばつが悪いことこの上なかったが、結などはかしましく罵りながらも、なんだかんだ、世話をやいてくれている。
戦も、酒も、女も男もない日々は久しぶりだった。
華雨は濡れ縁にごろりとなると、ささめ雪の降る西都の天を白い息を吐きながら見上げた。かたわらに置いた火鉢の炭が時折爆ぜる。静かだ、と思った。こんな風に、立ち止まって何かを考えるのははじめてだった。
時に、かじかんだ手を擦り、時に、投げ出した足をぶらぶらとさせながら、華雨は降っては止む雪を眺めた。そうすると、次第に頭は澄み渡り、己の身の処し方も見えてきた。
『具合はどうだ』
東に残り、戦の始末をしていた白雨が西都に戻ってきたのは、雪のいっそう深まる如月のはじめだった。乳母のばばへの挨拶だ、と菓子を押し付け白雨は言ったが、こちらの調子を見に来たのだろうと華雨にはわかった。
女衆は皆出払っていたため、中へ招いて、温めた酒を出してやる。火鉢を出した濡れ縁で、雪を眺めながら酒をのむ男の膝に華雨はごろん、と頭を乗せた。前にも一度、同じことをした覚えがある。頬をくっつけると男の膝はあたたかく、見上げるとやはり別所を白雨は見つめていた。衿からのぞいた白い喉元に目を細め、あそこに花を咲かせてみたいな、と思う。一度きりでよい。花は、一度であるのが美しい。
あのときは睡魔に負けたが、今日は続きがしたくなった。
『おい、白雨』
『なんだ』
『いつもそっぽばかり向きおってつまらん。少しはわたしを見よ』
華雨はわらい、獣のように男の首へ腕を回した。
降る雪が、あえかな吐息すら帳の向こうへと隠しゆく。
「はな。ちと、付き合え」
愛用の瓦硯に筆を置くと、東雲が立ち上がった。小姓に料紙を乾かしておくよう言って御簾をくぐる。手の甲で結局紅を拭っていた華雨は、身を起こすのが少し遅れた。
「付き合うってどこへだ?」
「まあ、ついてこい」
若葉色の衣を揺らす東雲は、春風のようである。どこか愉快げな東雲が気に食わず、華雨は紅を拭ったばかりの唇を尖らせた。
東都から戻ると、東雲は即位の準備に追われた。
正妃には、長年寵愛を受けた箏姫が立つ。夜伽が正妃となるは異例であったが、東雲はこればかりはことにする、と言って聞かなかった。捕えられた東方帝は年の初めに、北の狗島へ配流となった。百川をはじめとした東方の領主は西にくだり、新帝を中心にした国のかたちは急速に整えられようとしていた。
「あった。おい、はな。こっちだ」
先を歩いていた東雲が華雨の腕を引く。長く廃殿にされていた南殿のかたわらに、ひょろりと植わっていたのは、橘の若木だった。常磐緑の葉を茂らせた橘は、冬になると橙の実をたわわにつける。まだ植えられたばかりなのか、若木は盛り土の上でどこか危うげに風にそよいでいた。
「庭師が持っているのを見つけてな。俺がおとつい植えたんだ」
「ああ、道理で、ひよわそうな面をしているわけだ」
「ひよわとはなんだ」
東雲は眉根を寄せたが、かがむと思い直した風に橘の若木に触れた。
「覚えているか。乳母屋敷にも、橘がたくさん植わっていたろう。冬になると、どっさり実をつける」
「未だに乳母屋敷じゃ、そこらじゅうに茂っているよ」
何せ、このところ乳母屋敷に居候をしていた華雨である。満足に動けないこともあって、ひねもす庭を見ていたのだから間違いない。
幼い頃、東雲はやってくるたびあの庭で遊んでくれたものだった。
『取って。しののめ、取って』
乳母屋敷の橘は、冬になると丸い橙の実をあちこちにつける。齧っても酸っぱいだけの美味とは言えない実だったが、陽にあたる橙はたいそう美しく、幼いはなはこれが欲しい、と目を輝かせたのだった。木登りのうまいはなは、東雲に頼まずとも己が手で実をもぎとることだってできる。けれど、どうしても東雲に取って欲しかった。時折しか顔を見せない東雲に甘えたかったのかもしれない。
『ふうむ。高いな』
『できる? しののめ』
『ようし、待っておれ』
期待に頬を染めるはなの頭をくしゃりとかき回し、東雲は袖まくりをして橘の樹に手をかける。胸を高鳴らせ、はなは東雲の手が橘の実をもぎとるのを見守った。
「あのとき、おまえは樹から落っこちて骨を折ったのだったな」
「とめにもたいそう怒られたわ」
あれは恥ずかしゅうてかなわんかった、と首をすくめる東雲に、「わたしは驚いて死ぬかと思った」と華雨は言った。東雲が苦笑する。
「死ぬとは大げさな」
「本当だよ。なあ、東雲」
こごった息を吐き出す。華雨はしゃがんで、若木を挟み東雲と向かい合った。
「とめにはもう言ったんだが、実はな、身ごもったのだそうだ」
「なに?」
「この胎に、子がひとり入っているらしい」
紅の衣のうちをそっとさすって、華雨は言った。
東雲は眉をひそめる。
「誰の子だ」
「わたしのだよ。相手の男は知らん。退屈しのぎにあちこちで遊んだから、ようわからん」
一時瞼裏に、ましろい喉に噛み付いたときの味や、擦った膚のやわいぬくもりといったものがよぎったが、華雨はあえて口にしなかった。
華雨の胎に宿るは、獣とこの国いっとうの術師の子である。
白雨の子である。あるが、この子に父は知らせぬ。
華雨はひとり子を産み、育てる所存だった。
「やはり、根のほうがよくないな。一度抜くぞ」
言うが早いか、華雨は橘の若木を引っこ抜いた。
「おい、はな。何をする」
「浅すぎるんだよ。こんなんじゃ、しっかり根を張る前に倒れるぞ。もっと深く掘らんと」
東雲に若木を渡すと、髪を結わいて穴を掘り始める。日がな刀を握っている華雨の手は皮膚が固くできているので、小石混じりの土であっても深くまで掘っていける。獣がねぐらをこしらえるみたいに、瞬く間に大きな穴を作った華雨を東雲は呆れた風に見つめた。
「おまえは昔から、なんでもできるな」
「なにせ、狼の仔だからな」
「馬鹿め。俺の子だよ」
東雲の眸が、弓なりに細まる。
「おまえは、俺の子さ。山犬にも、何にもやらん」
そうして、「うまく掘ったな」と土で汚れた華雨の手を取り上げた。刀だこも肉刺もない、柔らかな両手にくるまれると、胸がいっぱいになってしまって、華雨はいつもうまく表情を作れなくなる。
「離せ」
呻いたが、東雲は聞こえぬふりをした。
この手で男の首を落とし、時に女子どもだとて容赦なくぶった斬って、屍の山をこさえてきた。華雨は、獣の仔である。情のない獣の仔である。命をくびり殺すも、いたぶるも、何も感じぬ。
けれど、おまえがわたしを呼ぶから。
その手でわたしを繋いだから。わたしは。
「橙の実をやれなかった俺をゆるせ、はな」
(いいや、ゆるさぬ)
と華雨は思った。
(一生、ゆるさぬ)
俯いた華雨が声を殺して嗚咽する間、東雲は包んだ手を離さなかった。
ずっと繋いで、離さなかった。
*
盛春と呼ぶにふさわしい、花天であった。
西方帝が皇子東雲、即位。のちの賢君、光明帝の誕生である。
かねてからの践祚ののち、高御座に坐した東雲は文武百官に即位の旨を宣布した。花が舞うなか、庭には百官が並び、色とりどりの旛もはためいて、さながら絵巻物の一幕である。鉦が打たれる。衣を翻して立ち上がる百官を東雲は見渡した。
新帝に沸く西都にして、人知れず都から離れる一軍があった。華雨である。数日前、華雨は即位の言祝ぎに東雲のもとへ訪れていた。親の顔もわからぬ卑しき生まれであるが、華雨は東雲が公言してはばからないひとり娘であり、こたびの東征では、大将百川千丞の首級をあげた。大手柄である。当然その場は、褒美の話になった。
「姓を与えてやってはいかがか」
西方の大将をつとめた篝が進言する。篝の腰元には、手垢のついた軍配が佩かれている。老軍師鵜飼は戦を見届けたのち、孫とともに故郷へ帰る途上で死んだ。故郷へたどりつくことはできなかったが、死に顔は晴れやかだったという。篝は、形見の軍配を即位礼のさなかも離さなかった。
めざましい戦功を挙げた者へ、主君から姓を授けるということはままある。そのような先例にのっとっての進言だったが、華雨のほうは取り立てて興を引かれた風でもなく飄としている。周囲の男どもに負けぬ勢いで大盃を一息に飲み干した華雨は、くるん、とそれをひっくり返して床に捨てた。
「姓などいらん。代わりにひとつ、よろしいか」
「なんだ」
「わたしに、土地をひとつくれ。名を、屑ノ原。東果ての曠野だ」
これには皆が度肝を抜かれた。
身の程知らずの願いもさることながら、よりにもよって屑ノ原である。
東征で、西が獲得した土地は多い。東であるなら、早良、鞠ノ井、百川の治めた『瓦』も半分が召し上げられたし、かつての東都などはすぐに直轄に置かれた。屑ノ原はその名のとおり、屑に過ぎぬと誰もが厭うた土地であった。
ひとつに、曠野である。風吹きすさぶばかりで見どころのない不毛の土地だった。
ふたつに、蜷と呼ばれる異民族と森林を境にして接する土地である。先の東征では傍観に徹した蜷であったが、再び南下の動きありとの噂が流れ、屑ノ原が前線となるだろうと目されていた。ゆえ、誰をあてがうかと頭を悩ませていたのだが、華雨は自らこれが欲しいのだという。
「屑か。しかし、何ゆえだ」
「何でもいいではないか。狼の仔がまた酔狂を起こしたと思えばいい」
「華雨」
ふざけまじりにのたまうと、東雲が眉をひそめた。華雨はやれやれと嘆息する。
「皆がいらんといっているものを欲しいという奴がいるんだぞ。これ幸いと押し付けちまえばいいじゃないか」
「おまえのことだから、どうせまた蜷と戦う気でいるんだろう。屑なぞで果てる気か」
「わたしは死なんよ、東雲」
琥珀の眸を伏せて、華雨はわらった。
「死なん。息の根が止まるまでは、死なん。そう決めたんだ」
「華雨」
「だって、おまえはまた走るんだろう? 東雲」
伏せた華雨の眸に金の月があった。
幼い頃、ふたりで見上げたあの月である。
「もういっぺん、わたしも走ってみるさ。走って、走って、走って、息の根が止まるまで、このでっかい曠野を駆け抜けてやる。どちらがより遠くまで駆けてゆけるか、だから『俺と』勝負だ、東雲!」
こぶしが頬を殴り飛ばす勢いで突き出される。らんらんと目を輝かせる華雨の背に、蒼い天が見えた。ふたりの間にしばし、時の奔流が駆け抜け、橙の実をねだる童女と袖まくりをする少年が立ち現われ、消えた。
「わかった」
丸めたこぶしに、手を打ち付ける。東雲の顔にもまた、晴れやかな笑みが浮かんだ。
「ならば、屑ノ原とかの地に住まう領民。すべておまえにやろう。俺は足が速いぞ、はな。おまえなんぞすぐに引き離してやるから」
「望むところさ」
「これからは、橘を名乗るがよい。橘は、とこしなえの樹だ。とこしなえに、おまえとおまえの血に連なる者を守るように」
青磁の器に花とともに飾られていた橘の枝を取ると、東雲は額づいた華雨にひとさし、差し出した。
「では、橘はとこしなえにあなたとあなたの血に連なる者を守ろう。あなたの御代がこの先も栄えますように」
しののめ、と華雨はもう言わなかった。受け取った橘を握り締めると、衣をさばき、その場をあとにする。華雨の去ったあとに一陣の風が吹く。
これが、今生の別れとなった。
*
華雨の胎に宿った子どもは、橘の実が色付く頃に屑ノ原で産み落とされた。
聡明そうな顔だちをした、おのこであった。
屑ノ原はのち、
その繁栄は、橘の名のとおり、長く続いた。
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